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第十一話 期待
しおりを挟む「今日も今日とて、平和ですね」
「あー……そうだなぁ……」
窓の外を眺めながら、私と沢崎さんは暇そうに呟く。
夏も終わりが近く、赤とんぼがちらほらと見かけるようになった今日この頃。
外は相変わらずの晴天。少し気温は落ちたものの、まだ暑い日々は終わりそうにない。
現在、昨日の忙しさが嘘のように喫茶ミニドリップは落ち着いていた。
確かに売り上げが増えるのはありがたいが、昨日みたいな忙しさは年に一回くらいでいい。そう感じていたものの……。
だからといって、今日のような暇すぎる状況は……これはこれで極端じゃないか。
「暇だー……」
カウンターの椅子に腰かけ、テーブルに頬杖をつきながらそうぼやく沢崎さん。
「そうですね……」
グラスを磨きながら、私もため息をつく。
大きな木製の掛け時計に視線を向ける。気づけば、十三時を迎えようとしていた。
「もうお昼時ですか……。今日は何を食べます?」
その日のランチのことを考える、客足が少なく暇なときの特権だ。
「お、もうそんな時間か! そうだなー、春姉は何か食べたいものとかある?」
「私は……うーん」
沢崎さんのさりげない問いに、思わず真剣に考える。
今食べたいもの……か。
「いざ考え出すと、意外と決まらないんですよね、こういうのって」
「沢崎さんは普段、どういったものを食べてるんですか?」
「ん? 俺? 俺は牛丼とかラーメンかなー」
「何というか、男らしいですね」
小遣い制の、サラリーマンのランチを彷彿とさせるラインナップに、私は少しだけ言い淀む。
「ま、安いし美味しいからな」
理由まで、彷彿とさせてくるとは。流石は沢崎さん。
「一人でラーメン屋に入れるのは、素直に尊敬します」
「え? 春姉入れないのか?」
「はい。ちょっと敷居が高いといいますか……ですので、カップ麺以外のラーメンを食べたことがありません」
「なんだって! おいおい、そりゃ行くしかねえ!」
私の言葉を聞いて、驚きながら興奮気味にそう言い放つ沢崎さん。
実際、興味はあったのでその提案は嬉しくもあった。
「わかりました。今日のお昼はごちそうするので、沢崎さんがおすすめするラーメン屋に連れて行ってください」
「よーし! とっておきの店を春姉に紹介するぜ!」
そう強く意気込む沢崎さんとともに、私たちは早速支度を始めたのだった。
「……これが、ラーメン屋」
開口一番、まるでラーメン屋すら見たことがないかのような、誤解を生む発言をしてしまった私。
流石にお店くらいは見たことがある、入ったことがないだけで。
「ここが、俺がよく行くラーメン屋の一つ、清水屋。オーソドックスな醤油ベースの中華そばで、毎日行っても飽きないくらい旨い。きっと春姉も気に入ってくれるはず!」
赤い屋根に大きく白字で書かれた、清水屋の文字。
町の風景に馴染んだ、年季の入った建物のラーメン屋。
扉は木製のスライド式。入り口の前で並んでいた人たちが、店の中に消えていく。
そして三人ほど並んでいる列に、私と沢崎さんが並ぶ。
白のワイシャツに、無地の黒いスカート姿の女性が二人。
私たちがもう少し大人っぽかったら、昼下がりのOLに見えたかもしれない。
「今日は運がよかった。基本、十人ぐらいは並んでいるからなー」
「なるほど。正直初めての経験なので、とても楽しみです」
「ほかにも家系ラーメンのお店とかあるんだけど、初めてなら、やっぱ基本の醤油かなーって」
「家系……?」
馴染みのない単語に、思わず聞き返す。
塩系や味噌系と言われれば、まだ理解ができるのだが。
「醤油豚骨ベースで濃いめのラーメンなんだけど、また旨いんだこれが」
「私が知らないだけで、ラーメンにも色々種類があるんですね……」
基本的な味しか知らなかった私は、素直に感心する。
「それにしても、沢崎さんがラーメン通だったなんて」
「いやー白井がラーメン好きでさ、学校帰りとかしょっちゅう付き合わされてな。それで、気づいたら俺もハマってた」
「なるほど、あの人が原因だったとは」
「まーた旨い店を知ってるんだよ、あいつ。連れ回される覚悟があるなら、聞いてみるのもいいかもしれない」
「……止めておきます」
一瞬頭の中で考え、非常に厄介なことが容易に想像できた私は、静かに遠慮したのだった。
「お待たせしました、中華そばの並です」
他愛のないやり取りを交わしながら暇を潰し、ようやく訪れた対面の時。
カウンター席に座り、しばらくして目の前に現れた中華そばなるもの。
ナルト、チャーシュー、ほうれん草、メンマ、それらがどんぶりの中で綺麗に並べられていた。
醤油と、煮干しベースの香りがほんのりと広がり、一気に食欲をかきたてる。
「これが……中華そば」
「おや、お嬢さんもしかして初めて?」
「俺のバイト先の店長でさ! 店のラーメンを食べたことがないって言うから、ここに連れてきたんだ」
爽やかな印象の、ラーメン屋の男性店主に、沢崎さんが楽しそうに説明する。
「初めて入るラーメン屋に、ここを選んでくれるとは。嬉しい話だねえ」
「よーし、ウチの特製味玉をおまけしちゃおう」
そう言いながら、二等分された味玉の入った小皿を、私と沢崎さんに差し出す。
「おっ! さっすが店長! 気前がいい!」
「あ、ありがとうございます」
そんな時、隣にいた初老の男性が微笑みながら呟いた。
「気をつけなお嬢ちゃん、それはここの店主の常套手段だ。俺もその手口にはまって、今や週二回は通う常連の仲間入りさ」
「おいおい佐藤さん、人聞きが悪いなぁ」
「なーに言ってんだよ、あくまでも真実を述べたまでさ。なあ?」
そんな言葉に、他のお客さんが笑いながら同調する。
なるほど、ここの店主はお客さんにとても愛されているようだ。
私はどこかほっこりした気持ちになりながら、中華そばを食べ始めるのだった。
「春姉ごちそうさま! いやー、やっぱり旨いなーあそこは!」
「はい、とても美味しかったです」
絶品の中華そばを食べて、満足感に浸りながら私たちは商店街を歩く。
「腹一杯になると、眠くなるから午後は苦手なんだよなぁ」
「もしかして沢崎さん、水泳後の授業中に寝るタイプですか?」
「あー、毎回爆睡しちゃってるなぁ。でもあれは、ほとんどの人間が寝てないか?」
「そんなことありません、私は起きてますよ」
「ま、マジ……? あの時間、寝ない人間なんているのか……?」
心底驚いた様子の沢崎さん。どうやら、本当に信じがたいらしい。
「確かに眠いですよね、あの時間。気持ちはわかります」
「腕っぷしには自信あるけど、あの睡魔には……どうやっても勝てる気がしない」
「なるほど、最強の沢崎さんを倒せる、数少ない強敵と……」
からかい気味にそう呟きながら、私は小さく微笑む。
「というより、真面目に授業受けてたんですね。てっきり屋上でサボっているもんだと思ってました」
「屋上でサボるのは夢だよなー! まあ、施錠されて入れないのが現実だけど」
お店に帰るまでの帰路、そんな何でもない話をしながら、私たちは歩く。
「はぁ……もうすぐ夏休みも終わりか……」
ふと、そんなことを沢崎さんが口走る。
「もう二十七日ですからね……あっという間です」
「なーんか、夏らしいことしないで終わっちゃったなー」
残念そうにため息をつきながら、沢崎さんがぼやく。
「海水浴、バーベキューにキャンプ……夏と言えば、色々イベントがありますよね」
「あーバーベキューいいなー! ミニドリップのメンバーで、そういうイベントとかやらないのか?」
「ミニドリップメンバーって……それは武藤さんを含めて、ですか?」
「当たり前だろ! 従業員だったら俺と春姉しかいないじゃんか」
「……それもそうでした」
至極当然のツッコミに、思わず感心する私。
「なー行こうぜー! 明日は日曜日だしさ、きっと愛姉さんも休みなんじゃないか?」
「いや……あの人、ああ見えて忙しい人ですからね……多分来ないと思いますよ」
「それに私も、日焼けするの嫌ですし」
何より私の脳内武藤さんが、なーんで休日に子供のお守なんてしないといけないのよ! と叫んでいる。
きっと、イケメンでもいれば来てくれるだろうけど。あの人は来ないだろう。
「え! バーベキュー!? いいじゃんいいじゃん! 行こうよ!」
時刻はあれからだいぶ経ち、十九時半となる頃。
武藤さんが来店し、アイスコーヒーを飲んでひと息ついたところで、沢崎さんがさっそく頼み込む。
そして、その答えがこれである。
「いよっしゃ! さっすが愛姉さん! 最高っす!」
すんなり快諾してくれた武藤さんに、沢崎さんが思わず喜びながら叫ぶ。
「えぇ……」
そんな二人をよそに、私は武藤さんをジト目で見つめていた。
「絶対、行かないって言うと思ってました」
「何でさー! バーベキューだよ? そんなの絶対楽しいじゃん!」
「だって、イケメンとかいませんよ?」
淡々と、武藤さんに問いかける。
「……はるちゃんって、私をどういう人間だと思ってるのかな?」
そんな私の言葉に、文句ありげな様子の武藤さん。
「彼氏が欲しいけど、ろくな男に出会えないハイスペック系女子。でしょうか」
「うーん……何だろうこの、褒められているような、馬鹿にされているような」
「愛姉さんは皆の憧れっす! 白井なんて、もはや崇拝してるっすよ!」
「あらー! 嬉しいこと言ってくれるねえ! どっかの無愛想店主とは大違い!」
「誰が無愛想店主ですか」
「よーし! こうなったらでっかい車をレンタルしちゃうぞー! 恵梨ちゃんたちも呼んで、明日は皆でバーベキューだー!」
「っしゃー! やっぱ最高だぜ愛姉さん!」
ガラにもなく大はしゃぎしながら、早速白井さんに連絡を取り始めた沢崎さん。
まさか、こんな展開になるとは。
「……あ!」
そんな時、武藤さんが何やら閃いた様子。
私は知っている。あのしたり顔は、大抵ろくでもないことを思いついた時だ。
「はるちゃん、ここは呼んじゃおうよ。あの色男君」
「……え?」
「だって、仮にも花火大会に誘ってもらったわけでしょ? 一回くらいはこっちから誘っても良いんじゃない?」
「い、いや日焼けしたくないので……そもそも、行くとは一言も……」
それに、あの人とはただの友達で、何でもないわけで……。
「あー聞こえませーん! そんな言い訳は聞こえません!」
「行きたいか、行きたくないか、それだけだよはるちゃん」
「そ、それは……」
茶化すように笑いながらそう言いつつも、どこか真面目な眼差しの武藤さん。
「……やぶさか、ではないですけど」
「ほーんっと素直じゃないんだから……! この無愛想店主は、もー!」
「だ、誰が無愛――」
そう言いかけたところで、武藤さんがカウンターから乗り出して私の身体をまさぐり始める。
「!!??」
「真夜ちゃん! はるちゃんのスマホを奪って!」
「イエッサー!」
武藤さんの一言で、すぐさまカウンターに回り、私を羽交い絞めにする沢崎さん。
「んなっ! こ、こんなことをして良いと思ってるんですか! げ、減給ですよ!」
「すまねえな、春姉。愛姉さんには逆らえないんだ」
「ふっふっふ……これが大人の力だよ、はるちゃん」
そう言いながら私のスマホを見つけ、手に取る。
「さて、暗証番号は? 一一九二? 四九四六?」
「い、言うわけないじゃないですか」
「真夜ちゃん」
武藤さんが沢崎さんに合図を送る。瞬間――
脇をくすぐられ、身体中に走る刺激。
「ふあっ!!」
「ほーらほーら、早く言った方が身のためだよー?」
「ふっ……ふふぅ……!」
眉をひそめ、必死に笑いをこらえながら、私は我慢する。
「……真夜ちゃん」
武藤さんの合図で、さらにくすぐりが強まる。
「――ぶはっ! あ、あっははははは!! わ、わかりました!! 言います言います言います!!」
こらえきれず、勢いよく笑い出してしまった私は、全力で降参した。
「四……九……八……九……」
カウンターに突っ伏し、虚ろな目でよだれを垂らしながら力尽きる私。
「大人しく渡しておけば、そんなみっともない姿をさらすことはなかったのにー」
上機嫌でパスワードを解除し、すぐさま伊田さんに電話を始める武藤さん。
「もしもし? えっとはるちゃん……春風の姉なんだけど、明日の朝九時にミニドリップに集合ね! 水着も忘れないで! あ、お友達を誘ってもいいからねー!」
相手からの返答なんて気にせず、捲し立てるように告げる。
「じゃ! そゆことで!」
そう、ほぼ一方的に告げて電話を切る武藤さん。
「よーし、これは一段と楽しくなってきたぞー! ふふふ……」
窓の外を見ながら、不敵な笑みを浮かべる武藤さん。
「あ、悪魔……」
私はぐったりしながらも、沢崎さんの減給を決めたのだった……。
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