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少女
しおりを挟む俺のことを「雄」として見てしまうという斉木さんの話が終わると、もともと静かだった空き教室はより一層静寂に包まれた。
話が長くなるから座ろうと提案してきた斉木さんは、俺から机2列分隔てた席に着いている。二人の距離はとても遠い。話をしている間、斉木さんはずっと下を向いたままだった。
「…笑っちゃう話でしょ。そんな思春期の出来事引きずって拗らせて、どんどん、その、男の人が苦手になって。高校も本当に…悲惨だったの」
誰にでも優しくいつも明るい美人、斉木さん。言われてみるといつも一緒にいるのは女の子だけだ。明るく笑いかけているのは常に女の子に対してだ。
「それで、消えちゃうの?」
なんとなくその後の斉木さんの思考は想像できた。
「うん…。私が自意識過剰なだけだ、男の人は別に私のことなんて気にしてないって自分に言い聞かせてるんだけど…男の人が輪の中に入ってくると身構えちゃって」
「雄だ!!って?」
「…そういうことだね、なんか恥ずかしい」
俺の大げさなセリフに斉木さんは照れながら軽く笑った。女の子に見せる笑顔とは違う、微かな笑み。できれば自分だけが見ていたい、なんて一瞬でも思ってしまったことに自分でも驚く。
「でもこの間本当に急にいなくなったからびっくりした。斉木さんって存在が目立つのに、気配消すの上手すぎない?」
「目立つなんてそんな…。空気になってその場を去る技、身に着けちゃうほど長い間拗らせてるってことだよぅ…」
力なく肩をすくめる仕草は、確かに華やかな美人というより無邪気に公園を駆け回る無垢な少女のようだった。
そして相変わらず目は合わないが、表情は穏やかで微かに震えていた声も落ち着いていたことに気づく。
「顔がこう、ぐっと険しくなるのも雄を意識してそうなるの?」
「えっ、そんな怖い顔してたの私…!」
まさかのこっちは無自覚だったらしい。これは相当な拗らせ具合だなと斉木さんのこれまでの心労を慮る。
あれ?でも…
「そういえば、彼氏に対しては大丈夫なの?」
思い出した。斉木さんには彼氏がいる。付き合うという経験があるなら拗らせるのも幾分解消されていそうなものではあるが。
「今はいないけど…。そうだね、前付き合っていた人に対してはそういうのなくなってたかもしれない…あれ?どうしてだろう…」
今は付き合っている人がいないという情報に少し心が明るくなる。まぁどう考えても手の届かない俺には関係のないところではあるが。
「1回解消できてたならさ、きっと大丈夫だよ。変に意識して強張ることも少しずつなくなっていくんじゃない」
「…ありがとう。大野くん、優しいね」
「斉木さんになら誰だって優しくするでしょ」
俺のその言葉に大きくぶんぶん首を振る斉木さんが動物みたいでかわいくて、軽く笑いが出てしまう。
「そういえば、俺の名前知ってるの意外だったな」
ぼうっと宙を見て独り言のようにそう呟くと、ぷっと小さく吹き出す声が聞こえた。
「なんで!同じ学科でしかもあんな小さなプレゼミも一緒で、菜月ちゃんも大野くんって呼んでるのに知らないわけないじゃん」
変なところでツボに入ったらしく、口元に手をあてて大野くんって面白いねって笑う。照れたり涙目になったり険しい顔になったり急に笑顔になったり。彼女の端正な顔立ちがころころと表情を変えて、その一つ一つが俺の心をぎゅっとさせていることに本人は全く気付いていないだろう。
「あ、そういえばさ」
そう言って俺はバッグの中をごそごそと探し始めた。
「これこれ」
そう言って見せたのは「戦争と平和」の文庫本。斉木さんはびっくりしたように本をじっと見つめている。
「斉木さんにあんなに熱弁されたらやっぱり気になるじゃん」
先日、本屋に寄って買った本だ。あの時の熱の入った斉木さんのおすすめレビューが頭から離れなく、そんなに言うなら、と購入を心に決めていたのだった。
「まだ1巻のはじめなんだけどさ、6巻まとめて大人買いしちゃったから頑張って読まなきゃ」
とは言いつつ、結局大学の課題やバイト、サークルなんかで時間は奪われ読破できる自信はなかった。きっと斉木さんが満足するような感想ももてないだろう。そもそもそんなに読書家というわけでもない。本当にたまたま親がつけていたテレビで紹介され、親が興味本位で購入し、そのままテーブルに置かれていた「人は何で生きるか」を読んだだけに過ぎなかったのだ。
「うれしい…」
小さく呟いた斉木さんの目はきらきら輝いていた。前回この本の面白さについて勢いよく語ったあの時と同じ瞳だ。
「まさか本当に読んでくれるなんて!実は私も大野くんが言ってた『人は何で生きるか』を調べてみたの!哲学的、宗教的な側面が強そうで自分に読めるかなって不安で、ちょっと遠慮しようかなって思ったんだけど私も絶対読むね!もうすぐ『戦争と平和』読み終わりそうだから、他の積読いっぱいあるけどその作品優先して読む!楽しみだなぁ~!」
そこまで一息に言い終わると、ぴたっと顔が固まり、前回同様、斉木さんは烈火の如く顔を真っ赤にしてしぼんでいった。
「あー…もう、本当にごめん…」
机に両肘をついて、真っ赤になった美しい顔面を覆い隠す。こんな斉木さんの姿を知っている人はどれだけいるのだろうか。自分だけだったらいいのにと思うのは贅沢すぎるだろうか。恋愛感情なんてものではない。ただ、この全方位完璧に整えられた美人の、ほんの僅かな隙を見られる特別感。
「斉木さんっておもしろい人だったんだね」
「あーっ、それってバカにしてるでしょ…」
尚も両手で顔を隠しながら、ちょっといじける彼女は子供のようだ。
「してないしてない。斉木さんの良さじゃん。変えないでほしいよ」
「…大野くんもずいぶんと変わってておもしろいと思うよ…」
どこでそう思うのか自分にはわからなかったが、俺は軽く笑って立ち上がる。
「とりあえず1巻読んだら報告しても良い?本にしても何にしても、誰かと同じもの共有するの楽しくて、俺好きなんだよね」
斉木さんはようやく手をどかし、目は合わさないままうんうんと何回も繰り返し頷いた。
「…私も好き。私も…報告していいですか…?」
「もちろんいいんだけど、なんで敬語なの」
笑ってつっこむと、斉木さんもふっと微笑んだ。俺は座席に置いてあったバッグを手に取り、まだ座ったままの斉木さんに向き直った。
「明日も2限が同じ講義だったよね。じゃあまた明日」
「あっ、うん。また」
近くのドアを開けて教室を出る。階段を降りる。講堂を出る。
「はぁ…」
あくまでも冷静に。
そう、相手はあの斉木里香だ。
誰もが「美人」と認める端麗すぎる容姿に、内面までも隙のない完璧さで身を固めた斉木里香。
「こんなの沼じゃん…」
無謀なことはしない、分不相応なことには手を出さない。そうやって今まで生きてきたのだ。
「知れば知るほどかわいいの出してくるの反則すぎなんだよ…」
ハイスペック美人のほんの僅かな欠点。いや、欠点ではなく寧ろ彼女の魅力をブーストさせる強力な武器だ。もちろん本人は気付いていない。
恋愛偏差値が低いが故に、見え隠れする無垢な幼さ。
もっと知りたい、もっと近付きたいという気持ちが波のように押し寄せてきて自分を飲み込みそうになる。
やめとけ、と自分にストップをかける声が遠くに聞こえては霞んでいく。もう一度自然と漏れ出た大きなため息は、重く重く感じられた。
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