安心して泣ける!ポチと美咲の物語

緑縁翁☆りょくえんおう

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ハルの日記

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──“ぼくが、この家に来た日のことを、ちゃんと覚えている。”

あの日、雨が降っていた。
冷たくて、重たくて、音のする雨。
ぼくは段ボールの中で小さくなっていた。
兄弟たちはいなかった。声も、匂いも、なにも残っていなかった。

風が吹いて、ふたが開いて、
そこに、ひとりの女の人が立っていた。
濡れた髪を気にもせず、しゃがんで、ぼくを見つめた。

「……大丈夫?」

その声は、やさしくて、あったかかった。
ぼくは、はじめてしっぽを振った。
そして彼女は、ぼくを胸に抱きしめた。

その胸の中が、ほんのりと桜のにおいがした。

病院の待合室。
ぼくはタオルで拭かれて、毛を乾かされていた。
彼女は看護師さんに何か話していたけど、途中で声が震えていた。

「……この子、放っておけないんです」

それから、ぼくは「ハル」と呼ばれるようになった。
彼女が言った。

「春の雨の日に出会ったから、ハル。いいでしょ?」

うん、と答えたかったけど、
そのときはまだ、うまく吠えることもできなかった。
でも、ぼくはわかってた。
この人の笑顔が、ぼくの名前よりも先に、ぼくの“世界”になった。

彼女は「美咲」って呼ばれていた。
彼女の部屋には、ひとつの小さな額縁が置かれていた。
中には茶色い犬の写真。
風の中で笑っている。
ぼくはその写真に話しかけてみた。

「きみは、だれ?」

すると、不思議なことが起こった。
夜の風がカーテンをゆらして、どこかで鈴の音がした。
ぼくの胸の奥が、なぜかじんと熱くなった。

写真の中の犬が、ふとこっちを見たように感じた。

ある晩、美咲は勉強机に突っ伏していた。
教科書の上で涙をこぼしてた。

「ポチ……私、ちゃんとできてるのかな……」

ポチ。
その名前を、彼女は何度も呼んでいた。

ぼくは彼女の足もとに行って、鼻でそっと手を押した。
美咲は顔を上げて、ぼくを見て、少しだけ笑った。

「ハル、ありがと。……なんだか、ポチと同じ匂いがするね」

そのとき、ぼくはわかった。
──あの写真の犬、ポチっていうんだ。
そして、ぼくの中に流れている“なにか”が、そっと反応した。

胸の奥で、誰かが笑っていた。
「ハル、頼んだぞ」って。

春が来た。
桜坂の花が一斉に咲く頃、
美咲はぼくを連れて、丘の上にのぼった。

「ここ、ポチと歩いた道なんだよ」

彼女の声は、少し震えていた。
ぼくは空を見上げた。
風がふいて、花びらが舞った。

その中に、たしかに“犬のかたち”をした光が見えた。
ぼくの胸があつくなって、しっぽが止まらなかった。

「ポチ……?」

美咲が呟いた。
ぼくは見た。光の中で、優しく笑う影を。
それは、ぼくによく似ていた。

光は風に溶け、そしてぼくの胸の奥にすっと入ってきた。

──その瞬間、ぼくは感じた。

ああ、やっぱり。
ぼくの中に、“ポチ”がいる。
彼の想いが、美咲を守りたくて、ぼくをここへ導いたんだ。

夜、寝る前。
美咲がぼくの頭をなでながら言った。

「ハル、ありがとう。あなたが来てくれて、ほんとによかった」

ぼくは、その言葉の中で眠った。
夢の中で、ポチがそばにいた。

「どう? 美咲のこと、頼んだよ」
「うん。ぼく、ちゃんと守るよ」
「えらいな。……君の名前、いいね。春は、新しいはじまりの季節だ」

ポチは笑って、桜の花びらになって消えた。

朝。
窓の外は、もうすぐ夏の気配がしていた。
美咲は白衣を抱えて出かける。
「いってきます、ハル」

ぼくは玄関で見送った。
鈴の音が風に揺れて、ポチの声がかすかに聴こえた。

──「ありがとう、ハル」

ぼくは空を見上げて、小さく吠えた。
「ワン!」

それは、たぶん“またね”の合図。
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