その身を賭けろ

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負けて良かった

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 土曜、朝早くにアパートのインターホンが来客を告げた。
 ボディーガード業はカレンダー通りの休日ではないが、旭が勤めている職場のクライアントは女子高生が主なため、世間と休みが重なることが多い。
 普段は存分に午後まで惰眠を貪る旭は、眠りを妨げる不快な音に酷く嫌そうな顔で目を擦った。
 
「誰だよ、こんな朝っぱらから……」
 
 文句を言いつつ携帯を確認するが、着信は0。学生時代の友人たちならば、メールのひとつでも入れてくる。浅黄からの連絡もなく、新聞の勧誘でも来たかとベッドへ潜り込んでやり過ごそうとした。
 しつこくもう一度鳴ったインターホンに、旭は弾かれたように顔を上げ、玄関へ向かった。

 昨日はカジノへ行っていない。姿を見せない自分を気にして、葉月が訪ねてきたのではないかと思ったのだ。
 こういう時の旭の勘は大抵外れるのだが、玄関を開けてみればいつもと同じ黒衣をはためかせながら葉月が立っていた。
 
「どうしたんだ、こんな朝早くに……」
 
 当たり前の疑問をぶつける旭に、葉月は何故か口を手で押さえながら盛大に噴き出した。
 
「え? な、なんで笑うんだよ」
「いや、お前があまりにも、ご主人様が迎えにきた犬みたいな反応するもんだからさ?」
 
 言われて思わず両頬を押さえる。嬉しかったのは事実だが、そこまで言われるほどではないと思っていた。昨日も葉月との勝負が楽しみすぎて同僚にも指摘されたところだ。しかし今日は勝負が待っているわけではない。これではまるで恋人が訪ねてきた男のようだと、旭は意識的に頬を引き締め、軽く咳ばらいをする。
 
「そ、それで何の用だ? ギャンブラーがこんな朝早くからご出勤?」
 
 多少のイヤミを言い、入室を促す。葉月は遠慮なしに上がり込みながら、アパート内部を物珍しそうに眺めている。
 
「給料は悪くないハズなのに、質素なトコロに住んでるな」
「ほとんどギャンブルで消えてくから」
「でも、大きな借金まではしない、と」
「そんなこと、どうしてわかるんだよ」
「昨日、来なかったからな、カジノに」
「デートの予定があったのかもしれないだろ。週末なんだし」
「カノジョのいる男が、あんなに頻繁にカジノへ通うかよ。しかも負け続けで」
「うっ……」
「実際、そんな調子で、フラれてんだろ?」
 
 その通りだった。彼女ができた時は頑張って彼女を優先し、ギャンブルも控えめにするのだが、捨てることができない時点で、旭のほうが捨てられることになる。
 
「とりあえずコーヒー入れてくれよ。約束、な?」
「あ、ああ」
 
 それはまさに口約束という感じで、しかも今は早朝。
 きちんと約束したわけでもないのに早朝からたたき起こされ、普通なら怒ってもおかしくはない。だが、むしろ来てくれたのが嬉しいという感情のほうが強く、旭はやたらと浮かれていた。
 それは葉月が言った言葉のせいでもある。
 昨日カジノへ来なかった、という台詞が出るのは、葉月が旭を気にし、多少なりともその姿を探してくれたということだからだ。

 葉月はギャンブルをやる人間にとっては憧れで、旭は言ってしまえばその他大勢。みんなの憧れが自分を気にかけているという優越感。カモとしては旭も多少有名ではあるのだが、それに憧れを抱く者などいないだろう。
 葉月が自宅を訪ねてくれたことが嬉しい……。そこには優越感以外の何かがあったが、今の旭にはまだよくわからなかった。
 
「メルアドとかケータイ番号、そういや知らないなと思って。端末操作は苦手なんだ、適当に入れてくれ」
 
 化石のような古い携帯を言葉と同時に放られて、慌てて受け止める。
 
「こういうの、得意そうに見えるけど」
 
 待受画面もデフォルトのまま。古い機種なのに使用感がほとんどない。
 
「連絡する相手はそういない。おれは必要にかられたコトしかやらないタチでね。面倒ごとは大体カネで解決さ」
 
 データを赤外線で簡単に交換し、葉月に返す。葉月はカジノでは有名な男だが、先日対峙するまで旭にとってはまったく知らない存在だった。だから普段カジノでどう遊んでいるかも、当然知らない。元々目の前の勝負以外はどうでもいい旭は、相手を気にしていなかったのだ。なんの因果かこうして家に押しかけてコーヒーをねだられるまでになってしまったが。
 コーヒーを淹れて戻ると、葉月は操作が苦手だと言っていた携帯を楽しそうに眺めていて、旭は引き締めようと頑張っていた頬をついに緩めた。
 それがラブでなくとも、気になっている相手に携帯アドレスの交換を所望され、それを喜んでもらえたら、言いようのない嬉しさに包まれるのも無理はない。
 今すぐコーヒーを置いて撫で回したくなる気持ちを抑え、隣に座った。
 起きたばかりなので、旭はまだパジャマを着ている。1000円で買った緑のそれは決して趣味がよいとは言えず、なんとなく居心地が悪い。格好よい葉月に生活感丸出しの姿を見せるのが気恥ずかしかった。彼の前ではなるべくスーツでビシッと決めておきたい。格好をつけておきたい。そんなふうに思ってしまう。
 
 旭の部屋は小さな折りたたみテーブルの手前にクッションが二つ。その向こう側に壁にはめ込むタイプの液晶テレビ。あとは一人暮らしの生活に必要なものが乱雑に置いてある。葉月はクッションのうちひとつに座り、テーブルに肘をついていた。
 旭は葉月の前に、マグカップをトンと置いた。
 
「はい、コーヒー。さっき俺のことを笑ったくせに、葉月も嬉しそうにしてるじゃないか。まあ、葉月は犬というより、猫っぽいけど」
「んー? 嬉しいからな」
 
 特に取り繕う様子はなく、旭の淹れたコーヒーを美味しそうにすする。どうやらやはり、ブラックらしい。
 
「気になるコの連絡先をゲットしたんだ、嬉しくない男がいるかよ?」
 
 からかうような声のトーン。
 旭はそれに対し、目を瞬かせて頷いた。
 
「だから俺も嬉しいのか」
 
 それは葉月にとっては予想外の反応だったらしく、いつも余裕な彼が初めて動揺を見せた。
 
「……お前がそう思うんなら、そうじゃないのか?」
「うん」
 
 妙な空気が二人の間を流れる。葉月はコーヒーをもう一口飲んでから、膝を抱えた。
 
「人の淹れたコーヒーは美味い」
「ただのインスタントだぞ。葉月の口にはあわないかと思った。高級な物、食べてそうだし」
「おれはギャンブルが好きなだけの、一般人だよ。金を持っていたって使い道もあまりない。また、賭けるだけさ。貧乏舌なんだ。お前の出した泥水のようなコーヒーでも美味しく感じる」
「なるほど……。って、そこまで酷い物は出してないぞ!」
「ははっ」
 
 泥水とはいかないまでも、確かに安物のコーヒーだった。世辞は言いそうにない葉月だ。それを美味しいと言うのなら、本人が話す通り貧乏舌なのだろう。わざわざ嫌な言い方をしたのは、どちらかと言えば照れ隠しをしているようにも思える。
 旭が味を確かめるようにコーヒーを啜ると、空になっている胃がしくりと痛んだ。
 
「葉月は朝ご飯、食べてきたのか?」
「デリバリー弁当を2つな」
「2……。見た目に反して結構食べるんだな」
「旭はまだか?」
「今まで寝てたよ……。何もこんな、朝早くからこなくてもいいのに」
「まあ、いいじゃないか。朝からおれに会えて、嬉しいだろ?」
 
 事実、嬉しかったのだがニヤニヤと笑う葉月を前に、素直に頷くことはできなかった。
 
「トースト焼いてくる」
 
 旭はそう言ってマグカップに半分ほどコーヒーを残したまま、席を立つ。
 
「おれの分、一枚でいいから」
「まだ食べるのか」
「育ち盛りなんでな」
 
 本当に育ち盛りな年齢にも思えるのが葉月の恐ろしいところだ。
 旭が焼いたトーストを、二人で食べる、朝ご飯。そのまま食べようとする葉月をとめて、安いマーガリンと苺ジャムをかいがいしく塗ってやる。
 人と食べる朝食はかなり久しぶりだった。安い食事がいつもより美味しく感じる。
 
「昨日、職場の先輩がさ」
「うん?」
「ホモかもしれないって噂が流れて」
「噂か……。お前、それが事実だったら態度変える?」
 
 自分はそんなに嫌そうな顔をしてただろうか。旭は頬に手を添え、溜息をついた。
 
「真実がどうであれ尊敬する先輩だ。ただ、もしそうなら……言ってくれなかったことだけ、寂しいかな」
「馬鹿。そんな簡単にカムアウトできるようなことじゃないだろ? 親しいなら、なおさらさ」
 
 葉月の顔をジッと見て、それから軽く目を逸らす。
 尊敬する先輩のプライベートを噂とはいえ他人に吹聴し、慰めの言葉を期待する。我にかえって、酷く恥ずかしくなった。
 そして訊かれてもいないのに、言い訳のように言葉を続ける。
 
「あー、その。好みのタイプが30代の男性とかで、ちょっと葉月のこと思い出して……つい」
「なるほど、おれはそのセンパイのストライクゾーンってコトか」
 
 実年齢はそうだとしても、むしろ見た目的には範疇外なのではないかと思う。
 
「いや、そもそも葉月は、下手したら未成年に見えるくらいだし……」
 
 視線を葉月に戻すと、若々しい白い陶磁器のような肌が目に入る。細くて白い、けれど弱々しい印象はまったくなく、むしろ挑んだら返り討ちにあいそうな気さえする。
 
「若く見えるのは嬉しいが、さすがにガキ扱いはいただけないぞ」
 
 薄い唇が紡ぐ文句を聞き流し、旭は思わず葉月の頬にそっと触れた。
 
(……あ、温度がある。温かくは、ないけど……)
 
 少なくとも、ひんやりとはしない。指先の甲で触れた肌はなんともいえないぬるさで、今度は確認するように手の平を添えて緩く揉んでみた。
 
「っ……おい、旭。お前、何してんだ」
「え、あ!? わっ、ごめん!」
 
 謝りながらも、何故か手を離すことができない。
 
「別に整形してないし、マスクも被ってないし、特殊メイクもしてないぞ?」
「その……触り心地いいなって」
「なんだよ、お前はほっぺたフェチか?」
 
 葉月は旭のもう片方の手も引っつかみ、自分の頬に押し当てた。
 
「触れよ、存分に」
「いいのか?」
 
 おそらく葉月は、旭が驚いて手を離すのを想定していたのだろう。だが、旭のほうは思う存分撫で回したい衝動に駆られていた。そこにお許しが出たものだから、ここぞとばかりにペタペタと触る。
 
「うわ、ちょ、馬鹿……ッ」
「硬そうに見えるのに、結構もちもちしてて柔らかいな」
「お前なぁ、いい歳した男二人が……。今の絵面、客観的に見てどうだよ?」
 
 言われてようやく異常性に気づき、パッと手を離した。
 
「淫行罪!」
「ちげーだろ!」
 
 いつものミステリアスさが嘘のように、高速で突っ込まれた。
 旭は叩かれた頭を押さえながら怨みがましそうな目で葉月を見る。
 
「痛いじゃないか」
「お前が馬鹿なこと言うからだろ。ったく……」
 
 葉月は宥めるように旭の頭を優しく撫でながら、大きな溜息をついた。
 
「はたから見たら、おれたちもゲイカップルのようにしか見えないってことだよ」
「……確かに。事実がどうであれ、そうかも」
「実際、そのセンパイも友人とこんなふうにジャレてるトコを見られて、誤解されてるのかもしれないぞ」
「こんなふうにじゃれる先輩がまず、想像できないけどな」
「そりゃ、面白みのない男だな」
 
 頭から離された手を掴んで引き止めたくなるのを、ぐっと堪える。旭は、もっと撫でてほしいだとかじゃれていたいだとか、そう考えてしまう自分に戸惑っていた。
 それは昨日彼と賭けをしていないからだ、と思うことにした。
 
「勝負、したいな」
「ああ?」
「俺が勝ったら3万円」
「負けたら、今日は何してくれるんだ? そろそろ手持ちのカードも尽きる頃だろ?」
 
 葉月はニヤニヤと笑いながら旭の顎を持ち上げ、唇が触れるギリギリまで顔を近づける。
 
「いい加減、ナニをされてもおかしくない金額になるぜ?」
 
 初めて会った日であれば、旭はこの言葉に真っ青になったことだろう。だが、今は葉月がノーマルだということを知っている。こうして人をからかって、その反応を楽しんでいるのだということも。
 葉月の出す金額には相手が怯えているのを楽しむことも、含まれている。今の旭には提供できないものだ。不器用でポーカーフェイスも苦手なため、演技もできない。
 
「ナニをされても構わない、と言ったら?」
 
 結局そんな、つまらない返事をすることになった。
 
「ハッ……。ちょっとは慌ててみせろよな。下手な演技でも、笑ってやるつもりだったのに」
 
 飽きた玩具を手放すように、葉月がそっぽを向く。
 捨てられたくない、と瞬時に思った旭は、その身体を逃がさないように抱きしめてしまった。
 
「ッ……な、何」
「あ、いや。風呂に」
「風呂ォ?」
「帰ってしまうかと思って」
「風呂に帰る? 旭、わかった、落ち着け。いいから日本語を話せ」
 
 葉月はこんなやりとりを何人もの相手と繰り返し、飽きたら捨てている。実際には少しの時間で相手が葉月に傾倒してしまうため、彼自身にその意識は薄いのだろうが。
 そして捨てられたくない人間が、執着してストーカーに成り果てる。今なら少しだけ、その気持ちがわかる気がした。
 
「一緒に風呂へ入りたいって、言ってただろ、おととい」
「言ったな。で、これはどう説明する? そろそろ離してくれないか?」
「ご、ごめん」
 
 細い身体を離し、正座をして手を膝に置く。
 
「俺が面白いことを何も言えないし、できないから、帰ってしまうかと思ったんだ」
「安心しろ。お前、充分面白いから」
 
 安心はしたが、些か腑に落ちない返事がきた。
 
「旭」
 
 葉月が名前を呼んで、握りしめた手を軽く前に出す。殴られるかと思って多少身構えた旭だったが、その拳は意外なことに使われた。
 
「じゃんけんぽん」
「え、あ!?」
 
 反射的に出した手の平はパー。葉月はチョキを出している。
 
「ハイ。賭けはおれの勝ちな」
「いっ、今のが? こんなの、ギャンブルなんて言えない!」
「元からお前がだいぶトクするようにできてる賭けなんだ。勝負法くらい選んでもバチは当たらないだろう?」
 
 白く細い指先で喉仏をなぞられる。指はそのまま下へ降りていって、旭のパジャマのボタンを片手だけで器用に外した。
 
「ッ……葉月、さん?」
「ナニされても、構わないと言ったのはお前。だから、されても文句は言えないの。わかる?」
 
 この前と同じように胸板を撫でられる。ただ、違うのは……触り方が性的な色を感じさせた。
 
「ま、待って……」
「わかった、10分待ってやる」
 
 あっさりと時間に猶予がもたらされる。その間に覚悟を決めろというのか、それよりも本当にするつもりなのか。
 気づけばパジャマの前はすべて開けられていた。
 
「10分で着替えて出かける支度、してこい」
「……え?」
「ふ、ふふっ。そう、これくらい怯えてくれなきゃな?」
「騙したのか!?」
「人聞きの悪い。おれは、脱がす手伝いをしただけ。勝手に誤解するなよ。おれはストレートだと言ってあるのに、酷いな旭クンは」
「酷いのはどっちだ」
 
 葉月は何を考えているか読めない男だ。ゲイじゃないとしても、嫌がらせでどうこうする可能性はおおいにある。
 
「賭けの報酬はデートな。お前の時間、一日おれに寄越せ。日給3万だぞ。嬉しーだろ?」
 
 そういう言い方をされて、嬉しいと言える人間がどれほどいるだろうか。本当は嬉しかったとしても、まず言えない。旭も例にもれず、唇を噛み締めて低く唸った。
 
「言いたいことがあるなら、聞いてやるが?」
「10分はキツイ。15分、待ってくれ」
 
 葉月は楽しそうに笑って、旭の額を指先で弾いた。
 
「なるべく早くな」
 
 おそらく葉月は、賭けなどなくとも旭を連れ出すつもりだったのだろう。万が一、旭が勝っていたらどうしたかはわからないが、もしかしたらそれこそ帰ってしまったかもしれない。報酬の3万円を、マグカップの横に置いて。
 
 負けてよかった。
 
 そう思ったのは、これが初めてだった。
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