テンシを狩る者

小枝 唯

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楽園へのプロローグ

プレゼント箱

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 レーレは疲れた様子で廊下を歩く。大天使を浴場に案内したはいいが、使い方をまるで知らなかった。一から教えただけだが、なんだかどっと疲れた。あれでは、姿だけが成長した赤ん坊と変わらない。
 長い廊下に並ぶ一つの部屋で足を止める。そこはリーラが待っている病室だ。ノックをしたが返事はない。どこか別に用ができたのか。そう思いながら開け、彼は怪訝な顔をした。
 リーラは部屋に居た。椅子の背もたれに全体重を預け、開いた辞書を顔に乗せている。そんな格好で待っているのを見れば、誰でもこんな顔になるだろう。

「……頭やったか」
「失礼だな、頭はクールさ。しかし悩ましい。なあ、日本語って難しすぎやしないか? どうして三種類も言語があるんだね」

 リーラはドイツに居た頃から、日本語に馴染みがあった。しかし未だに間違えるし、筆記はほとんどひらがなだ。

「俺に言うな。なんだ、また四字熟語でも調べてるのか?」
「違う。名前さ、名前」
「なんのだ」
「大天使のさ。このまま呼び続けるのは不便すぎるだろう? 体が日本人だから、漢字でつけた方がいいかなと思ったんだが」

 そう思って意気込んだはいいが、画数やら組み合わせの意味やらで、リーラの頭はすっかりパンクした。今時はネットでも調べられる。レーレはそう言ったが、簡単にかぶる名前は付けたくないと、妙なこだわりも発覚した。

「別に、ドイツ語で付ければいい。俺の時もそうしただろ」

 レーレというのは、ドイツ語だ。だが彼は、純日本人。
 二十年前、ドイツへ向かう予定の飛行機が墜落事故を起こした。原因は、目的地に個人的な恨みがあるテンシの操作による墜落。
 当時ドイツの代表を務めていたリーラが、なんとか被害を抑えようとしたが、防げたのは墜落先の被害。乗客は一人を残して全員死亡した。その生き残りというのが、レーレだった。

「あの時は、オマエが日本人だなんて知らなかったんだよ」
「俺はお前の皮肉ったネーミングセンス、嫌いじゃない」
「皮肉ったつもりはないぞ? 相応しいなと思ったんだ」
「生粋だな」

 リーラは名付け親だった。レーレを日本語に訳すと『空虚』という意味がある。
 彼は墜落事故で助かったはいいが、その衝撃のせいでほとんどの記憶を失った。しかしそれがきっかけで、超人的な頭脳を手に入れた。見た物を全て記憶でき、初めて見た物を扱える。もちろんそれは機械だけではなく、難しい問題や病気などの解決策も閃く力を手に入れた。
 彼はそのおかげか、記憶喪失を全く悲観しなかった。それどころか感謝さえした。そして救ってくれたリーラに恩を返すと誓い、彼女が望んだテンシを人間に戻す研究に協力している。

「ドイツ語かぁ……ふむ、いくつか候補を見つけたぞ」

 リーラは背もたれへ預けていた体を起こし、パチンと指を鳴らす。拍子に落ちた辞書を慌てて拾い、本棚へ返した。
 もしこの名前が嫌なら、一緒に考えればいい。そんなふうに独り言で納得するのを、レーレは不思議そうに眺めた。ずいぶんと甲斐甲斐しい。彼女は大天使を作る過程で生まれる犠牲者の一人でもある。そのため憎い相手となるはずなのだ。

「大事そうにするんだな」
「愛が欲しいんだと。可愛い願いだと思わんかね」
「……同情か?」
「アレは役に立つ。それに、罪を着せるにはあまりにも幼い」

 扉越し、ペタペタという足音が聞こえた。ドアを開けたのは大天使。だがその姿に二人は思わず顔を見合わせた。足首まで伸びた真っ白な髪の毛が、全体を覆っている。まるで未知の生命体だ。

「前見えてるのか、それ」
「真っ白!」
「よく来れたな……」
「ははは、おいで。縛ってあげよう」

 椅子に座った大天使の床につきそうな髪に、クシが通る。見た目に反して少しも引っ掛からなかった。洗う前は、単に絡まっているからだと思ったが、元々癖毛のようだ。

「オマエの毛はふわふわしているね」
「ふわふわ」
「ん? 服はどこへやった」

 一旦髪を手に纏めると、雪肌があらわになった。病院着を着せていたはずだ。すると大天使は「あ」と体を跳ねさせる。視界が髪に覆われたのと、体を拭く事に注視しすぎていてすっかり忘れていたのだ。このままでは風邪をひくと、体が再びタオルで包まれる。

「次からは置いてくるんじゃない。いいね?」
「うん」
「まあ、もう着ないしちょうどいいか」
「着ないのか?」

 そう言って不思議そうに振り返った彼は、前を向くよう注意されて慌てて姿勢を戻す。しかしなんとか体は動かないよう頑張っているが、黄色と緑が混ざった瞳が忙しなくキョロキョロしている。
 だが、リーラの黒く長い指先が髪を器用に編んでいく様子が面白く、すぐ鏡に夢中になった。やがて毛先に到達し、整えるとパッと離される。

「どうだね? 毛が綺麗だったから、切るのは気が引けてしまったんだが」

 大天使は頭を振ると、三つ編み姿の自分に瞳を黄色く輝かせて見つめた。そして興奮気味にリーラへ振り返る。

「これがいい! ありがとう、えっと……」
「ワタシはリーラだ。そしてオマエを浴場へ案内したのはレーレ。お医者で、この施設の人々を診てくれる」
「ありがとう、リーラ、レーレ」
「おう」
「お礼ができてえらいぞ。そんなオマエに贈り物だ」
「なになにっ?」
「名前が欲しくないかね。このままでは味気ない。そこで一つ候補が──」
「それがいい!」
「まだ言ってないな」

 リーラは食い気味で前のめりになる小さな体に笑うと、幼い頬にそっと手を添える。期待を込めて煌めく目元を指先が掠めた。

「リーベ、というのはどうかな?」
「リーベ?」
「ああ、ドイツ語だよ。ワタシは意味で名付けるのが好きでね」
「どんな意味?」
「それは自分で調べたまえ。名前というのはね、贈り物と言った通り、プレゼントボックスなんだ。その中身は自分で開けるべきなんだよ」

 だから自分で調べるべきだというリーラのこだわりに、大天使はポカンとする。そして、確かめるように小さく「リーベ」と繰り返した。
 ドイツ語なんて初めてだし、意味も見当つかない。それでもなんだか暖かく、彼はにこっと笑う。それにリーラも微笑んだ。

「気に入ったようだね」
「うんっ!」
「よし、名前の次は服だ」
「あ、服……」

 脱衣所に置いて来たのを思い出したのか、大天使もといリーベは、キラキラさせていた顔をしゅんと俯かせる。それをよそに、リーラはレーレに視線を向けた。彼は巾着を差し出す。浴場から病室へ帰るついでに頼んだ物だ。
 リーベの小さな顎を、黒い指が引き上げさせる。キョトンとした目の前に袋を差し出し、視線で開けろと訴えた。彼は受け取った袋とリーラを交互に見やり、紐で結んだ口を恐る恐る解く。
 中から出て来たのは服。胸元に大胆だが上品なフリルや刺繍が入っている白いシャツと、紺色の短パンだ。

「これは、ワタシが幼い頃に貰った物だ。だがほとんど着れなくてね。もったいないと思っていたんだ。貰ってくれるかい?」
「いいのかっ?」

 リーベはギュッと服を抱きしめる。すると緑色だった瞳が、笑顔と共に黄色に輝いた。その変化にレーレとリーラは視線を合わせる。二人の様子に気づかず、リーベはいそいそとシャツに袖を通し始めた。
 しかしシャツの中で目を閉じているせいか、頭が出せない。白い布がもぞもぞしている様子に、レーレは溜息をつき、リーラはカラカラ笑った。必死に出口を探す頭にポンと手が置かれる。

「ストップだ、おチビちゃん。そのまま動くなよ?」

 そもそも襟のボタンをかけたままだから、頭の脱出は不可能。リーベは言われた通り、目を閉じたままじっとした。頭上でプチプチと音が鳴り、するすると移動するのが分かった。そうして、目蓋越しに視界が明るくなった所で、目を開ける。
 シャツは真っ白かと思っていたが、肌に合わせると若干青味を帯びているのが分かる。肩から胸元のフリルは、動くと風に揺れて可愛らしい。

「さあ次はパンツだ。立ってごらん。ワタシの言う通りに着なさい」
「子供には難しいだろ」
「だから一人で着せるのさ」

 これは甘やかしではなく教育。彼が次から一人で着られるという、生きる基礎を整えるためだ。リーベはわがままを言わず、むしろ楽しそうに指示に従った。
 腰まで引き上げ、鏡越しに背中を見る。腰部分に紐が付いていた。それを背骨に沿った所にある金具に、左右をクロスさせるように引っ掛けて結ぶ。そうすると、ベルトが要らず体にフィットするのだ。膝丈よりも短く、動きやすそうだった。

「上手だ。覚えたね?」
「うん!」

 リーベは姿見の前でくるりと周る。足が絡んでふらりとよろけた体を、リーラが支えて改めて立たせた。

「どうだ? 女物なのは、一旦無視してくれ。もうこの時間は服屋が閉まるからね。気に入らなかったら、明日、改めて買いに行こう」

 リーラは言いながら、確かめるようにリーベの肩に手を置いて鏡の中を覗く。元々細身だからか、窮屈さは無さそうだ。リーベは彼女と自分を見比べる。どちらもドレスシャツを着ているためか、肌の色は真逆でも姉弟のようだ。それが嬉しくて、自然と表情が綻ぶ。

「これがいい。ありがとう、リーラ」
「どういたしまして。気に入ったのなら良かった」

 リーラは壁に埋まったデジタル時計に視線を向ける。二十時になるところだ。

「リーベ、お腹の調子はどうかな?」
「なんか、ぐぅぐぅ言ってる」
「それは胃が空っぽで泣いているんだ」
「どうしよう」
「美味しいもので慰めてあげればいい。ついておいで」

 今日は、新人会も兼ねた飲み会がある。開始してもう一時間は経っているが、これから行けばまだ充分楽しめるだろう。そこでテンシ狩りについての説明もできるし、リーベが他の仲間と交流するいい機会だ。
 彼はパッと顔を明るくさせ、差し伸べられた黒い手に、真っ白な手を重ねた。
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