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二章
13話目
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メアリーが一人ぼっちになったのは、とても天気が良い春の日のことだった。雲一つなく晴れた日の空気が気持ち良くて、家の近くの草むらで、夕暮れ近くまで遊び回った。町外れの小さな小屋の側に寄付くような物好きはめったにいない。幼かったメアリーは、いつもたった一人で遊んでいた。
駆け回るのにも飽きて風に揺れる草をぼんやり眺めているうちに、気がつけば影が長く伸びていた。夜には恐い獣が子供を食べにやってくるから、暗くなる前に家に帰らないといけない。教会の神父様に言われた言葉を思い出し、スカートの下の小さな尻尾を丸めて家に駆け戻った。
家の中には〝お父さん〟も〝お母さん〟もいたけれど、「おかえり」とは言ってもらえなかった。大きな荷物を抱えて出かけようとする二人に「どこに行くの」と尋ねた。目を合わせてくれない〝お母さん〟の袖を引いて、「私もつれていって」と頼んだ。〝お母さん〟は何も言わずにメアリーの手を振り払い、そのまま家を出てしまった。〝お父さん〟の姿は、その時にはもう道の向こうに消えようとしていた。
〝お父さん〟が向かったのと別の道を選んだ〝お母さん〟は、一度だけ足を止めて振り向いた。「あなたは連れていけないの」と、そんな悲しいことを言うためだけにその唇を開いた。
どうしてと泣いても、〝お母さん〟はもう足を止めてはくれなかった。日暮れの薄暗い小屋の中に、幼いメアリーだけが残された。
その時の〝お母さん〟がどんな顔をしていたのか、メアリーは覚えていない。すぐに忘れることにしたから。一人でも平気。それなりに楽しく生きていける。でもそのためには、悲しい記憶は忘れてしまわないといけない。メアリーを愛してくれなかった〝お父さん〟も、メアリーを置いていくことを選んだ〝お母さん〟も。
記憶の底に沈めて、固くきつく蓋をして。全部忘れて、その日生きることだけを考えていけばいい。色々なことを考え過ぎるのはよくないことだ。だって気づいてしまうから。自分は要らない子供だったのだと、とても悲しい事実を知ってしまうから――。
***
瞳に溜まった涙を押しとどめることが出来ず、頬を濡らす。ごめんなさいと謝罪を紡ぐ声は、消え入りそうな程に小さくなった。
「泣くなよ。泣きたいのはこっちの方だ」
唸るような声に、ひくりと肩が揺れる。ごめんなさいともう一度呟いて、小さくしゃくり上げる。ルドルフの言う通り、メアリーには涙を流す権利はない。分かっているのにどうしても涙を止められない。大きな手のひらに拭ってもらった頬を、また次の涙が濡らしていく。
呆れたため息が落とされるのと同時に、ソファに沈んでいた身体が引き起こされた。シャツに覆われた胸板に顔を埋め、優しく背中をさすられる。
「泣くなよ。……もう怒ってないから」
「ちがうの」
「何が違うんだよ」
「わからないけど、でもちがうの」
怒られたと思って泣いた訳ではない。でも、どうして自分が泣いているのかも分からない。遠い昔に忘れてしまった感情が溢れてしまいそうで、深く考えるのが怖かった。涙の滲む瞳でルドルフを見上げる。そこにいるのは間違いなくルドルフで、少し困ったように眉を上げる顔も変わらない。
ルドルフの纏う仕立ての良いシャツが手に触れる。さらりと手触りの良い生地は、これまで触れたことのあるどんな生地より上等な物だ。短く切り揃えられた襟足から、知らない匂いが香っている。
(これも、ちがう……)
メアリーの知るルドルフからは、土と草の匂いがしていた。天気の良い日は太陽の匂い。雨が降れば雨の匂い。洗濯をした日は、石鹸の匂い。それから少しの、汗の匂い。自然の匂いを全身に纏って、可笑しそうに、意地悪そうに――幸せそうに、笑っていた。
そんな彼が好きだった。好きで、好きで、大好きで。こんな自分から、いつか逃がしてあげなければと思っていた。逃がしてあげようと、思っていたのに。
「……帰りたい」
「メアリー?」
押し込めていた想いの一部が、涙と一緒に溢れ出した。
「ルディと一緒に、帰りたい」
一度溢れた想いは、涙と同じで簡単には止まってくれない。
「ルディがいない家はつまらない」
ぼんやり過ごしているうちに、気がつけば一日が終わってしまう。
「ご飯だって美味しくない」
同じ物を食べているはずなのに、一人で食べるとひどく味気なく感じる。
「もうずっと、ベッドが冷たいままなの」
毛布に包まるだけでは、冷えた身体は温まらない。
「こんなこと思わなかったのに。一人でも平気だったのに。そんな感情ずっと忘れてたはずなのに」
ごめんなさいともう一度呟いて、ずるい言葉を吐き出した。
「……さみしい」
ルドルフの眉間に、小さな皺が寄る。引き結ばれていた唇が開かれ、白く鋭い歯が覗く。
「俺だって一緒に帰りたい。帰りたい、けど」
拒絶の言葉を覚悟していたのに、優しい声に耳を擽られた。少し掠れた、低い声。いつもと同じ声に、甘さではなく苦さが混じる。
「今は無理だ」
「どうして?」
「今の俺じゃ、あんたを守れない」
「私が、考え無しに書類にサインしたから……?」
「それもある。でも本当の問題はそこじゃないんだ」
「ルディ……?」
もう一度抱き寄せられて、硬い胸板に顔を埋める。耳を寄せた胸元から聞こえる鼓動は力強く、メアリーのものより少し早い。
「ちゃんと帰るから。きっとすぐに片が付くから。だから今は大人しく、あの家で待ってて」
こちらの胸が締め付けられそうな切ない声を出すものだから、黙って頷くことしかできなかった。
駆け回るのにも飽きて風に揺れる草をぼんやり眺めているうちに、気がつけば影が長く伸びていた。夜には恐い獣が子供を食べにやってくるから、暗くなる前に家に帰らないといけない。教会の神父様に言われた言葉を思い出し、スカートの下の小さな尻尾を丸めて家に駆け戻った。
家の中には〝お父さん〟も〝お母さん〟もいたけれど、「おかえり」とは言ってもらえなかった。大きな荷物を抱えて出かけようとする二人に「どこに行くの」と尋ねた。目を合わせてくれない〝お母さん〟の袖を引いて、「私もつれていって」と頼んだ。〝お母さん〟は何も言わずにメアリーの手を振り払い、そのまま家を出てしまった。〝お父さん〟の姿は、その時にはもう道の向こうに消えようとしていた。
〝お父さん〟が向かったのと別の道を選んだ〝お母さん〟は、一度だけ足を止めて振り向いた。「あなたは連れていけないの」と、そんな悲しいことを言うためだけにその唇を開いた。
どうしてと泣いても、〝お母さん〟はもう足を止めてはくれなかった。日暮れの薄暗い小屋の中に、幼いメアリーだけが残された。
その時の〝お母さん〟がどんな顔をしていたのか、メアリーは覚えていない。すぐに忘れることにしたから。一人でも平気。それなりに楽しく生きていける。でもそのためには、悲しい記憶は忘れてしまわないといけない。メアリーを愛してくれなかった〝お父さん〟も、メアリーを置いていくことを選んだ〝お母さん〟も。
記憶の底に沈めて、固くきつく蓋をして。全部忘れて、その日生きることだけを考えていけばいい。色々なことを考え過ぎるのはよくないことだ。だって気づいてしまうから。自分は要らない子供だったのだと、とても悲しい事実を知ってしまうから――。
***
瞳に溜まった涙を押しとどめることが出来ず、頬を濡らす。ごめんなさいと謝罪を紡ぐ声は、消え入りそうな程に小さくなった。
「泣くなよ。泣きたいのはこっちの方だ」
唸るような声に、ひくりと肩が揺れる。ごめんなさいともう一度呟いて、小さくしゃくり上げる。ルドルフの言う通り、メアリーには涙を流す権利はない。分かっているのにどうしても涙を止められない。大きな手のひらに拭ってもらった頬を、また次の涙が濡らしていく。
呆れたため息が落とされるのと同時に、ソファに沈んでいた身体が引き起こされた。シャツに覆われた胸板に顔を埋め、優しく背中をさすられる。
「泣くなよ。……もう怒ってないから」
「ちがうの」
「何が違うんだよ」
「わからないけど、でもちがうの」
怒られたと思って泣いた訳ではない。でも、どうして自分が泣いているのかも分からない。遠い昔に忘れてしまった感情が溢れてしまいそうで、深く考えるのが怖かった。涙の滲む瞳でルドルフを見上げる。そこにいるのは間違いなくルドルフで、少し困ったように眉を上げる顔も変わらない。
ルドルフの纏う仕立ての良いシャツが手に触れる。さらりと手触りの良い生地は、これまで触れたことのあるどんな生地より上等な物だ。短く切り揃えられた襟足から、知らない匂いが香っている。
(これも、ちがう……)
メアリーの知るルドルフからは、土と草の匂いがしていた。天気の良い日は太陽の匂い。雨が降れば雨の匂い。洗濯をした日は、石鹸の匂い。それから少しの、汗の匂い。自然の匂いを全身に纏って、可笑しそうに、意地悪そうに――幸せそうに、笑っていた。
そんな彼が好きだった。好きで、好きで、大好きで。こんな自分から、いつか逃がしてあげなければと思っていた。逃がしてあげようと、思っていたのに。
「……帰りたい」
「メアリー?」
押し込めていた想いの一部が、涙と一緒に溢れ出した。
「ルディと一緒に、帰りたい」
一度溢れた想いは、涙と同じで簡単には止まってくれない。
「ルディがいない家はつまらない」
ぼんやり過ごしているうちに、気がつけば一日が終わってしまう。
「ご飯だって美味しくない」
同じ物を食べているはずなのに、一人で食べるとひどく味気なく感じる。
「もうずっと、ベッドが冷たいままなの」
毛布に包まるだけでは、冷えた身体は温まらない。
「こんなこと思わなかったのに。一人でも平気だったのに。そんな感情ずっと忘れてたはずなのに」
ごめんなさいともう一度呟いて、ずるい言葉を吐き出した。
「……さみしい」
ルドルフの眉間に、小さな皺が寄る。引き結ばれていた唇が開かれ、白く鋭い歯が覗く。
「俺だって一緒に帰りたい。帰りたい、けど」
拒絶の言葉を覚悟していたのに、優しい声に耳を擽られた。少し掠れた、低い声。いつもと同じ声に、甘さではなく苦さが混じる。
「今は無理だ」
「どうして?」
「今の俺じゃ、あんたを守れない」
「私が、考え無しに書類にサインしたから……?」
「それもある。でも本当の問題はそこじゃないんだ」
「ルディ……?」
もう一度抱き寄せられて、硬い胸板に顔を埋める。耳を寄せた胸元から聞こえる鼓動は力強く、メアリーのものより少し早い。
「ちゃんと帰るから。きっとすぐに片が付くから。だから今は大人しく、あの家で待ってて」
こちらの胸が締め付けられそうな切ない声を出すものだから、黙って頷くことしかできなかった。
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