47 / 51
第47話 最果ての海に蝶は舞う
しおりを挟む
絶望の淵から生還した「大好きな仲間」であるディオンとアルベローゼ。
その奇跡の再会に、エリカの感情は激しく揺さぶられました。
彼女にとって、沈黙した魔導生物兵器研究所は、大切な仲間を追い詰め、死の恐怖に晒した忌まわしき負の遺産でしかありません。
「――全部、焼き尽くしてやるわ!!」
エリカが杖を突き立てると、彼女の魔力と怒りに呼応するように、足元から巨大な紅蓮の渦が巻き起こりました。
それは単なる火炎ではありません。
かつて彼女を蝕んだ「魔王」に対する思いが全て載せられた浄化の極大猛火。
『ゾーネル・デスロイ・インフェーノ(紅蓮の終焉業火)』
炎は触手のように這い回り、冷徹な機械群を溶かし、培養槽の汚濁した高濃度魔導水を蒸発させ、壁面に張り巡らされた魔導回路を一本残らず焼き切っていきます。
この火こそが、旧世界の終焉を告げる号砲となった
施設全体が断末魔のような軋み声を上げる中、エリカの魔法は「出口」を隠していた欺瞞の隔壁をも焼き落としました。
炎に照らされて露わになったのは、もはや骨組みだけとなった施設の中心を貫く、巨大な『水槽内点検用螺旋階段』。
「あそこよ! あそこから上へ行ける!」
エリカの叫びに導かれ、一行は燃え盛る研究所を背に、驚くほど高いところにある大水槽の頂点へと駆け上がりました。
辿り着いたそこには、瓶のコルク蓋のように嵌め込まれた、白く光る巨大な石がありました。 研究所のあらゆる機能を焼き払ったエリカの炎が、この最上部の封印を維持していた魔力をも限界まで弱めていました。
「……こいつが最後だ。どけ、俺が道を作ってやる!」
バハルが、全身の力を込めて大斧を振り抜きました。
ガゴォォォォォン!!
という轟音と共に「コルクの蓋」が打ち抜かれたその先から、眩いばかりの光が溢れ出しました。
光の向こう側に飛び出した一行が草原に降り立ったその時、世界は激しく震動しました。
世界中で大規模な地盤沈下が発生したのです。
特に、ディオンたちの故郷に近い広大な大砂漠は、地を割って押し寄せた海水に飲み込まれ、瞬く間に全てが青い海へと姿を変えていきました。
ライナスとエリカは思いました。
(魔導生物兵器研究所は、あの忌まわしき地下都市の天井を支え続けていた柱の中でも、要の柱の役目もあった。そこが崩壊した事から、全ての柱がバランスを保てなくなって連鎖的に崩壊したのだ)
傲慢な記憶を詰め込まれた「アニマ=ゼロ」と共に、あの狂った文明は永遠に地中深くへと没し、地図から消え去ったのでした。
揺れが収まったあとに残ったのは、美しく澄み渡った空と、新しく生まれた海のささやきでした。
彼らが立っていたのは、生まれ故郷アイナル村にある、あの古びた石碑の場所。
実は、この石碑こそが地下都市の「出入り口」を封じる最後の一片だったのです。
村の石碑の真下にはアニマ=ゼロの培養水槽があった事が判明したのでした。
だから、あの時エリカにアニマ=ゼロが取り憑いたのか。
ライナスは、察しましたがエリカの手を強く握りしめ、何も言いませんでした。
ライナスの視線に気がついたエリカは、ライナスの胸に顔を埋めて言います。
「大丈夫よ。私も同じ事思ってるから」
ライナスは、エリカの顎をやさしく持ち、世界で一番優しいキスをします。
エリカの頬にはとめどなく涙が流れていました。
それは、長きにわたって彼女の心を縛り付けていた孤独な呪縛が、最愛の人の温もりによって静かに溶け出していく、魂の浄化の証でした。
絶望の淵で見つめていた暗闇も、明日を疑う怯えも、その唇が触れた瞬間にすべてが過去という名の彼方へと押し流されていったのです。
「……帰ってきたんだ。本当に、僕たちの家に」
蘇生したばかりで、ほぼ一糸まとわぬ姿だったディオンとアルベローゼ。
二人は、バハルとライナスから借りた無骨なマントを肩から羽織っただけの姿でしたが、その表情は晴れやかでした。
ふと、アルベローゼが自らのマントの端を、小さく持ち上げました。
ディオンはただ静かにその内側へと応じます。 重なり合う無骨な布地は、二人だけの小さな聖域となりました。
その優しい闇の中で、二人はお互いの命を確かめ合うように、草原に仲良く倒れ込みました。
いずれ、彼らの帰還は村人から騎士団へ、騎士団から軍本部へ、そして女王エレオノーラの元へと届くでしょう。
世界を救った英雄たちの知らせは大陸全土を駆け巡り、各地で盛大な祝典と、終わりのない酒宴が彼らを待ち受けているはずです。
「また、バカ騒ぎができるな、バハル」
ディオンが空を見上げたまま、穏やかに笑いました。
「望むところさ、ディオン。……お前が戻ってこなかったら、誰とあんな馬鹿げた冒険ができるってんだ。今夜は付き合えよ。全員、生きてるんだからな!」
バハルが照れ隠しに豪快に笑い、その横でリニが涙を湛えた瞳で優しく微笑みます。
「皆さん、本当にありがとうございます。」
「ありがとうじゃないわ。あなたこそが英雄の一人なのよ。」
リニの頭を背伸びして撫でるエリカ。
リニは褒められているネコみたいに目を細めます。
少し離れた場所では、エリカが最愛の婚約者、ライナスの腕にしっかりと抱きついていました。 「エリカ。君たちと一緒だと本当に退屈しないな」
「当たり前でしょ、ライナス。……ねえ、私たちも、もう結婚しましょうよ。これからはずっと一緒にいたいの」
「もちろんだ。この旅を終えて、君を離す理由なんてどこにもない」
その幸せな空気に包まれながら、アルベローゼはディオンの胸に顔を埋め、いたずらっぽく囁きました。
「ディオン、私はあなたのことが大好きなんだよ。知ってる?」
「……アルベローゼ、僕だってそうさ。言葉では足りないくらいにね」
「ガハハ! おいディオン、お熱いのは後でやれよ!すっぽんぽんだろ! マントの下がどうなってんのか、村の奴らに見られたら小っ恥ずかしいぜ!」
バハルの野暮天な冷やかしが青空に響き渡り、六人は一斉に笑い出しました。
かつての地下文明は地底に沈み、新しい平和が始まりました。
世界を揺るがした地盤沈下から一年。
かつて大砂漠と呼ばれた場所は、いまや生命の輝きを湛えた内海へと姿を変えていた。その辺境、地図にも記されていないような小さな半島の村に、六人の英雄たちの姿があった。
豪華な王宮の祭壇ではなく、潮風にさらされて木肌の剥げた、小さな村の教会。
そこには着飾った貴族も、鳴り響く祝砲もない。
ただ、村の老神父が静かに控える中、新郎であるライナスが前へ進み出た。
ライナスが静かに、最愛の人を見つめて口を開く。
「……エリカ」
その一言だけで、全てが通じていた。
純白のドレスに身を包んだエリカは、ライナスの腕に、そっと、けれど確かな力を込めて手を添えた。
かつて彼女の精神を蝕んでいた「アニマ=ゼロ」という名の呪いも、戦闘のたびに湧き上がっていた暗い殺意も、いまはもう微塵も存在しない。
ただ、愛する人の呼ぶ声と、この静寂だけが、彼女を優しく包んでいた。
エリカはライナスの瞳を真っ直ぐに見据え、ただ短く、微笑んで答えた。
「……ええ」
その背後では、仲間たちがそれぞれの距離で見守っていた。
バハルは、大きな体を小さく丸めるようにして、その太い腕に一人の赤ん坊を抱いていた。
リニとの間に授かった、生後11ヶ月になる娘だ。
「おい、よしよし……。今日はエリカ姉ちゃんの晴れ舞台なんだ、静かに見てような……」
かつて巨大な魔物を一撃で粉砕したその手が、壊れ物を扱うように繊細に赤ん坊をあやしている。
娘はバハルの髭を小さな手で掴んで楽しげに声を上げ、隣でリニが慈愛に満ちた目で見守りながら、そっと夫の肩に寄り添っていた。
一方、アルベローゼはといえば、教会の隅で「ふむふむ」と真剣な顔をして、宙に古代魔導エルフ文字をいくつも書き連ねていた。
淡い緑色の輝きを放つ文字たちが、彼女の指先の動きに合わせて空中に静かに並んでいく。
「アル、何をしているんだい?」
ディオンが小声で尋ねると、彼女は得意げにウィンクをした。
「内緒。せっかくの式なんだから、聖都の偉いおじさんたちがやるような古臭い儀式じゃなくて、私の最高傑作を見せてあげようと思ってね」
式は静かに始まった。老神父の掠れた声が、静寂の中に響く。
「……如何なる時も、共に歩むことを誓いますか?」
「誓います」
ライナスの声は、かつてないほど澄んでいた。
エリカはその言葉を聞いた瞬間、長年の旅で負った心の傷が、完全に癒えて消えていくのを感じた。
「私も、誓います。……死が二人を分かつまで、いえ、分かたれてもまた見つけ出すって、約束するわ」
エリカの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは悲しみではなく、全ての重荷から解放された、純粋な歓喜の雫だった。
指輪を交換し、二人が静かに唇を重ねたその刹那。
「――今だよ!」
アルベローゼが指をパチンと鳴らした。
書き連ねられた古代文字が弾け、教会の天井をすり抜けて、数千の「光の蝶」が舞い上がった。
それは彼女が編み出した、攻撃性の全くない純粋な光の精霊魔法。
蝶たちは教会の外へと溢れ出し、新しく生まれた青い海の上を、キラキラと輝きながらどこまでも飛んでいく。
「わあ……綺麗……」
エリカが顔を上げると、バハルの腕の中にいる11ヶ月の娘が、光の蝶を追いかけるように小さな手を伸ばしてキャッキャと笑っていた。
それを見たバハルが、ついに堪えきれずに「ううっ」と鼻を鳴らして泣き出した。
「おい、バハル。主役より先に泣くなよ」
ディオンが笑いながら彼の肩を叩く。
教会の外に出ると、半島の先には黄金色に輝く海が広がっていた。
かつては常に魔物の影を警戒し、剣を手放せなかった野外の散策も、今ではただの穏やかな風景の一部だ。
地底に沈んだ忌まわしい文明と共に魔の気配は完全に拭い去られ、今や子供たちが草原を駆け回っても、ただ蝶が舞うだけ。
新しい潮風が、芽吹いたばかりの草原をどこまでも優しく揺らしている。
のちに歴史家たちは、この一連の出来事をこう記すことになる。
「彼ら六人が歴史の表舞台にいた時間は短かった。しかし、彼らが魔の根源を断ったことで、人類は2000年に及ぶ『魔物に怯え、捕食され続ける暗黒の日々』から真に脱却したのである。」
壁の中に震えて閉じこもる時代は終わり、人は初めて、空と海の広さを自らのものとしたのだ」
ディオンはアルベローゼの肩を抱き、バハルは赤ん坊を高く掲げ、リニがそれを支える。
そしてライナスが、慈しみを込めてエリカを優しく抱き寄せた。
六人の英雄たちが歩んできた血と涙の道は、いま、この穏やかな村の昼下がりに辿り着いた。
彼らが救った世界は、これからゆっくりと、けれど確実に、この海のように美しく再生していくだろう。
遠くで響く波の音と、仲間たちの笑い声。
それは、これから数百年、数千年と歴史の教科書に残り、人々の口端に登り続ける「伝説」の、もっとも愛おしく、もっともささやかな真実の姿だった。
その奇跡の再会に、エリカの感情は激しく揺さぶられました。
彼女にとって、沈黙した魔導生物兵器研究所は、大切な仲間を追い詰め、死の恐怖に晒した忌まわしき負の遺産でしかありません。
「――全部、焼き尽くしてやるわ!!」
エリカが杖を突き立てると、彼女の魔力と怒りに呼応するように、足元から巨大な紅蓮の渦が巻き起こりました。
それは単なる火炎ではありません。
かつて彼女を蝕んだ「魔王」に対する思いが全て載せられた浄化の極大猛火。
『ゾーネル・デスロイ・インフェーノ(紅蓮の終焉業火)』
炎は触手のように這い回り、冷徹な機械群を溶かし、培養槽の汚濁した高濃度魔導水を蒸発させ、壁面に張り巡らされた魔導回路を一本残らず焼き切っていきます。
この火こそが、旧世界の終焉を告げる号砲となった
施設全体が断末魔のような軋み声を上げる中、エリカの魔法は「出口」を隠していた欺瞞の隔壁をも焼き落としました。
炎に照らされて露わになったのは、もはや骨組みだけとなった施設の中心を貫く、巨大な『水槽内点検用螺旋階段』。
「あそこよ! あそこから上へ行ける!」
エリカの叫びに導かれ、一行は燃え盛る研究所を背に、驚くほど高いところにある大水槽の頂点へと駆け上がりました。
辿り着いたそこには、瓶のコルク蓋のように嵌め込まれた、白く光る巨大な石がありました。 研究所のあらゆる機能を焼き払ったエリカの炎が、この最上部の封印を維持していた魔力をも限界まで弱めていました。
「……こいつが最後だ。どけ、俺が道を作ってやる!」
バハルが、全身の力を込めて大斧を振り抜きました。
ガゴォォォォォン!!
という轟音と共に「コルクの蓋」が打ち抜かれたその先から、眩いばかりの光が溢れ出しました。
光の向こう側に飛び出した一行が草原に降り立ったその時、世界は激しく震動しました。
世界中で大規模な地盤沈下が発生したのです。
特に、ディオンたちの故郷に近い広大な大砂漠は、地を割って押し寄せた海水に飲み込まれ、瞬く間に全てが青い海へと姿を変えていきました。
ライナスとエリカは思いました。
(魔導生物兵器研究所は、あの忌まわしき地下都市の天井を支え続けていた柱の中でも、要の柱の役目もあった。そこが崩壊した事から、全ての柱がバランスを保てなくなって連鎖的に崩壊したのだ)
傲慢な記憶を詰め込まれた「アニマ=ゼロ」と共に、あの狂った文明は永遠に地中深くへと没し、地図から消え去ったのでした。
揺れが収まったあとに残ったのは、美しく澄み渡った空と、新しく生まれた海のささやきでした。
彼らが立っていたのは、生まれ故郷アイナル村にある、あの古びた石碑の場所。
実は、この石碑こそが地下都市の「出入り口」を封じる最後の一片だったのです。
村の石碑の真下にはアニマ=ゼロの培養水槽があった事が判明したのでした。
だから、あの時エリカにアニマ=ゼロが取り憑いたのか。
ライナスは、察しましたがエリカの手を強く握りしめ、何も言いませんでした。
ライナスの視線に気がついたエリカは、ライナスの胸に顔を埋めて言います。
「大丈夫よ。私も同じ事思ってるから」
ライナスは、エリカの顎をやさしく持ち、世界で一番優しいキスをします。
エリカの頬にはとめどなく涙が流れていました。
それは、長きにわたって彼女の心を縛り付けていた孤独な呪縛が、最愛の人の温もりによって静かに溶け出していく、魂の浄化の証でした。
絶望の淵で見つめていた暗闇も、明日を疑う怯えも、その唇が触れた瞬間にすべてが過去という名の彼方へと押し流されていったのです。
「……帰ってきたんだ。本当に、僕たちの家に」
蘇生したばかりで、ほぼ一糸まとわぬ姿だったディオンとアルベローゼ。
二人は、バハルとライナスから借りた無骨なマントを肩から羽織っただけの姿でしたが、その表情は晴れやかでした。
ふと、アルベローゼが自らのマントの端を、小さく持ち上げました。
ディオンはただ静かにその内側へと応じます。 重なり合う無骨な布地は、二人だけの小さな聖域となりました。
その優しい闇の中で、二人はお互いの命を確かめ合うように、草原に仲良く倒れ込みました。
いずれ、彼らの帰還は村人から騎士団へ、騎士団から軍本部へ、そして女王エレオノーラの元へと届くでしょう。
世界を救った英雄たちの知らせは大陸全土を駆け巡り、各地で盛大な祝典と、終わりのない酒宴が彼らを待ち受けているはずです。
「また、バカ騒ぎができるな、バハル」
ディオンが空を見上げたまま、穏やかに笑いました。
「望むところさ、ディオン。……お前が戻ってこなかったら、誰とあんな馬鹿げた冒険ができるってんだ。今夜は付き合えよ。全員、生きてるんだからな!」
バハルが照れ隠しに豪快に笑い、その横でリニが涙を湛えた瞳で優しく微笑みます。
「皆さん、本当にありがとうございます。」
「ありがとうじゃないわ。あなたこそが英雄の一人なのよ。」
リニの頭を背伸びして撫でるエリカ。
リニは褒められているネコみたいに目を細めます。
少し離れた場所では、エリカが最愛の婚約者、ライナスの腕にしっかりと抱きついていました。 「エリカ。君たちと一緒だと本当に退屈しないな」
「当たり前でしょ、ライナス。……ねえ、私たちも、もう結婚しましょうよ。これからはずっと一緒にいたいの」
「もちろんだ。この旅を終えて、君を離す理由なんてどこにもない」
その幸せな空気に包まれながら、アルベローゼはディオンの胸に顔を埋め、いたずらっぽく囁きました。
「ディオン、私はあなたのことが大好きなんだよ。知ってる?」
「……アルベローゼ、僕だってそうさ。言葉では足りないくらいにね」
「ガハハ! おいディオン、お熱いのは後でやれよ!すっぽんぽんだろ! マントの下がどうなってんのか、村の奴らに見られたら小っ恥ずかしいぜ!」
バハルの野暮天な冷やかしが青空に響き渡り、六人は一斉に笑い出しました。
かつての地下文明は地底に沈み、新しい平和が始まりました。
世界を揺るがした地盤沈下から一年。
かつて大砂漠と呼ばれた場所は、いまや生命の輝きを湛えた内海へと姿を変えていた。その辺境、地図にも記されていないような小さな半島の村に、六人の英雄たちの姿があった。
豪華な王宮の祭壇ではなく、潮風にさらされて木肌の剥げた、小さな村の教会。
そこには着飾った貴族も、鳴り響く祝砲もない。
ただ、村の老神父が静かに控える中、新郎であるライナスが前へ進み出た。
ライナスが静かに、最愛の人を見つめて口を開く。
「……エリカ」
その一言だけで、全てが通じていた。
純白のドレスに身を包んだエリカは、ライナスの腕に、そっと、けれど確かな力を込めて手を添えた。
かつて彼女の精神を蝕んでいた「アニマ=ゼロ」という名の呪いも、戦闘のたびに湧き上がっていた暗い殺意も、いまはもう微塵も存在しない。
ただ、愛する人の呼ぶ声と、この静寂だけが、彼女を優しく包んでいた。
エリカはライナスの瞳を真っ直ぐに見据え、ただ短く、微笑んで答えた。
「……ええ」
その背後では、仲間たちがそれぞれの距離で見守っていた。
バハルは、大きな体を小さく丸めるようにして、その太い腕に一人の赤ん坊を抱いていた。
リニとの間に授かった、生後11ヶ月になる娘だ。
「おい、よしよし……。今日はエリカ姉ちゃんの晴れ舞台なんだ、静かに見てような……」
かつて巨大な魔物を一撃で粉砕したその手が、壊れ物を扱うように繊細に赤ん坊をあやしている。
娘はバハルの髭を小さな手で掴んで楽しげに声を上げ、隣でリニが慈愛に満ちた目で見守りながら、そっと夫の肩に寄り添っていた。
一方、アルベローゼはといえば、教会の隅で「ふむふむ」と真剣な顔をして、宙に古代魔導エルフ文字をいくつも書き連ねていた。
淡い緑色の輝きを放つ文字たちが、彼女の指先の動きに合わせて空中に静かに並んでいく。
「アル、何をしているんだい?」
ディオンが小声で尋ねると、彼女は得意げにウィンクをした。
「内緒。せっかくの式なんだから、聖都の偉いおじさんたちがやるような古臭い儀式じゃなくて、私の最高傑作を見せてあげようと思ってね」
式は静かに始まった。老神父の掠れた声が、静寂の中に響く。
「……如何なる時も、共に歩むことを誓いますか?」
「誓います」
ライナスの声は、かつてないほど澄んでいた。
エリカはその言葉を聞いた瞬間、長年の旅で負った心の傷が、完全に癒えて消えていくのを感じた。
「私も、誓います。……死が二人を分かつまで、いえ、分かたれてもまた見つけ出すって、約束するわ」
エリカの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは悲しみではなく、全ての重荷から解放された、純粋な歓喜の雫だった。
指輪を交換し、二人が静かに唇を重ねたその刹那。
「――今だよ!」
アルベローゼが指をパチンと鳴らした。
書き連ねられた古代文字が弾け、教会の天井をすり抜けて、数千の「光の蝶」が舞い上がった。
それは彼女が編み出した、攻撃性の全くない純粋な光の精霊魔法。
蝶たちは教会の外へと溢れ出し、新しく生まれた青い海の上を、キラキラと輝きながらどこまでも飛んでいく。
「わあ……綺麗……」
エリカが顔を上げると、バハルの腕の中にいる11ヶ月の娘が、光の蝶を追いかけるように小さな手を伸ばしてキャッキャと笑っていた。
それを見たバハルが、ついに堪えきれずに「ううっ」と鼻を鳴らして泣き出した。
「おい、バハル。主役より先に泣くなよ」
ディオンが笑いながら彼の肩を叩く。
教会の外に出ると、半島の先には黄金色に輝く海が広がっていた。
かつては常に魔物の影を警戒し、剣を手放せなかった野外の散策も、今ではただの穏やかな風景の一部だ。
地底に沈んだ忌まわしい文明と共に魔の気配は完全に拭い去られ、今や子供たちが草原を駆け回っても、ただ蝶が舞うだけ。
新しい潮風が、芽吹いたばかりの草原をどこまでも優しく揺らしている。
のちに歴史家たちは、この一連の出来事をこう記すことになる。
「彼ら六人が歴史の表舞台にいた時間は短かった。しかし、彼らが魔の根源を断ったことで、人類は2000年に及ぶ『魔物に怯え、捕食され続ける暗黒の日々』から真に脱却したのである。」
壁の中に震えて閉じこもる時代は終わり、人は初めて、空と海の広さを自らのものとしたのだ」
ディオンはアルベローゼの肩を抱き、バハルは赤ん坊を高く掲げ、リニがそれを支える。
そしてライナスが、慈しみを込めてエリカを優しく抱き寄せた。
六人の英雄たちが歩んできた血と涙の道は、いま、この穏やかな村の昼下がりに辿り着いた。
彼らが救った世界は、これからゆっくりと、けれど確実に、この海のように美しく再生していくだろう。
遠くで響く波の音と、仲間たちの笑い声。
それは、これから数百年、数千年と歴史の教科書に残り、人々の口端に登り続ける「伝説」の、もっとも愛おしく、もっともささやかな真実の姿だった。
0
あなたにおすすめの小説
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ゴミ捨て場領主のクラフト無双 ~最弱魔法【分解と合成】で領地を黄金郷に変えたら、俺を見下していた大貴族令嬢たちが掌を返してすり寄ってきた件~
namisan
ファンタジー
東西南北の大貴族から「毒の川」「凶暴な魔獣」「莫大な借金」を押し付けられ、王国の『ゴミ捨て場』と化したローゼンベルク領。
父と兄を謀殺され、その絶望の領地を押し付けられた無能貴族のアークは、領地の分割を企む高慢な令嬢たち(王女、公爵令嬢、姫将軍など)に嘲笑われていた。
だが、彼には現代の知識と、隠された最強チート能力があった!
触れたものを瞬時に素材に戻し、全く別のモノに作り変える神の御業――【分解と合成】。
「毒の川」を分解して『超高価な宝石と純水』へ!
「魔獣の死骸」と「瓦礫」を合成して『絶対に壊れない防壁』へ!
借金取りには新素材を高値で売りつけ、逆に敵の経済を支配していく。
圧倒的なクラフト能力で、瞬く間にゴミ捨て場を「無敵の黄金郷」へと作り変えていくアーク。
己の敗北を悟り、震え上がる悪徳貴族と高慢な令嬢たち。
さらに、アークの圧倒的な知略と底知れぬ実力は、気高い令嬢たちの本能に深く刻み込まれていく。
「どうか、私をあなたの手駒としてお使いください……っ!」
プライドを完全にへし折られた最高位の美少女たちは、いつしかアークの与える『恩恵』なしでは生きられないほど、彼に絶対の忠誠と依存を誓うようになっていく――。
最弱のゴミ捨て場から始まる、爽快クラフト内政&ざまぁファンタジー、堂々開幕!
結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
【完結】お飾りではなかった王妃の実力
鏑木 うりこ
恋愛
王妃アイリーンは国王エルファードに離婚を告げられる。
「お前のような醜い女はいらん!今すぐに出て行け!」
しかしアイリーンは追い出していい人物ではなかった。アイリーンが去った国と迎え入れた国の明暗。
完結致しました(2022/06/28完結表記)
GWだから見切り発車した作品ですが、完結まで辿り着きました。
★お礼★
たくさんのご感想、お気に入り登録、しおり等ありがとうございます!
中々、感想にお返事を書くことが出来なくてとても心苦しく思っています(;´Д`)全部読ませていただいており、とても嬉しいです!!内容に反映したりしなかったりあると思います。ありがとうございます~!
転生幼女の国家級チート図書館~本を読むだけで技術が進化する世界で、私だけ未来知識持ちでした~
ハリネズミの肉球
ファンタジー
目が覚めたら、私は5歳の幼女だった。
しかもそこは――
「本を読むだけで技術が進化する」不思議な異世界。
この世界では、図書館はただの建物じゃない。
本を理解すればするほど、魔道具も、農業も、建築も“現実にアップデート”される。
だけど。
私が転生した先は、王都から見捨てられた辺境の廃図書館。
蔵書は散逸、予算ゼロ、利用者ゼロ。
……でもね。
私は思い出してしまった。
前世で研究者だった私の、“未来の知識”を。
蒸気機関、衛生管理、合金技術、都市設計、教育制度。
この世界の誰も知らない未来の答えを、私は知っている。
だったら――
この廃図書館、国家級に育ててみせる。
本を読むだけで技術が進化する世界で、
私だけが“次の時代”を知っている。
やがて王国は気づく。
文明を一段階進めたのは――5歳の幼女だったと。
これは、最弱の立場から始まる、知識による国家再設計の物語。
※本作品は、人工知能の生成する文章の力をお借りしつつも、最終的な仕上げにあたっては著者自身の手により丁寧な加筆・修正を施した作品です。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる