愛のない政略結婚なのに、訳ありエリート御曹司に執着愛で囲われています

羽村美海

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1巻

1-1

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    プロローグ


「何でもしますっ!」
「そんなことを簡単に口にするな。まったくこれだから、世間知らずなお嬢様は」

 キッパリとした口調で言い放った美桜みおの言葉を背中越しに一笑したその男――たけるは、薄く形の良い唇に笑みを微かにたたえ、呆れたような呟きを落とすとそのまま立ち去ろうとする。
 どうやら男は、美桜の言葉に取り合う気はないらしい。
 それでも、見ず知らずの男に借りを作ったままでは気が収まらない。
 美桜は咄嗟とっさに、男が身にまとっている仕立ての良さそうなダークスーツの袖口を掴んだ。
 男は驚いたのか、僅かに反応を示してすぐに振り返ると、珍しいものでも見るように美桜のことをまじまじと見下ろした。
 身長一五六センチしかない小柄な美桜にとって、一八〇センチはあろうかという高身長の男を見上げるのは少々骨が折れるが、それよりも男の放つ威圧感が凄まじい。
 どこか恐怖心にも似た感情が湧き起こってくるが、男に強い視線で見つめられて目を逸らすことができない。
 艶のある濡羽色ぬればいろの髪はタイトに撫でつけられていて、髪と同系色の切れ長の鋭い双眸そうぼうと恐ろしく整った顔立ちのせいか、ただ見下ろされているだけなのに身がすくむ心地だ。
 スーツをまとっていても鍛えられているだろうことが窺える、上背のある男の精悍せいかん体躯たいくには、そこはかとなく妖艶な色香が漂っている。
 まるで自分とは同じ次元で存在していないような……。このとき、美桜はなぜか男のことをそんなふうに感じていた。
 そこに男から、冷淡とも取れる抑揚のない低い声音が降ってくる。

「どういうつもりだ」

 彼の醸し出す異様な雰囲気に呑まれて圧倒されていたが、その声で我に返り、美桜はなおも男に言い募っていた。

「……た、助けていただいたのに、何のお礼もできないままだなんて、それでは私の気が収まりません」

 借りを作ったままでは嫌だというのもあるが、どうしてここまで頑なになっているのか、美桜自身にもわからない。
 これまで二十四年生きてきて、こんなにも強く自分の意思を貫こうとしたことがあっただろうか……
 そう思うほどに、自分でも驚くような強い意思と行動力を発揮してしまうのだった。

「だったら、何をしてくれると言うんだ?」

 依然としてスーツの袖を掴んだままの自分に向けて、試すような眼差しと言葉とを投下した男に対し、美桜は意思のこもった強い口調で言い放つ。

「やれと言われれば何でもします。本気ですっ!」
「だったら脱げよ」
「……え?」
「何でもすると言ったのはおまえだ。だったら、脱いで俺のことをたのしませてみろ」

 男は間髪入れず、有無を言わせぬ威圧感を含んだ言葉を放った。一瞬何を言われているのかが理解できず、美桜は思わず立ちすくむ。
 春めいた季節にぴったりのあでやかな雲華うんかの振袖をまとった美桜に、男は意味深な視線と言葉を向けた。その意図を理解した刹那、美桜の全身に熱がたぎった。
 何でもすると言ったのは自分だ。今更なかったことになどできない。
 おそらく、この男はなかったことになどしてくれないだろう。直感的にそう確信した美桜はゴクリと生唾を飲み下す。
 これまではずっと家の駒として、与えられた役割を果たすためだけに生かされてきた。
 今日は、その役割を果たすために、格式高い高級料亭へと赴いていたはずだったのに……

(――これから私は一体、どうなってしまうんだろう)

 美桜は混乱する頭で、今更ながらにそんなことを案じていた。
  



    第一章 鳥籠のお嬢様


「わぁ、ちょっと向きを変えただけでこんなに変わるなんて! さっすが美桜さんだわぁ!」
「そ、そんなことないですよ。私なんてまだまだです」

 厳しかった寒さもようやく和らいできた、三月を迎えたばかりのある午後のこと。
 いつものように大広間で、華道教室の生徒たちに交じって、淡いパステルブルーの小紋に身を包んだ天澤あまさわ美桜は生け花に勤しんでいた。
 美桜は、江戸時代から続く長い歴史を持つ華道の流派である「清風せいふう」の家元・げんの娘である。
 物心がついた幼い頃から、絵本や玩具よりも華道に興味を示し、慣れ親しんできた。今では師範の腕前を活かし、父と後継者の兄・しんのサポート役として生徒の指導も担っている。
 今日も花嫁修業の一環としてお稽古に通う優子ゆうこが、生けたばかりの花に手を加えながら談笑を交えていた。
 もうすぐ二十四歳を迎える美桜は、優子と年が近いせいか、話していると時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
 何よりも華道に重きを置く両親の意向で、美桜は大学への進学を諦めざるを得なかった。外の世界を知らない美桜にとって、優子は教室の生徒でありながら友人のような存在でもあった。
 家族と過ごす時間よりも、こうして生け花に勤しんでいる時間が、唯一心が安らぐ時間だといってもいい。
 なぜなら美桜は、父が愛人に産ませた子ども――妾腹しょうふくの子だったから。
 ちょうど今頃の季節、三つの頃に実の母親を病気で亡くしている。
 身寄りのなかった美桜は、父親の元に引き取られたのだ。
 以来、父の本妻であるかおるに、それはそれは厳しくしつけられてきた。

『あなたには、いずれ天澤家を盛り立てるための駒として役立ってもらわなければいけませんから、しっかり習い事に精進してくださいね』

 幼い美桜に対して冷たく言い放った薫の言葉が今も耳にこびりついている。
 弦は温厚で物腰も柔らかく、とても優しい人だ。
 けれど、愛人との間にもうけた美桜のことを引き取った負い目があるせいか薫の言いなりで、美桜に対してはよそよそしいところがあった。


 楽しい時間も終わり、後片付けに追われていた美桜は使用人に呼ばれ、離れから豪華絢爛な数寄屋造りが見事な母屋へと赴いた。
 大広間の床の間には、躍動感ある枝振えだぶりを活かして力強く生けられた梅の花が飾られている。
 家元である父が生けたものだ。
 見慣れた風景だが、どこかよその家にでもお邪魔しているような気がして落ち着かない。
 きっと、凝った派手な装飾が施されているからだろう。
 三年前に隠居した前家元である祖父・弦一郎げんいちろうの意向で、松江市にある小泉八雲こいずみやくも旧居の居間を再現しているというのだが……
 格式張った意匠を嫌い、内面を磨いて客人をもてなすという茶人の精神が、簡素で自由な空間として形になっていったという数寄屋造り。
 素材の良さをそのまま活かすことが大切だとされているらしいが、随分とかけ離れているように思えてならない。
 美桜がそう感じるのも無理はなかった。
 生け花のPRを兼ねて朝の人気情報番組に出演した愼は、家元譲りの見目麗しい容姿が注目されて以来、「華道界のイケメン王子」として度々メディアで取り上げられるようになった。
 代議士の娘だった薫のブランド志向も相まって、父も兄も体面ばかり気にしている。
 そのせいで、何もかもが滑稽に思えてならない。
 でも、いずれこの家から出て行く身である自分には関係のないことだ。
 引き取って何不自由なく育ててもらったのだから、ちゃんと駒として役に立てるよう自分の役割を果たすことを考えなくては。
 二人の会話に耳を傾けていたはずが、美桜は気づけば一人、物思いにふけっていた。
 余計な雑音に惑わされないように言い聞かせているところに、薫のやけに甘ったるい声音が届いて、美桜は瞬時に現実へと引き戻された。

「美桜さんに縁談のお話があるんですよ」
(――とうとう駒である役割を果たすときがきたのか)

 現実に引き戻され、座卓を挟んだ両親の元へと視線を向ける。
 父と目が合った瞬間、あからさまに気まずそうな顔で視線を逸らされて、胸がズキンと痛んだ。
 今更、父に何かを求めていたつもりではなかったが、本当は心のどこかで何かを期待していた自分に気づかされた。
 我ながらそんな自分が不憫に思え、鼻の奥がツンとしてくる。思わず泣いてしまわないように、美桜は膝の上の拳にぐっと力を込める。
 対して薫は、ようやく厄介払いができるとばかりに、嬉々として見合い相手の説明を始めた。

「父の古くからの友人の息子さんなんですけれど。外務大臣を務めていらっしゃったお父様の地盤を引き継いで、次の選挙に出馬するんですって」

 それによると、相手は大物代議士の四十歳になるご子息であるらしい。

(――四十歳!)

 ついさっきまで父の反応に少なからずショックを受けていた美桜だったが、今度は相手の年齢に別の意味で大きな衝撃を受けてしまっている。
 家の駒として厳しく育てられてきた美桜は、名門で知られる女子校に通っていた。それも車での送迎付きで、外泊も許されず、もちろん恋愛経験もない。
 それでも、小説やドラマのような恋愛や出会いに少なからず憧れを抱いていた。
 たとえ政略結婚だったとしても、その相手に恋愛感情を抱くかもしれない、と。
 そんな夢が一瞬で崩れ去ったのだ。
 絶望して暗い顔をした美桜の元に、薫の甘ったるい声音が再び耳に届いた。

「美桜さん。この方よ。誠実そうな素敵な方でしょう?」

 その声に俯いていた顔をゆっくりと上げてみる。
 座卓に置かれた見合い写真には、どう見ても五十過ぎの脂ぎった中年男性の姿が映っていた。

「……⁉」

 あまりのショックに目の前が暗転し、目眩を覚えた美桜は絶句してしまう。
 そんな美桜のことなどおかまいなしに、満面の笑みを浮かべた薫は、引きつった笑みの弦に見合いの振袖や日取りの相談を持ちかけた。

「ねえ、あなた? 善は急げと言いますし。いつもお世話になっている銀座の『くらや』さんで着物をお願いしておきますね」
「後片付けが残っていますので、離れに戻りますね」
「……あっ、ああ、頼む」
「あら、美桜さん。まだいらっしゃったのね」

 美桜は聞いていられなくなり、二人に中座すると伝えるのがやっとだった。薫の言葉に何かを返すような余裕もなくふらりと立ち上がった美桜は、覚束ない足取りで大広間を後にした。
 離れに向かう途中の長い廊下の角を曲がったところで、運悪く兄の愼と鉢合わせしてしまう。

「何だよ、浮かない顔して」
「……っ」

 未だ茫然自失に陥っている美桜のことを、愼は哀れみの色を滲ませた眼差しで見下ろしてくる。
 そしてショックを隠せないでいる美桜に、心底楽しそうな笑み混じりの声を放った。

「無理もないか。あんな中年のオッサンと見合いなんてなぁ」
「……」

 おそらく見合いのことは薫から事前に聞かされていたのだろう。
 ただでさえ落ち込んでいた気持ちがズンと地中深くに沈んでしまう。
 どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう。前世で何か悪いことでもしたのだろうか。

(――ううん。亡くなった母が不倫なんかしなければ。母が私のことなんか産まなければ。そうすれば、こんなことにはならなかったに違いない。どうせ誰にも祝福なんてされないのに……そうか、生まれてきたこと自体、罪だったんだ)

 そうは思いながらも、どうにも受け入れられず、気持ちは塞ぐばかり。
 そんな美桜の脳裏には、愼が優しかった頃の記憶が呼び起こされた。


 まだ小学生だった愼は、今のように美桜のことを蔑むことも疎んじることもなかった。
 頼りない記憶だが、薫の厳しいしつけや叱責によって幼い美桜が泣いていると優しく慰めてくれたり、家に呼んだ友人たちと一緒に遊んでくれたりもした。
 その頃の美桜にとって、愼は優しく、頼りがいのある兄だった。
 けれども、それは美桜が小学校にあがるまでの話だ。
 そういえば、兄が中学生の頃、家によく遊びに来ていた友人がいたっけ。
 愼よりも背が高く、いつも不機嫌そうな顔をしていたけれど、ごくたまに相好を崩す様はキラキラと眩いほどに輝いて見えた。
 その笑顔から目が離せなかった記憶がある。
 とはいえ、記憶も朧げで名前も顔も思い出せないのだけれど。

(――あの頃に戻れたらいいのに……)

 どんなにそう願っても、それは無理な話だ。
 一刻も早くこの場から逃れたくて、愼の横を擦り抜けようとした美桜は、愼によって手首をギリと強い力で掴まれて足止めされてしまう。

「おい、待てよ」
「キャッ!?」

 せっかく気落ちした心が浮上しかけていたというのに、美桜は厳しい現実へと強引に引き戻されることとなった。

「おまえ、まだ処女だよな?」
「……っ!」

 まさかそんなことを聞かれると思わなかった美桜は、全身を赤く染めておののくことしかできない。
 美桜の様子を見るまでもなく処女だと確信している様子の愼は、なおも意地の悪い笑みを深めて、とんでもないことを言い放つ。

「いくら家の駒だからって、あんなオッサンが初めては嫌だろ。処女好きの男、紹介してやろうか?」
「……っ⁉」

 あまりの羞恥に真っ赤になって縮こまっていると、愼のニヤついた顔が眼前に迫った。
 ついさっき見た見合い写真の男の顔と愼の顔とが重なってしまう。

「――やだっ! 離してっ!」

 美桜は咄嗟とっさに愼の身体を両手で押しのけた。

「おいおい、これくらいのことで怖がっててどうすんだよ」

 けれども愼はこたえるどころか、あからさまに初心な反応を示す美桜のことを心底楽しげに見下ろし、肩を震わせている。
 愼が薫と同じ態度を取るようになってから、こうしてことあるごとに揶揄われてきたが、何を言われても右から左に聞き流してきた。
 だがこの手のことに免疫のない美桜が、愼に廊下の隅に追いやられて何もできずにいると――

「美桜さんっ⁉ 大丈夫ですかっ⁉」

 使用人である麻美あさみの焦った声が広い廊下に響き渡った。
 麻美の姿を目にした美桜は、ホッと胸を撫で下ろした。

「……大丈夫。何でもないから」

 愼はこちらへ駆け寄ってくる麻美に、いつもの飄然とした声を返すという変わり身の早さだ。

「相変わらず心配性だなぁ、麻美さんは」
「あら、愼坊ちゃん。まだこんなところにいらしたんですか? 収録に遅れるんじゃないですか?」
「あっ、そうだった」
「まぁ、忘れてらしたんですか。だったら早く支度なさってください。遅れたりしたら清風の信用が台無しですよ」
「……すぐに支度します」

 麻美は毅然とした態度で愼に苦言を呈し、しっかり小言も忘れない。
 愼は慌てた様子で走り去っていく。
 麻美は、弦一郎の代から使用人として住み込みで働いている。
 天澤家の遠縁に当たる麻美は、他の使用人と違って家のことを細部まで任せられている。
 行事に関しても、麻美なしでは成り立たない。
 故に、薫も愼も麻美には強く出られないのである。
 美桜にとって、麻美はこの家で唯一の味方であり、心の拠り所でもあった。
 麻美に余計な心配をかけないためにも、普段通りを心掛けたが……
 夜が更けて布団に入ってからも、美桜はなかなか寝つくことができず、気づけば翌朝を迎えていたのだった。



    第二章 突然の乱入者


 四月初旬。朝夕の寒暖差こそあれど、日中の気温は随分と暖かくなってきた。春の季節を一気に飛び越したかのような汗ばむ日もあるが、今日はどんよりとした曇り空のせいで少し肌寒く感じられる。
 あたかも憂鬱な美桜の心情を表してでもいるかのよう。
 高級料亭の荘厳な佇まいに見合った趣ある和風庭園には立派なソメイヨシノが植えられており、ちょうど見頃を迎えていた。
 白みがかった薄桃色の花びらが薄陽を浴びて淡く煌めき、何とも儚げだ。
 小学生の頃、名前の由来について弦に尋ねたことがあった。
 なんでも、母は桜の花が好きだったそうだ。
 その中でも、ソメイヨシノが特に好きだったらしい。
 母が名付けた「美桜」という名前には、ソメイヨシノの花言葉になぞらえ、誰からも愛される、清らかで美しい心根の女の子に育ってほしい、という願いが込められているのだそうだ。
 当時は理解できなかったけれど、母が心から自分を愛してくれていたからだと、今ならわかる。
 たとえ祝福してもらえなくとも、愛する人との子どもを授かったのだから、幸せだったに違いない。
 そんな母が羨ましく思えてならない。
 ソメイヨシノを眺めていたせいか、いつしか美桜は思いにふけっていた。
 美桜の周辺には、終始穏やかな愛想笑いを貼り付けている弦の隣で、楽しそうに声を弾ませる薫と、見合い相手とその両親との会話が絶え間なく飛び交っている。

「休日には読書をしたり、盆栽をいじったりしています」
「まぁ、それは素敵な趣味ですわぁ」

 美桜はそれを遠い意識の外側で感じていた。
 そこへ薫から不意を突くように、見合いの席につきもののお決まりの台詞が放たれた。

「そろそろ若い二人にお任せして、私たちは席を外しましょうか?」

 薫に賛同した相手方の父・佐久間さくまが、すぐさまお世辞と冗談を寄越してくる。

「そうですなぁ。いやぁ、それにしても美しいお嬢さんだ。もう少し若ければ私が結婚したいくらいですなぁ」

 だが、その口吻こうふんからはねっとりとしたいやらしい響きが感じられた。
 視界に入れるのが嫌で、意識的に逸らしていた視線をゆっくりと向けると、佐久間のいやらしくニヤついた顔が待ち受けていた。
 美桜の身体をねっとりと品定めするその視線とぶつかった瞬間、ゾクゾクとした悪寒が美桜の全身を走り抜けた。

(――やだ。気持ち悪い)

 そう感じた美桜は、底知れぬ嫌悪感と不快感を覚え身体を強張こわばらせた。


 ほどなくして、美桜は一人、奥座敷で待たされていた。
 佐久間の息子は事務所に連絡を入れるとかで、美桜だけが通されたのだ。
 しっぽりと趣のある雅な和室はやけに静かで、外の世界から隔離でもされているような心地になってくる。
 奥にはふすまで仕切られた続き間があるが、それがどうにも気に掛かる。

(――布団でも敷かれていたりして……。ま、まさかね……)

 脳裏には、時代劇でお馴染みの若い娘が悪代官に手籠てごめにされる場面まで浮かんでくる。
 ――とそのとき、入り口の雪見障子が開け放たれ、そこから姿を現したのが息子ではなく佐久間だったことに、美桜は戸惑いを隠せなかった。

「いやぁ、待たせて悪かったねぇ」

 その声を耳にした途端に、なりを潜めていた嫌悪感と恐怖感が舞い戻ってくる。
 正座を崩して手を後ろ手についた美桜の背中には、嫌な汗が滲んでいる。
 そんな美桜の姿を見下ろしながら、後ろ手に障子を閉ざした佐久間は、見合いの真の目的を暴露しはじめた。

「息子は、少々困った性癖の持ち主でねぇ。他者に恋愛感情を抱けないんだそうだよ。そこで、君に偽の妻を演じてもらいたくてね。そうなると色々辛いだろうから、代わりに私が君の欲求を満たしてあげるからねぇ」

 そうしてねっとりとした視線同様、いやらしい声を響かせながら美桜との距離を詰めてくる。
 身の危険を覚え、何とかこの場から逃れたくても、ガタガタと震える身体が思うように動いてくれない。

(――やだっ! 来ないで!)

 美桜が心の中で叫んだ刹那、バタンッという豪快な音とともに、再び雪見障子が開け放たれた。
 驚いた美桜が見遣みやった先には、ダークスーツに身を包んだ三人の目つきの悪い男たちが部屋に押し入ってくる様が見て取れる。
 一人はいかつい顔に大きな傷のある大柄の男。二人目は中肉中背の優男風。三人目はやけに整った顔をしている。
 皆一様に威圧感があり、眼光が鋭く、独特な雰囲気をまとっているように見える。
 佐久間は、驚きながらも不遜な声で詰問した。

「なっ、何だっ! おまえたちはっ!」

 だが乱入者は一切怯むことなく、佐久間を一瞥いちべつした美形の男が一笑して優男に目配せする。
 首肯した優男は傍にあった木製の座椅子を蹴り上げ、底冷えのする迫力満点の鋭い重低音を轟かせた。

「息子の見合いの席で相手の女の味見をするようなゲスに、おまえたちなんて呼ばれる筋合いはねえんだよ。そんなことより、うちの舎弟を妙なことに巻き込んだ落とし前、きっちりつけてもらおうか!」

 その言葉に思い当たる節でもあったのか、佐久間の全ての動きが停止した。
 けれど、すぐに表情を切り替えた佐久間からは白々しい言葉が飛び出してくる。

「何のことだ?」

 事情を知らない美桜が白々しく感じてしまったぐらいだ。
 当事者にしてみれば、はなはだしいことこの上ないと思ったに違いない。
 案の定、出方を窺っていた優男が忌々しげに顔を歪め、さっきよりも低く鋭い怒声を炸裂させる。

「しらばっくれんな! 堅気のくせに極道使って甘い汁吸いやがって。ネタは上がってんだよ!」

 唾をまき散らしながら佐久間の胸ぐらを引っ掴んだ優男は、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
 任侠映画さながらの光景を前に、美桜は為す術もなく、非現実的な光景を固唾を呑んで見守ることしかできないでいる。
 そんな美桜のことを美形の男が一瞥いちべつしたかと思えば、優男の元にゆったりとした動作で歩み寄る。
 目つきは悪くとも落ち着いた物腰と、顔が恐ろしく整っているせいか、どこか気品が漂っていて知らず知らずのうちに目が惹きつけられる。
 その姿にほうっと見惚れる中、美形の男が落ち着いた物腰からは想像できない、腹に響くような鋭い重低音を発した。

「相手は堅気だ、手を出すな。話し合えば済むことだ」

 指示に従った優男が胸ぐらから手を引いたところで、美形の男が佐久間の肩にポンと手を置いた。
 そして眼光鋭い切れ長の双眸で冷ややかに見据えつつ、口元に微かな冷笑をたたえ、懐から一枚の名刺らしき白い紙片を取り出し、佐久間の前に放った刹那。
 優男を制したときよりもゆったりとした口吻こうふんで重低音を響かせた。

「なあ、佐久間先生」

 途端に、辺りに重苦しい緊張感が張り詰める。
 男から放たれる威圧感たるや凄まじいものだった。

(――すごい迫力。カリスマっていう言葉は、こういう人のためにあるんだろうなぁ)

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