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【宝石少年と霧の国】
コーパル
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客間の中央には、今さっき作られたのではと思える六人がけのソファがあった。アンブルはその一つに腰を下ろし、パチンと指を鳴らす。すると、ソファに囲われて置かれたテーブルに六つ、大きな蕾が現れた。それが咲くと、紅茶が入ったカップが現れる。
「お座り。お前は私の隣においで」
向けられた視線にビクッと肩を震わせた男は、ぎこちなく頷いてソファへ浅く座った。全員が座った頃、落ち着きの無い彼へアンブルはフッと笑った。
「そんなに怖がらないでいい。ここは獣人たちが多いが、何も取って食ったりしないよ。少なくとも、私たちはお前に何もしない」
「……、……」
「それにあの子たちは、お前の手当てをしたんだよ?」
「手当て……?」
男は包帯の巻かれた腕を見て、自身の怪我を理解したようだ。示されたジプスとアガットに視線を向けると、ジプスは戸惑いながらも淡く笑みを浮かべる。アガットはいつもと変わらない華やかな笑顔を見せた。
「貴方、朝に森の入り口で倒れていらしたのよ。覚えていらっしゃらないの?」
「ああ、覚えてない」
「それだけじゃないさ。どうやら、全て覚えていないようだよ」
「全て? 記憶喪失……という事でしょうか?」
「ほ、本当ですか師匠?」
ジプスは少し疑い深そうに、身構えて小さく尋ねる。男は疑いの視線に居心地が悪そうだ。思わず逃げようと意識を外した時、別方向からの視線に気付く。それはルルからだった。
見た事のない虹の瞳。まるで体の中心を掴まれているようで、身動きができない。
『多分、本当だよ。この人からは、警戒心と、不安しか感じない』
「その通りだ。記憶を読み取ろうとしたが、無理だったよ」
「どうやったら戻るのかしら? そういえば、衝撃を与えると戻ると言いますわね。例えば頭をぶつけるとかどうですか?」
「そ、それは流石にやめてあげて」
「ははは、物騒な事はおやめ。だけどまぁ、事故からの記憶喪失だろう。誰かの手が加わっているのを感じなかった。自然に治る。思い出す頃には、怪我も良くなっているさ」
アンブルは男の頭に手を置き、少し傷んだ黒髪をわしゃわしゃと撫でる。男はもう四十は超えている。そうなれば当然、記憶があろうが無かろうが、頭を撫でられるなんて母にもされないだろう。
彼はどこか小っ恥ずかしそうな、居た堪れない顔をする。一番歳の近そうなアウィンへ救いの視線を向けるが、彼は苦笑いを返した。
「さあ、そうなると名前を決めないといけないね」
「名前……?」
「本当の名前が分かるまでの呼び名さ。いつまでも名無しじゃ、呼ぶのに困る」
「確かにそうですね」
「何がいい?」
「そ、そう言われても」
男は難しそうに首をひねって小さく唸る。急に呼び名をと言われても、無理な話だ。
親が子に授ける名の多くは、宝石から成り立っている。それは自然の加護を受け、健やかに育つようにという願いからだ。出会ったばかりの相手へでも、簡単には付けられない。
するとアンブルは、その少しヒゲのある顎を持ち、グイッと自分の方へ向かせた。男は突然の事に何度も目を瞬かせる。その瞳をよく見れば、やつれて霞みながらも、とても美しい濃厚で鮮やかな金色をしていた。アンブルの瞳の色が混ざって、より深く見える。
「お前のその色……とても綺麗だ。琥珀を水に透かしたようだね。そうだ。ルル、何か見えないかい?」
『ん、え? 僕?』
まさか名指しされるとは思ってなかった。そのせいか、頭の声はぎこちない。
「考えてもごらん。訳あり男には、たくさんの加護が必要だろう? 坊やが見合った名前を思い付けば、充分に授かると思わないかい?」
それはおそらく、世界の王だからだろう。アンブルは、彼が王として扱われるのが嫌だと分かって、言っているのだ。ルルが頬を膨らませる真似をすると、案の定面白そうにクスクスと笑った。しかし本当にこれで加護がついて助けになるのなら、その力は利用させてもらおう。
ルルは背の低いテーブルを乗り越え、男の頬を両手で包む。いきなり何だと、彼は体を硬直させた。
「ルルは目が見えないのです。貴方の顔を知りたいのでしょう」
「あ、あぁ、そうか」
そう言われれば大人しくするしかないが、絶えず動く虹の色には落ち着かない。胸元がざわざわとする。しかし見惚れるほど美しいのも事実で、目線は外せない。
一方で、ルルは難しそうに目を細める。見えると言われても、何も見えないのが事実。男の顔は理解できた。頬骨が分かるくらいの痩せ気味で、チクチクとヒゲがくすぐったい。掘りが深くて、大人っぽい印象だ。
細い指先が、閉じた瞼下を掠める。アンブルは、彼の目が何色だと言っただろう?
(琥珀……綺麗な金色)
その時、色の存在しない頭の中に、ポツンと何かが落ちてきた。それは、目の奥でキラリと黄金に輝く。
『──コーパル』
「なんだって?」
呟きに男は恐る恐る目を開ける。しかし驚きに声を出したのは、彼ではなくアンブルだった。彼女は目を丸くしてルルを見る。
「どうしてその名前にしたんだい?」
『頭の中に、落ちてきたのが、その石だったから』
コーパルは、琥珀が出来上がる過程の途中の石だ。濃密な茶色の琥珀よりも淡く、濃い金色で美しい。
「……お前さんは? どうだい」
男は薄青い手が離れた自分の顔に触れる。何故だか不思議と、その名は嫌ではなかった。なんだか、元からその名であったように、心の中に溶けていく。
「嫌では、ない」
「そうか」
しかしアンブルの声は、何やら考え込んでいるように低い。ルルは首をかしげる。
『ダメだった?』
「…………いいや、坊やが見えたんだ。きっと正しい。よし、コーパル。お前は体を綺麗にしておいで。ジプス、案内してあげなさい」
「はい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「どうした。水は苦手かい」
「そうじゃない。何故俺を、警戒しない? さっきの言葉だってまるで、記憶が戻るまでここに居ていいと言うような」
「そう言ったんだよ」
コーパルは当然に返ってきた答えに唖然とし、次の言葉を作ろうとした口を無意味に動かした。アンブルは紅茶をひと口優雅に飲み、静かに微笑む。
「何もできない相手を、縛るような真似はしないさ。ただし、森に危害を加えるるのなら、それなりに応えるから覚えておきなさい。お前さんが招かれざる客じゃなければ、私たちは客人としてもてなすだけ。それに、この家が追い出さないんだ」
「それだけか?」
「ここでは充分さ。さあ、行きなさい。体を洗ったあとはまたおいで」
「……分かった」
まだ不服そうだったが、コーパルは先を進んだジプスのあとを追った。
カーテンの閉まった窓際に飾られた砂時計がクルクルと周り、砂が下へ全て落ちた。すると、ガラスに閉じ込められた砂の中から芽が生え、蕾が付き、可愛らしい薔薇が花開く。色は夜空の色だ。
「ああ、もうこんな時間か」
『どのくらい?』
「もう夜中だよ。バタバタしていたせいか、日が変わってしまったね」
時間経過を今初めて知ったルルは、驚いてアウィンを見た。夜だと気付かなかったのは、単に見えないからではない。彼が普通に歩いていたのもあったのだ。
アンブルは彼へ視線を向ける意味を理解したのか、席を立ち上がる。
「アウィンには薬を飲ませたんだよ」
『薬?』
「私は魔女をしていると言ったろう?」
『うん』
「魔女にも色々居てね。一通りの魔術はできるが、私が特別得意なのは、薬作りさ」
漁っていた棚から、いくつかの小瓶が取り出される。どれもが呪術の模様を細かく刻んだ瓶だ。アンブルはそれを持ってテーブルに戻り、一つをルルに選ばせた。薄青い指が示した赤い瓶をひっくり返すと、コロコロと種が出て来た。親指の爪ほどで、少し重たい。
種を小さな宝石の粒が敷き詰められた皿の上に置く。水差しからキラキラとした水が、宝石と種を濡らした。皿をアンブルの手が包む。彼女は空気を引っ張るように、クイッと手を上へ引き上げた。するとまるで手の動きに操られるかのように、種が震え、芽が顔を出した。
「こいつには、いろんな薬品と魔術を詰めているんだよ」
芽はそれ以上伸びず、すぐに大きな蕾となった。アンブルは両手で蕾を覆い、払うように退ける。蕾は再び動きに従い、音も無く花びらを開かせた。辺りに甘い香りがふわりと漂い、ルルは開花を理解した。
『花?』
「ああ、これが私の薬だよ。飲ませたのは、義手や義足なんかの、動けない物を意識によって動かせるものだ」
アンブルは淡いピンクの花をルルの髪に飾った。ルルは目を輝かせてアウィンを見上げる。
『じゃあこれからは、夜を心配しなくて、いいの?』
「いや、坊やの足の事情はずいぶんと特殊だから、一時的だよ。そろそろ効果も切れる」
『そっか……』
少し残念そうに俯いたルルの頭に、アウィンの手がポンと置かれる。彼の表情はとても穏やかで、どこか満足そうだった。
「動けたおかげで、いち早く貴方に怪我が無いか確かめられました。ほら、友の足も、夜は寝ろと言っているでしょう?」
『ん……そうだね』
彼の声色に安心したように、ルルは心地良さそうに目を閉じる。アンブルはその様子に微笑み、散りはじめた砂時計の薔薇を見て立ち上がった。
「さあ、坊やたちは旅で疲れているだろう。早くお眠り。アウィンはここを自由に使いなさい」
「ありがとうございます」
「ルルはおいで。部屋に案内しよう」
『うん。おやすみ、アウィン』
「おやすみルル。良い夢を」
ルルはアウィンにギュッと抱きつく。アウィンは絹のような髪を優しく撫で、前髪に隠れた額に口づけをした。ルルはくすぐったそうにふふっと息を零し、満足したのか体を離す。そして壁に作った扉の前で待つアンブルへ駆け寄り、差し伸べられた手を取ってq扉をくぐった。
ルルは案内された部屋のベッドに腰を下ろす。天蓋が蕾のようで、ふかふかとしていて寝心地が良さそうだ。
「部屋の使い方は分かったね? 何かあったら言うんだよ。木に言って部屋まで案内してもらうといい」
すると出て行こうとしたアンブルは、何か思い出したように足を止め、ベッドを堪能しているルルに振り返る。向けられた瞳は優しくも、どこか鋭く感じた。
「坊やはあの子の事、どう思う?」
ルルは抑えるような低い声に、目を瞬かせる。しばらくの間、虹の目は考え込むように足元に向けられた。
『……味方かどうかは、分からない。でも、敵ではないよ』
ルルは彼を初めて見た時を思い出す。そして何故木が、わざわざアンブルたちが居る部屋ではなく、彼の眠る場に降ろしたのかをなんとなく理解した。木は迷っていたのだ。彼を迎え入れてもいいかどうか。だから他者の、王の意見が欲しかったのだ。
『あの人、人間だけど、人間以外がある。変な匂いがするの。でも、悪意は無いから。それに、自分の事が、分からないって……とても、不安だと思うから』
全て、感じたままに言った。するとアンブルは、付け加えられた言葉に一瞬キョトンとし、ふっと可笑しそうに笑う。
「その通りだ。迷い子に意地悪は酷だね。おやすみルル」
『うん、おやすみアンブル』
扉は彼女の姿を隠すと、あっという間に元の壁へ変化した。ルルはベッドに寝転ぶ。とても広い。ベッドが部屋の三分の一を占めているだろう。試しに、ゴロゴロと端から端を往復してみた。アウィンのような、二メートル近い高身長が寝ても余裕だろう。このベッドならば、寝相が酷くても落ちる心配は無さそうだ。
ルルはベッドから起き上がり、部屋を一通り手で触って回った。家具はシンプルだが、全て花や蕾、木ノ実がなっていたり、蔓草が覆っている。大きなベッドと小さなローテーブルが一つ。窓の近くに砂時計が置かれた広い机があった。本を書くのにちょうど良さそうな机だ。
(椅子に、何か物がある?)
ぼんやり見える無機物の気配に首をかしげ、手探りで触れてみる。それは慣れ親しんだ物だった。マントと仮面とカバンだ。
(良かった。ここに、置いてくれていたんだ)
ルルは畳まれたマントを、壁の蔓に掛ける。そして気を取り直すように、本とガラスペンを取り出し、真新しいページに『イリュジオン』と記した。今の記憶を頼りに、部屋を小さな図として描く。
(ここは、どんな国かな。人間が少ない国は、久しぶりだから……楽しみ)
ルルは髪に飾られた花を取り、鼻に近付ける。そり返った花びらは途中から透けていて美しく、香りも涼やかでいい。美味しそうだが、これはおやつではなく薬。一体どんな薬だろう。またあとで聞かなければ。
ルルは席を立ち、机に咲いた花の僅かに開かれている花びらをツンと突いた。すると蕾のように花びらは閉じ、部屋が一気に暗くなる。これが照明なのだ。空気に触れていると、雌しべが光るのだそうだ。刺激によって身を守るように花が閉じ、光もまた消える。
(外にも、咲いてるのかな?)
新しい事を知れば、今すぐにでも確かめたくなる。だがルルは首を振って、なんとか好奇心を沈めた。夜にちゃんと寝なければ、明日が台無しになってしまう。
ルルはベッドの中へボフンと倒れ、剣を抱きしめて丸くなる。緑の香りは安らぎで包み、すぐに彼を夢の中へと連れて行った。
「お座り。お前は私の隣においで」
向けられた視線にビクッと肩を震わせた男は、ぎこちなく頷いてソファへ浅く座った。全員が座った頃、落ち着きの無い彼へアンブルはフッと笑った。
「そんなに怖がらないでいい。ここは獣人たちが多いが、何も取って食ったりしないよ。少なくとも、私たちはお前に何もしない」
「……、……」
「それにあの子たちは、お前の手当てをしたんだよ?」
「手当て……?」
男は包帯の巻かれた腕を見て、自身の怪我を理解したようだ。示されたジプスとアガットに視線を向けると、ジプスは戸惑いながらも淡く笑みを浮かべる。アガットはいつもと変わらない華やかな笑顔を見せた。
「貴方、朝に森の入り口で倒れていらしたのよ。覚えていらっしゃらないの?」
「ああ、覚えてない」
「それだけじゃないさ。どうやら、全て覚えていないようだよ」
「全て? 記憶喪失……という事でしょうか?」
「ほ、本当ですか師匠?」
ジプスは少し疑い深そうに、身構えて小さく尋ねる。男は疑いの視線に居心地が悪そうだ。思わず逃げようと意識を外した時、別方向からの視線に気付く。それはルルからだった。
見た事のない虹の瞳。まるで体の中心を掴まれているようで、身動きができない。
『多分、本当だよ。この人からは、警戒心と、不安しか感じない』
「その通りだ。記憶を読み取ろうとしたが、無理だったよ」
「どうやったら戻るのかしら? そういえば、衝撃を与えると戻ると言いますわね。例えば頭をぶつけるとかどうですか?」
「そ、それは流石にやめてあげて」
「ははは、物騒な事はおやめ。だけどまぁ、事故からの記憶喪失だろう。誰かの手が加わっているのを感じなかった。自然に治る。思い出す頃には、怪我も良くなっているさ」
アンブルは男の頭に手を置き、少し傷んだ黒髪をわしゃわしゃと撫でる。男はもう四十は超えている。そうなれば当然、記憶があろうが無かろうが、頭を撫でられるなんて母にもされないだろう。
彼はどこか小っ恥ずかしそうな、居た堪れない顔をする。一番歳の近そうなアウィンへ救いの視線を向けるが、彼は苦笑いを返した。
「さあ、そうなると名前を決めないといけないね」
「名前……?」
「本当の名前が分かるまでの呼び名さ。いつまでも名無しじゃ、呼ぶのに困る」
「確かにそうですね」
「何がいい?」
「そ、そう言われても」
男は難しそうに首をひねって小さく唸る。急に呼び名をと言われても、無理な話だ。
親が子に授ける名の多くは、宝石から成り立っている。それは自然の加護を受け、健やかに育つようにという願いからだ。出会ったばかりの相手へでも、簡単には付けられない。
するとアンブルは、その少しヒゲのある顎を持ち、グイッと自分の方へ向かせた。男は突然の事に何度も目を瞬かせる。その瞳をよく見れば、やつれて霞みながらも、とても美しい濃厚で鮮やかな金色をしていた。アンブルの瞳の色が混ざって、より深く見える。
「お前のその色……とても綺麗だ。琥珀を水に透かしたようだね。そうだ。ルル、何か見えないかい?」
『ん、え? 僕?』
まさか名指しされるとは思ってなかった。そのせいか、頭の声はぎこちない。
「考えてもごらん。訳あり男には、たくさんの加護が必要だろう? 坊やが見合った名前を思い付けば、充分に授かると思わないかい?」
それはおそらく、世界の王だからだろう。アンブルは、彼が王として扱われるのが嫌だと分かって、言っているのだ。ルルが頬を膨らませる真似をすると、案の定面白そうにクスクスと笑った。しかし本当にこれで加護がついて助けになるのなら、その力は利用させてもらおう。
ルルは背の低いテーブルを乗り越え、男の頬を両手で包む。いきなり何だと、彼は体を硬直させた。
「ルルは目が見えないのです。貴方の顔を知りたいのでしょう」
「あ、あぁ、そうか」
そう言われれば大人しくするしかないが、絶えず動く虹の色には落ち着かない。胸元がざわざわとする。しかし見惚れるほど美しいのも事実で、目線は外せない。
一方で、ルルは難しそうに目を細める。見えると言われても、何も見えないのが事実。男の顔は理解できた。頬骨が分かるくらいの痩せ気味で、チクチクとヒゲがくすぐったい。掘りが深くて、大人っぽい印象だ。
細い指先が、閉じた瞼下を掠める。アンブルは、彼の目が何色だと言っただろう?
(琥珀……綺麗な金色)
その時、色の存在しない頭の中に、ポツンと何かが落ちてきた。それは、目の奥でキラリと黄金に輝く。
『──コーパル』
「なんだって?」
呟きに男は恐る恐る目を開ける。しかし驚きに声を出したのは、彼ではなくアンブルだった。彼女は目を丸くしてルルを見る。
「どうしてその名前にしたんだい?」
『頭の中に、落ちてきたのが、その石だったから』
コーパルは、琥珀が出来上がる過程の途中の石だ。濃密な茶色の琥珀よりも淡く、濃い金色で美しい。
「……お前さんは? どうだい」
男は薄青い手が離れた自分の顔に触れる。何故だか不思議と、その名は嫌ではなかった。なんだか、元からその名であったように、心の中に溶けていく。
「嫌では、ない」
「そうか」
しかしアンブルの声は、何やら考え込んでいるように低い。ルルは首をかしげる。
『ダメだった?』
「…………いいや、坊やが見えたんだ。きっと正しい。よし、コーパル。お前は体を綺麗にしておいで。ジプス、案内してあげなさい」
「はい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「どうした。水は苦手かい」
「そうじゃない。何故俺を、警戒しない? さっきの言葉だってまるで、記憶が戻るまでここに居ていいと言うような」
「そう言ったんだよ」
コーパルは当然に返ってきた答えに唖然とし、次の言葉を作ろうとした口を無意味に動かした。アンブルは紅茶をひと口優雅に飲み、静かに微笑む。
「何もできない相手を、縛るような真似はしないさ。ただし、森に危害を加えるるのなら、それなりに応えるから覚えておきなさい。お前さんが招かれざる客じゃなければ、私たちは客人としてもてなすだけ。それに、この家が追い出さないんだ」
「それだけか?」
「ここでは充分さ。さあ、行きなさい。体を洗ったあとはまたおいで」
「……分かった」
まだ不服そうだったが、コーパルは先を進んだジプスのあとを追った。
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「ああ、もうこんな時間か」
『どのくらい?』
「もう夜中だよ。バタバタしていたせいか、日が変わってしまったね」
時間経過を今初めて知ったルルは、驚いてアウィンを見た。夜だと気付かなかったのは、単に見えないからではない。彼が普通に歩いていたのもあったのだ。
アンブルは彼へ視線を向ける意味を理解したのか、席を立ち上がる。
「アウィンには薬を飲ませたんだよ」
『薬?』
「私は魔女をしていると言ったろう?」
『うん』
「魔女にも色々居てね。一通りの魔術はできるが、私が特別得意なのは、薬作りさ」
漁っていた棚から、いくつかの小瓶が取り出される。どれもが呪術の模様を細かく刻んだ瓶だ。アンブルはそれを持ってテーブルに戻り、一つをルルに選ばせた。薄青い指が示した赤い瓶をひっくり返すと、コロコロと種が出て来た。親指の爪ほどで、少し重たい。
種を小さな宝石の粒が敷き詰められた皿の上に置く。水差しからキラキラとした水が、宝石と種を濡らした。皿をアンブルの手が包む。彼女は空気を引っ張るように、クイッと手を上へ引き上げた。するとまるで手の動きに操られるかのように、種が震え、芽が顔を出した。
「こいつには、いろんな薬品と魔術を詰めているんだよ」
芽はそれ以上伸びず、すぐに大きな蕾となった。アンブルは両手で蕾を覆い、払うように退ける。蕾は再び動きに従い、音も無く花びらを開かせた。辺りに甘い香りがふわりと漂い、ルルは開花を理解した。
『花?』
「ああ、これが私の薬だよ。飲ませたのは、義手や義足なんかの、動けない物を意識によって動かせるものだ」
アンブルは淡いピンクの花をルルの髪に飾った。ルルは目を輝かせてアウィンを見上げる。
『じゃあこれからは、夜を心配しなくて、いいの?』
「いや、坊やの足の事情はずいぶんと特殊だから、一時的だよ。そろそろ効果も切れる」
『そっか……』
少し残念そうに俯いたルルの頭に、アウィンの手がポンと置かれる。彼の表情はとても穏やかで、どこか満足そうだった。
「動けたおかげで、いち早く貴方に怪我が無いか確かめられました。ほら、友の足も、夜は寝ろと言っているでしょう?」
『ん……そうだね』
彼の声色に安心したように、ルルは心地良さそうに目を閉じる。アンブルはその様子に微笑み、散りはじめた砂時計の薔薇を見て立ち上がった。
「さあ、坊やたちは旅で疲れているだろう。早くお眠り。アウィンはここを自由に使いなさい」
「ありがとうございます」
「ルルはおいで。部屋に案内しよう」
『うん。おやすみ、アウィン』
「おやすみルル。良い夢を」
ルルはアウィンにギュッと抱きつく。アウィンは絹のような髪を優しく撫で、前髪に隠れた額に口づけをした。ルルはくすぐったそうにふふっと息を零し、満足したのか体を離す。そして壁に作った扉の前で待つアンブルへ駆け寄り、差し伸べられた手を取ってq扉をくぐった。
ルルは案内された部屋のベッドに腰を下ろす。天蓋が蕾のようで、ふかふかとしていて寝心地が良さそうだ。
「部屋の使い方は分かったね? 何かあったら言うんだよ。木に言って部屋まで案内してもらうといい」
すると出て行こうとしたアンブルは、何か思い出したように足を止め、ベッドを堪能しているルルに振り返る。向けられた瞳は優しくも、どこか鋭く感じた。
「坊やはあの子の事、どう思う?」
ルルは抑えるような低い声に、目を瞬かせる。しばらくの間、虹の目は考え込むように足元に向けられた。
『……味方かどうかは、分からない。でも、敵ではないよ』
ルルは彼を初めて見た時を思い出す。そして何故木が、わざわざアンブルたちが居る部屋ではなく、彼の眠る場に降ろしたのかをなんとなく理解した。木は迷っていたのだ。彼を迎え入れてもいいかどうか。だから他者の、王の意見が欲しかったのだ。
『あの人、人間だけど、人間以外がある。変な匂いがするの。でも、悪意は無いから。それに、自分の事が、分からないって……とても、不安だと思うから』
全て、感じたままに言った。するとアンブルは、付け加えられた言葉に一瞬キョトンとし、ふっと可笑しそうに笑う。
「その通りだ。迷い子に意地悪は酷だね。おやすみルル」
『うん、おやすみアンブル』
扉は彼女の姿を隠すと、あっという間に元の壁へ変化した。ルルはベッドに寝転ぶ。とても広い。ベッドが部屋の三分の一を占めているだろう。試しに、ゴロゴロと端から端を往復してみた。アウィンのような、二メートル近い高身長が寝ても余裕だろう。このベッドならば、寝相が酷くても落ちる心配は無さそうだ。
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(椅子に、何か物がある?)
ぼんやり見える無機物の気配に首をかしげ、手探りで触れてみる。それは慣れ親しんだ物だった。マントと仮面とカバンだ。
(良かった。ここに、置いてくれていたんだ)
ルルは畳まれたマントを、壁の蔓に掛ける。そして気を取り直すように、本とガラスペンを取り出し、真新しいページに『イリュジオン』と記した。今の記憶を頼りに、部屋を小さな図として描く。
(ここは、どんな国かな。人間が少ない国は、久しぶりだから……楽しみ)
ルルは髪に飾られた花を取り、鼻に近付ける。そり返った花びらは途中から透けていて美しく、香りも涼やかでいい。美味しそうだが、これはおやつではなく薬。一体どんな薬だろう。またあとで聞かなければ。
ルルは席を立ち、机に咲いた花の僅かに開かれている花びらをツンと突いた。すると蕾のように花びらは閉じ、部屋が一気に暗くなる。これが照明なのだ。空気に触れていると、雌しべが光るのだそうだ。刺激によって身を守るように花が閉じ、光もまた消える。
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