最果ての海に、蝶は舞う〜始まりの潮風と異形の意思〜

うなぎかご

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第49話 外伝 アルベローゼ編

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 アルベローゼ・ル・シルフェーン

 エルフの時間は、人間たちのそれよりもずっと凪いでいる。
 私たちの寿命は、彼らの倍――およそ二百年ほど。
 だからだろうか、幼い頃から一緒に遊んでいたアイナルの村の子供たちが、気づけば私を追い越し、逞しい青年へと変わっていく姿を見るのは、どこか不思議な、取り残されたような心地がするものだった。
 サクッ、サクッ。規則正しい音が、深い緑の静寂に溶けていく。
 幼いアルベローゼは、小さな手で白樺の端材を削っていた。 
「アル。削るばかりがエルフの業(わざ)ではないよ」  
 傍らで古びた羊皮紙を広げていた父が、穏やかに言った。
 父は村を守る戦士であったが、もう一つの顔を持っていた。
 今は伝承が途絶えつつある『古代魔導エルフ文字』の研究者だ。 
「この文字も、この木玉と同じだ。形の中に流れる意味を読み解き、精霊の波紋を捉えるんだ」 
 白樺を削る作業の合間に叩き込まれる難解な古代文字。
 それは父の隣で文字をなぞる、温かな「継承」の儀式だった。
「……できた。お父さん、誕生日おめでとう!」  削り出した木玉を繋いだ首飾りを、父の首にかける。
 父は研究用の眼鏡を外すと、私を軽々と抱き上げた。 
「最高のお守りだ。これがあれば、私は世界で一番無敵なエルフになれるな」  
 父の胸から伝わる確かな鼓動。
 この温もりが、エルフの長い一生の間、ずっと続くものだと信じて疑わなかった。

 エルフにとっての「二百年」は、人間よりも多くの「気配」を拾い上げてしまう。
 だからこそ、父さんはあの日、森が発していた絶望の予兆を、誰よりも痛烈に感じ取っていたはずなのだ。
 あの日、森の鳥たちが一斉に声を潜めた。
「封印が消える!急がねば」
 封印を修復すべく家を出た父は、傷だらけの身体で戻ってきた。
 その背後には、闇を練り固めたようなヴィルヘル(魔物)の奔流。 
「逃げろ! アル、お母さんを連れて中へ!!」 
 叫ぶ父の首元で、白樺の首飾りが激しく揺れていた。
 父は圧倒的な数の絶望を食い止めるべく、たった一人で闇の中へと飛び込んでいった。
 「お父さん!!」  
 駆け寄ろうとする私を制するように、父が振り返る。

 それが最後だった。  
 お父さんの友だちのガリアス様が、無数の傷を負いながら、ようやく来てくれた。
「ヴォルーーフ!」
 無数の影が父の身体に食らいつく。
 抗えぬ闇の奔流がその巨躯を森の深淵へと強引に引きずり込んでいく。
 ガリアス様は私と母の前に立ちはだかって、ヴィルヘルを斬り続けた。
(そんな事しなくていいから、私のお父さんを早く助けて! )
 何も声は出なかった。
 光の中にいた父の姿が、私が贈ったあの白樺の首飾りをつけたまま、闇の奥底へと吸い込まれ、消えた。

 父の葬儀を終えた夜、アイナル村の守護職ガリアス様が私を訪ねてきた。父の無二の親友だった、あの男。
 彼はお父さんが封印を補強しに行った時、遅れて到着したのだ。
 だからお父さんは死んだ。  
 屈強な彼が、私の前で崩れ落ちるように膝をつき、絞り出すような声で言った。
「すまない、アルベローゼ。……私は、あいつの腕を、…………すまない」
 ガリアス…様の拳が、土を掴んで白くなる。 「闇に呑み込まれるあいつを、私は……だが、ヴィルヘル(魔物)の勢いに抗いきれず、私は……目の前にいたのに、……あいつを救えなかったんだ!!」
 嗚咽混じりのその言葉に、私は息を呑んだ。
 父が「いなくなった」のではない。
 救えるはずの距離にいた父が、友の目前で闇へ消えていったという、あまりにも残酷な真実。  
「顔を上げてください、ガリアス様」  
 私は震える指で、ガリアス様の大きな肩に触れた。
 「お父さんはきっと、一人じゃないって思えたはずだから。……お父さんが守ったこの命で、今度は私が、みんなを支える番です」
 でもそれは、物分かりの良い私という建前。
 本当は、違うとわかっているのにガリアス様を責める気持ちが消えなかった。

「こいつのせいで、お父さんが死んだ!違う違う!……違………う…」
 どんなに頭から振り払おうとしても、大好きな友人、ディオンのお父さんを恨んでしまう自分が嫌いだった。
 私の性格は恨みで暗くなる。
 それは悟られたく無い。
 私は特別明るい娘になった。
 なぜなら、頭の中にベッタリと血糊のようにこびりついた恨みを見られたく無いから。
 お母さんはとても暗くなった。
 食事もまともにしなくなった。
 少し変になっているのかもしれない。
 見えないお父さんと会話をするのが目立った。
 お母さんは、悲しみの中で亡くなってしまった。
 お母さんはとても、お父さんが好きだった人、きっとお父さんが居ないと生きられない人だった。

 人間たちの時間は、エルフの半分しかない。
 だからこそ、彼らが放つ生命の輝きは眩いほどに強烈で、一瞬で消えてしまうほどに愛おしい。
 父を救えなかったガリアス様の悔恨を、そして今もディオンやエリカを蝕む「闇」を、私はエルフとしての長い一生を懸けてでも、断ち切ると決めたのだ。

 アイナル村の静かな夜。
 アルベローゼの部屋には、旅の支度が完璧に整えられた荷袋が鎮座していた。  
 母が狩人として使っていた頃の少し壊れそうな白樺の弓。
 ディオンが旅に出ると知ってから、こまめに作ったお手製の矢。
 そして、野営でも困らない着替えと生活用品。  彼女は窓辺に腰掛け、月を見上げながら、何度も心の中で予行演習を繰り返していた。
(……よし。そろそろディオンが、少し申し訳なさそうな顔をしてドアを叩くはず。「アルベローゼ、危険な旅になるが、一緒に来てくれ」って。
 そしたら私は、少しだけ考えたふりをして、「仕方ないわね」って頷いてあげるの)
 ……しかし。  二つ砂時計の刻、三つ、四つ、(二時間、三時間、四時間)村の夜は深まっていくがドアのノック音は一向に響かない。
「……ちょっと、なんなのよアイツ!」
 アルベローゼは思わずベッドを叩いた。  
 村の酒場ではカイルたちが「ディオンが明日旅立つぞ!」と大声で吹聴し、エルフの森の子供たちですら「ディオン兄ちゃん、バイバイだね」と噂している。
 村中で知らないのは、寝た子と犬くらいのものだ。  
 それなのに、一番の幼馴染であり、父同士が親友であった自分に、いまだに直接の相談がない?
「なんで私に言いに来ないわけ!? 隠密? 隠密計画のつもり!? 笑わせないでよ、ザルどころか、底の抜けた桶みたいな計画じゃない!」
 彼女は部屋の中を猛然と歩き回った。  
 ディオンのことだ。
 きっと「アルベローゼを危険に巻き込みたくない」とか、ガリアス様の遺志を一人で背負うのが美学だとか、そんな勝手な自己完結をしているに違いない。

「許さない……絶対に許さないんだから。明日、黙って一人で門を抜けようとしたって無駄よ。村の入り口で、これ以上ないくらいのドヤ顔で待ち構えてやるんだから!」
 鼻息を荒くして、彼女は再び荷袋を睨みつけた。  
 だが、ふと一つの疑問が浮かぶ。
「……でも、朝って、何時よ。あいつ、真面目だから夜明け前には出るわよね? それとも、さらに裏をかいて深夜? ……むきーー!! はっきりしなさいよ、もう!」
 アルベローゼは枕を投げ飛ばし、結局、一睡もせずに村の入り口へ向かう決意をした。  
 父ヴォルフがガリアスの指先目前で消えたあの日から、彼女は決めていたのだ。
 もう二度と、あの一族の背中を、悲しい形で見送ったりはしない。
「……寝過ごしたら一生の不覚よ。こうなったら、今から門の前で野宿してやるんだから!」
 彼女は白樺の弓を掴み、怒りと愛情をまぜこぜにしながら、夜のアイナル村へと飛び出していった。
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