[改稿版]奴隷落ち予定の令嬢は公爵家に飼われました

茗裡

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第一部第一章

2 氷の貴公子

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「申し訳ございません、ディオン様。聞いておりませんでしたわ」
「はぁ……。君は、あんな場所で何をしていたのかと聞いているんだ」

 ディオンは大きく、わざとらしい溜め息を吐いた。

 校舎裏での出来事──。

 どうやら、見られていたらしい。

 あの場面を見られていたのなら、今さら言い逃れなどできない。

 ルナリアは小さく息を吐き、視線を落とした。

「ヒロ……アメリー嬢と、お話をしておりましたの」

 危ない。

 思わず“ヒロイン”と言いかけた言葉を、慌てて飲み込む。

「あんな大人数でか。それも、アメリー嬢以外の令嬢は君とよく一緒にいるご令嬢たちだったが」
「今日はやけに饒舌ですわね」
「質問に答えろ」

 柔らかそうな茶色の髪の奥から覗く、淡い水色の瞳が鋭く光る。

 ──氷の貴公子。

 そう呼ばれる所以が、そこにあった。

 寒色の鋭い瞳。
 他者を寄せ付けない冷たい空気。

 彼は滅多に言葉を発さない。
 話す相手は、ごく限られた者だけ。

 だからこそ、こうして矢継ぎ早に言葉を向けてくる今の状況は、珍しいと言えた。

(昔は……仲が良かったんだけどな)

 ふと、そんな思いが胸をよぎる。

 ルナリアは小さく息を整え、顔を上げた。

「貴方に取り繕っても無駄でしょうから、正直に申し上げますわ」

 もう、これ以上罪を重ねるつもりはない。

 ゲームの中でのルナリアは、ヒロインに対して悪行の限りを尽くしていた。

 陰口。
 嫌がらせ。
 執拗な追い詰め。

 そして──

 場合によっては、命に関わるような行為まで。

 ならず者をけしかける。
 階段から突き落とす。

 そんな結末に至る前に、前世の記憶を思い出せたのは、ある意味では幸運だったのかもしれない。

「わたくしが、無理に彼女たちにお願いして一緒に来ていただきましたの。アメリー嬢に危害を加えるつもりはありませんでしたけれど……少し脅すだけのつもりでしたわ」

 ルナリアの周囲に集まっていた令嬢たちは、皆、彼女より家格の低い家の娘たちだ。

 侯爵家令嬢であるルナリアの言葉に、逆らうことなどできない。

 たとえ彼女たちが自主的についてきたとしても──

 引き連れてきた時点で、責任はルナリアにある。

「君はすでに殿下の婚約者だろう。なぜアメリー嬢を目の敵にする」

 ディオンの問いに、ルナリアは一瞬だけ目を伏せた。

 そして、静かに答える。

「……だからですわ」

 本当に。

 男というものは。

 言葉を選ぶように視線を落としたルナリアに、ディオンは理解できないといった様子で首を傾げた。

「パトリス殿下は、アメリー嬢を好ましく思っておいでですわよね」
「……」
「わたくしは、それが我慢ならなかったのですわ」

 ディオンはわずかに眉をひそめた。

「だからといって、アメリー嬢を虐げるのは間違っていると私は思うが?」

 静かな声音だったが、その言葉ははっきりとした非難を含んでいた。

 滔々とした口調に、ルナリアは一瞬だけ目を伏せる。

「……そう、ですわね」

 パトリス・アルベール。

 この国の第二王子。
 そして──ルナリアの婚約者。

 彼の優しいところが好きだった。

 陽だまりのように柔らかな笑顔が、大好きだった。

 その隣に立てることが、幸せだった。

 婚約者として選ばれたあの日、胸がいっぱいになったことを、今でも覚えている。

 だが。

 その幸せは、泡沫のように消えてしまった。

 最近、彼が向けてくるのは冷たい視線ばかりだ。

 口を開けば、アメリーのこと。

 アメリーのこと。
 アメリーのこと。

 婚約者である自分よりも、彼はアメリーと共に行動している。

 そして──

 互いに愛を囁き合っている、という噂まで耳に入ってくる。

「それを……どうして許せましょうか……」

 ルナリアの声は、かすかに震えていた。

 十五年間。

 ルナリアとして生きてきた中で積み重なった、婚約者への想い。

 それが、胸の奥から溢れ出してくる。

 泣きたくなどないのに。

 それでも、涙は止まらなかった。

 ルナリアは慌てて視線を逸らし、言葉を続ける。

「安心してくださいませ。わたくしは、もうアメリー嬢に手を出しませんわ」

 声を整えながら、必死に言葉を紡ぐ。

「仲良くしていただいている令嬢たちにも、わたくしからよく言って聞かせますので……ご安心を」

 震える身体を抑え込むように、ルナリアは右手を左手で強く握った。それでも、指先は冷たく震えていた。

 爪が食い込むほど力を込める。

 ──笑え。

 ルナリアは自分に言い聞かせる。

 気合いで笑顔を作る。

 涙の気配を押し込めるように、早口で言葉を続けた。

 ディオンが口を挟む隙すら与えないほどに。

「来たるべき日の断罪は、甘んじてお受け致します。殿下にもお伝えくださいませ。それでは──失礼させていただきますわ」
「おい……」

 ディオンの呼び止める声を背に、ルナリアは深く頭を下げた。

 そしてそのまま、素早く保健室を後にする。

 長く続く廊下を、淑女とは思えない大股で歩いた。

 放課後だからか、人の姿はない。
 誰にも出くわさなかったのは幸いだった。

「あー……何これ。つら……」

 ぽつりと零した言葉と同時に、涙が溢れる。

 気付けば、滅多に人の通らない非常階段まで来ていた。

 ここなら、誰にも見つからない。

 ルナリアは階段に背を預け、小さく息を吐いた。

「悪役令嬢も……一生懸命なだけだったんだけどな……」

 ずっと想いを寄せていた人が、自分を見てくれない。

 それは、誰にとっても辛いことだ。

 婚約者という立場など、所詮は契約に過ぎない。

「そこに愛がなければ……虚しいだけじゃない……」

 最初は、自分の中に芽生えた黒い感情に戸惑った。

 嫉妬。
 怒り。
 そして、醜い感情。

 そんな自分が嫌で、何度も嫌悪した。

 それでも。

 ヒロインに向ける嫉妬は、膨れ上がるばかりだった。

 そして──

 とうとう、耐えきれずに手を出してしまった。

「……その時点で、わたくしの運命は決まってしまったのよね」

 嫉妬に狂った悪役令嬢、ルナリアが辿る運命。

 一ヶ月後。

 王家主催の夜会で、彼女は婚約破棄を言い渡される。
 そして実家から勘当され、平民へと落とされる。

 生粋のお嬢様として育ったルナリアに、一人で生きる術などあるはずもない。

 やがて彼女は人買いに捕まり──

 競りにかけられ。

 そして、奴隷へと堕ちていく。

「奴隷は……嫌だなぁ」

 ルナリアは階段に座り込み、膝を抱えた。スカートが汚れることなど、もうどうでもいい。

 しかし。
 これはすべて、自分が引き起こしたことだ。

 どこかで精算しなければならない。そう思った。

「まあ……平民になったら、すぐ働けそうなところを今から探しておけば……大丈夫……だよね」

 涙を袖で拭いながら、ルナリアは小さく呟いた。

 その言葉は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
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