最果ての海に、蝶は舞う〜始まりの潮風と異形の意思〜

うなぎかご

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第9話 月下の戦慄、静かなる守護者の震え

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 鉄と革の街、フェルゼン・ハフトの夜。
 槌の音に代わり、酒杯が触れ合う賑やかな音が石造りの街並みに響き渡っていました。

 酒場『黒鉄の拳』の一角で、一行は新調したばかりの武具を囲んでいる。
「見てくれよ、この剛斧! 重心が完璧で、振り抜いた後の戻りがこれまでの比じゃねえぞ」
 バハルが上機嫌で木杯を煽れば、アルベローゼも自分の長弓を掲げて胸を張りました。
「この弦の弾き、聞いた? やっぱり本場フェルゼンの極上なめしは格別だね。この粘りと握り、他の産地の革じゃこうはいかないんだから。弦もヴィルヘルの腱だよ。これでまた百発百中間違いなし!」

 そんな二人を、ディオンは穏やかな瞳で見つめていました。
 微かに揺れるランプの灯りが、彼の涼やかな横顔を淡く縁取っている。
 その隣では、どこか儚く浮世離れした気品を纏うライナスが静かに杯を傾けていました。

(……お二人とも、新しい装備が本当によくお似合いですこと)
 エリカは飛竜革のローブの裾を指先でなぞりながら、ふとそんなことを思いました。
 迷いのない真っ直ぐな瞳を持つディオンと、知的な静謐さを湛えたライナス。
 タイプは違えど、並んで座る二人の佇まいは、荒くれ者の多いこの酒場の中でも、そこだけ空気が澄んでいるかのように一際目を引くものでした。

「……皆さん、とても頼もしいです。素敵な武器が見つかって、本当によかったです」
 エリカが微笑むと、新しい装備の重みが、彼女の心の奥に潜む「殺意」への不安を束の間だけ和らげてくれるようでした。

 翌朝。
 一行は軍資金を蓄えるため、狩猟ギルドの仕事を引き受け、鉱山近くに現れた『鋼鱗蜥蜴(シュタール・エクセ)』の討伐に向かいました。
「金属の鱗を持つトカゲ、ですか……。バハルさん、ディオンさん、どうかお怪我はなさらないでくださいね」

 エリカの心配をよそに、パーティーの連携はいつも以上に冴え渡っていました。
 ライナスは、ディオンの亡き父から受け継いだ鋭い剣筋の合間に、呼吸をするかのような自然さで魔術を織り交ぜる。
 蜥蜴が爪を振り上げた瞬間、ディオンの指先から放たれた目眩しの炎《ヴォーゲン》が炸裂しました。
 一瞬の閃光に蜥蜴が怯んだ隙を逃さず、彼の細剣が硬質な皮膚の継ぎ目を深く貫く。

(少し殺意が芽生える。殺したい欲求が湧き上がるけど、まだ大丈夫ね)
 魔法で敵の機先を削ぎ、同時に剣を振るうその姿は、この旅路において一行が何度も救われてきた彼らしい戦い方でした。

 三日間にわたる討伐の中で、ディオンとバハルの連携はさらに円熟味を増していきました。
 鋼鱗蜥蜴の猛攻にさらされても、二人の間に焦りはない。
 バハルが重厚な盾を構えれば、ディオンがどの隙を狙うべきか、言葉がなくとも手に取るように伝わります。

「ディオン、背中は任せたぞ!」
「ああ、信じてるよ、バハル!」

 バハルが盾に伝わる凄まじい衝撃を歯を食いしばって受け止め、その僅かな隙を突いてディオンが電光石火の踏み込みを見せる。
 戦いの最中、ディオンの目に赤い光が宿るのだが、それに気が付いているのはエリカだけでした。
 夕暮れ時、血に汚れた武具を共に拭いながら笑い合う二人の背中には、死線を越えてきた者同士の深まった信頼が漂っていました。

(ったく、あんな顔で笑って……反則だってば)
 その様子を少し離れた場所から見ていたアルベローゼは、真剣な眼差しで剣を振るうディオンの笑顔に思わず見惚れていました。
 急に顔が熱くなるのを感じ、弓の弦を直すふりをして視線を逸らす。
 隠しきれない、本人も気が付かない淡い恋心が、フェルゼンの乾いた風に揺れていました。

 一方、夜の宿屋の窓辺で深い思索に沈む者がいた。ライナスです。
 彼は月の光に照らされるエリカの横顔――その清らかで丁寧な人柄を映す瞳を見つめながら、胸の内で疼く「正体不明の不安」に耐えていました。
 エリカの内に時折閃く、あの禍々しいまでの殺意。
 しかし、もしあれが彼女の意志を超えたとしたら……。

(……エリカさん。あなたのその優しさが、いつかその闇に呑み込まれてしまうのではないか。その時、私はどう振る舞うべきなのでしょうか)

 漠然とした、けれど決して無視できない破滅の予感。
 カスパールへの紹介状を握りしめる彼の手は、微かに、けれど激しく震えていました。

 三日の滞在を経て、装備も資金も万全に整った一行は、ついに鉄と革の街を後にしました。
「さあ、出発だ! 次の目的地を確認するぞ」
 バハルの号令に、ライナスが地図を広げた。

「ここから北東へ70ライン。大運河の街『アクア・フェリス』です。そこを越えれば、王都ルーン・ヴィークはもう目の前ですよ」
「楽しみですね、水の街。ライナスさん、皆さん、よろしくお願いします」

 ライナスはエリカの丁寧な物言いと、真っ直ぐな瞳に少し照れますが、悟らせまいと振る舞います。その行為が一層、バハルやアルベローゼには面白く映るのでした。
 エリカが笑顔で微笑んで、物語は陽光に輝く街道へと続いていきます。
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