春風ドリップ

四瀬

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第十話 理由

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「……ふぅ。春姉、こっちの掃除は終わったぜ!」

沢崎さんが扉を開け、店の外をほうきで掃いていた私に報告をする。

任せていた店内の掃除を終えたのだろう、表情がどこか晴れやかだ。

「ありがとうございます。私もあと少しで終わるので、今日は終了で構いませんよ」

沢崎さんの方へ目線を合わせながら、私は淡々と述べる。

時刻はもう二十二時、就業時間はここまでだ。

「春姉が掃除をまだしてるのに、帰れるわけないって」

「あっ……」

そう言いながら、私からほうきを奪い掃除を代わりに始める。

「本当に大丈夫ですよ? 今日は特にお疲れでしょうし」

「それは春姉だって同じだろ。むしろ、春姉の方が大変だったんじゃないか?」

「そんなことはありません。ですが……ありがとうございます」

沢崎さんの優しさに素直に甘え、大人しく掃除を任せる私。

「それにしても……今日は忙しかったですね」

満点の星空を見上げながら、ふと今日を振り返る。

生温い風が、二人の間を吹き抜けた。まだまだ、快適な気温となるにはしばらくかかりそうだ。

「そうだな……まさか、あんなに客が来るなんて」

「これまでで一番の忙しさでしたから……本当に、皆さんには助けられました」

まあ、沢崎さんがいなかったら、あの忙しさもなかったわけなのだけど。

「いや、こっちこそありがとう。こんな俺を雇ってくれて」

どこか真剣な眼差しで、そう感謝を告げる沢崎さん。

……そういえば、どうしてバイトを始めたかったのだろうか。

初めて出会ったとき、結構打ちひしがれていたような。

沢崎さんのことだ、きっと、欲しいバイクとかあるのかもしれない。

「沢崎さんは優秀ですよ。敬語や態度がちょっとあれですが、そんなのが霞むくらい素敵な人です」

「あの時、あのお客さんを投げ飛ばしてくれたこと。私は忘れませんよ」

「あ、あはは……それは、悪かったって」

「いえいえ、責めてるわけではありません。素直な気持ちです」

このお店を、私を馬鹿にした発言をして、それに対し怒りを露わにしてくれたことは、正直とても嬉しかった。

「そりゃ、春姉とお店を馬鹿にされたら……な」

「そういう優しいところが、白井さんや他の後輩たちに好かれている、理由の一つなんでしょうね」

そんな私の言葉に、どこか照れた様子で頬をかく沢崎さん。

「い、いや……あいつらはただのダチっていうか……」

褒められ慣れてないのか、ほんのりと頬を赤らめながら言い淀む。

「良いですね、友達って。私はいませんから尊敬出来ます」

「おいおい、寂しいことを言わないでくれよ! 俺たちはダチだろ!」

「いえ、雇用主と従業員です」

声色を変えず、淡々とそう言ってみせる私。

「相変わらず春姉は、そういうところ冷たいなぁ。あ、そうだ! 愛姉さんこそ友達だろ?」

「いえ、店員とお客様です」

再び、声色を変えずに呟く。

「えぇ……あんなに仲が良いのに?」

「……だって嫌じゃないですか。こちらが友達だと思っていても、あちらがそう思っていなかったら」

「は、春姉……! なーんだ、そういうことかよー!」

急にほうき片手に肩を抱き、私の頭をわしゃわしゃと撫でる沢崎さん。

「な、何ですかいきなり!」

「いや、春姉があまりにも可愛いことを言うもんだからさー!」

「ちょ、ちょっ……! やめてください」

強引に彼女を引き剝がし、私は抗議の眼差しを向ける。

「そーんなこと、いちいち気にしてたらキリがないって! それに、自分が相手を友達と認識してるときは、たいてい相手もそう思ってくれてる。逆に、自分が相手を嫌いなときは、相手もこっちを嫌いなのが多い。案外、そういうもんだよ。まあ、フツーの人に限りだけどな」

「……そういうものなんですか?」

「俺の経験上、ね。それにしても春姉が、まさかそんな繊細だったなんて」

「う、うるさいですよ」

私の肩に腕を回し、寄りかかるような体勢でそんなことを呟く沢崎さん。

「でも、そんな意外な部分なんて、誰でも持ってるもんか」

急に、どこか納得した様子で呟く。

「つまり、沢崎さんにもあるってことですね?」

「ん? いやいや、俺はないよ」

「俺はただの、素行の悪い親不孝者な学生ってだけ」

そう返す沢崎さんの声色は、どこか寂しげで……ただの冗談交じりな台詞には聞こえなかった。

「……沢崎さんって同い年ですよね?」

「ん? そうだけど?」

「そんな、先輩みたいな風格を出さないでもらっていいですか」

今沢崎さんに缶コーヒーを持たせようものなら、完璧に青春時代を憂う大人の出来上がりだ。

「そ、そんなことを言われてもな……」

「よし、じゃあ星を見上げながら、いつかこのミニドリップで天下を取ろうって誓うか!」

「誓いません。それに天下って……喫茶店の全国大会でもあるんですか?」

「……さあ? あるんじゃねーの? わかんないけど」

「……はぁ」

とぼけた表情の沢崎さんを見て、思わずため息が一つ。

「早くバイクの資金を貯めてもらって、ミニドリップから追い出しましょう、この人は」

「そんなツレないこと言わないでくれよ! って、バイク?」

「沢崎さんのことだから、バイクが欲しくてアルバイトを始めたんじゃないんですか?」

私の問いに、沢崎さんが小さく笑う。

「バイクかー。確かに欲しいけど、そんな贅沢なもんは買えないかなー」

「それに免許持ってないから、まずはそっちかな。買うとしても」

「え、免許持ってなかったんですか……?」

勝手にバイクの免許を持っていて、普段乗り回している想像をしていた私は、素直に驚いてしまった。

「ああ。本当は早く免許取って、白井達とツーリングでもしてみたいんだけどな」

「え、じゃあ一体何でバイトを……?」

「ん、まあほら……遊ぶためだよ、遊ぶお金が欲しくて、ね」

「……なるほど、そうだったんですね」

一瞬、どこか上ずった声。微量の言い淀みを感じた私は、あえて深く言及することはしなかった。

濁すということは、きっと触れられたくないのだろう。

時々この、勘の鋭さが嫌になる。気づかない方が幸せだった、この世にはそういうことだって多々あるのだから。

「さ、もう夜も遅いですし、そろそろお開きにしましょうか」

夜も更け、ようやく忙しかった今日が終わる。

「明日もまた、よろしくお願いします」

「ああ。こちらこそ、よろしく」

表情を変えず、沢崎さんに言ってみせる。

私は沢崎さんが最後に発した言葉を、静かに頭の隅へと追いやった。

ここで尋ねてしまったら、きっと沢崎さんは明日から来なくなってしまうかもしれない。何故だか、そんな気がして。

内心をひた隠しにしながら、沢崎さんからほうきを受け取る。

髪を撫でる生温い風。妙な心のざわめき、不快感は夏の暑さ故なのか、それとも……。

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