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第二章1
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《第二章》
笹原環は、再び後悔していた。
都内某駅、改札口周辺の雑踏の中、頭を抱えたい気持ちを必死に耐える。
どうしてノコノコとやって来てしまったのか。
忙しなく行き交う人々の波の、その向こう。駅構内の壁際にぽつんと立つ、ボブヘアーの美人――神崎綾音の姿に、後悔しても遅いことは分かっていたが、悔やまずにはいられなかった。
高いヒールのパンプスを履きこなし、凜と姿勢良く佇む姿は、例え顔を隠したとしても居住まいだけで美しい。
今から自分は、あの美女の隣に立たなければならない。
環は鬱々とした気持ちに区切りをつけるべく、一度深呼吸した。
そして一歩、また一歩と行き交う人を避けながら綾音の元へと向かっていく。
綾音は人混みの中の環にすぐに気がつき、一礼する。
「笹原様」
環が目の前までやってくると、綾音は花が綻ぶように微笑んだ。
土曜日、昼過ぎ、栄えた駅前。インドアな環がわざわざ休日に足を運びそうにない場所と状況。
これらすべては綾音の発案によるものだ。
先週の金曜日、例の〝講習〟のあと。帰り支度を整えた頃、綾音にされた提案を、環は思い出す――
◇ ◇ ◇
「笹原様、次回の講習は来週の土曜日でいかがでしょうか?」
「土曜日ですか」
綾音の提案に環が抱いた感想は、面倒くさいな、だった。
気怠い身体も相まって、そう感じたのだ。
ちなみに今となっては、この時に〝断る〟という選択が浮かばなかったことを悔やんでいる。
「金曜日だと、難しいですか?」
休日に化粧をして、頭髪と衣服を整えて、外出する。想像するだけで、辟易とした。
そのうえ、〝こんな〟講習を真っ昼間に受けるのも心理的に憚られたし、かといって夕方に家を出るのは一等嫌気がさす。
それならば今日と同じく、金曜日の仕事終わりの方がずっといい。環はそう考えたのだった。
「金曜日でも勿論問題ございません。ただ、ちょっとこれは、講習とは別のご提案になるのですが……」
綾音はそう言って、講習外の提案を続けた。
その内容は、土曜日の昼過ぎに会い、洋服やヘアスタイルのイメージチェンジをしないか、そうしてその流れで、夕方から三度目の講習を、というものだった。
変わりたいと願う環にとっては、前者の講習外の提案の方が至極真っ当な講習ですらあった。
「嫌だったら、断って下さって大丈夫ですよ」
綾音はそう言ったが、環は瞳を僅かに輝かせ、提案に飛びついたのだった。
◇ ◇ ◇
そんなわけで、環は土曜日の昼過ぎに、栄えた駅前でこうして綾音と落ち合っているのである。
「あ、違いました。笹原〝さん〟、こんにちは」
「こ、こんにちは」
街中を並んで歩きながらの〝様〟呼びは明らかに浮く。そう考え、事前に断ったのは環だった。
環は内心で、断っておいて良かったと胸を撫で下ろす。
そもそも、美容室とショッピングは講習の一環ではない。浮くか浮かないか以前に、綾音に本来の業務外で客扱いをさせてしまう申し訳なさもあった。
「まずは美容室に行きましょうか」
「はい」
並んで歩き始めると、隣から歩道のコンクリートをコツコツと叩く、高い音が響く。
打ち鳴らすでもなく、軽快ささえ感じられる足音。その足音に、環は綾音の自信を感じ取る。
そして、自分の足裏から伝わるペタペタとした振動を、なんだか間抜けな音だな、と自嘲した。
「そういえば――」
ふと、綾音が環に少しだけ顔を振り向けて、口を開く。
環も女性の中では上背のある方だったが、綾音がヒールの高い靴を履いているために、目線は少しだけ見下ろすような格好だった。
「笹原さんは、どうして婚活しようと?」
「えっ」
「以前、結婚したい理由を尋ねた際、お答えが難しいようでしたので、きっかけから探るのが良いのではないかと」
綾音は柔らかい口調で、質問の意図を補足した。
口調と同じく顔付きはにこやかで、無理に聞き出そうというよりも、環の自己分析を助けようという善意が滲んでいる。
環は少しだけ考えて、思い切って本心を吐露することにした。
「……周りがしてるって、気づいたから、ですかね……」
雑踏にかき消されそうなほどにか細い声。
綾音はその声を受け止め、まだ先がありそうな環の話に相づちを打って、続きを促す。
「結婚したい理由も、同じなんです」
環は先ほどよりも明瞭な声で続けた。
あっさりと口に出来たのは、周囲の人間は忙しなく行き交って、環の内心など聞いていないと思えたからか。
綾音ならば馬鹿にしないという安心があったからか。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
環には判断がつかなかったが、いずれにしても、一度口にしてみると大して後ろめたく思うことでもないのでは、と思えたのだった。
自分がないようで、みっともない。そう感じる気持ちはまだあったが、同時に、深く考える必要はないのではないか、というある種の開き直りのような気持ちも湧いてきたからだ。
「何て言うか、それが普通、じゃないですか?」
環は同意を求める投げかけをして、半歩先を歩く綾音の様子をうかがった。
「そうですね。そういうのは、確かにありますが……」
同意を返しながらも、綾音は何かを考えているような素振りだった。
それは結婚したい理由として、間違っている――そんな言葉が続いたらどうしよう。そう思った環が、慌ててはぐらかそうと口を開きかけたとき、綾音が呟く。
「そうは見えなかったんです」
「え?」
綾音は、ちらりと環に視線をやって、続けた。
「笹原さんが結婚したい理由は、そういう、世の中的な理由では無いように見えたんです」
綾音は、少しだけ自信なさげに、けれどはっきりとそう言った。
「他にあるんじゃないでしょうか? 理由が」
綾音の言葉が、すとんと環の胸に落ちる。
環は昔から、周りの目を気にする方だった。
そして、取り立てて目立つ特徴も無く、問題も起こさない。教師や友人からは、引っ込み思案で、大人しく、真面目。そう評されることの多い子供だった。
だが、無理に周囲の人間に合わせたことも、合わせようとしたこともなかった。
環は漠然とそんな過去を振り返り、思う。
結婚したいという今回の衝動は、果たして周囲の影響によるものだろうか。
その考えに至ったとき、環の胸は静かにざわめいた。
「あ、着きましたよ。こちらです、美容室」
綾音の言葉に、俯き気味だった環は顔を上げる。
目の前には、ビルの一階と二階を使った、ガラス張りの大きな美容室があった。
上下階は吹き抜けになっており、店内は広々としている。一席一席の間隔もゆったり取られ、利用客のプライベートに配慮した作りだ。
都会の大通りに面しているだけあって、外観からすでに洗練された雰囲気が漂っている。
(お、おしゃれな人が行く店だ……!)
呆けた顔で店を見上げる環に構わず、綾音は扉を開いて入店を促した。
「どうぞ」
「は、はひ……」
広いガラス扉から店内に足を踏み入れると、スタッフがにこやかに会釈をする。
環は緊張でぎこちない動きになりながら、言われるままに鞄を預けた。
そのあいだ、綾音は別の顔なじみらしいスタッフと、親しげに何かを話している。
どうやら、施術を担当するスタッフらしかった。
綾音の横顔を見ながら、環はまたぼんやりと思う。
――自分は、どうして結婚したいのだろう。
環は髪を切っている間にも、自分に繰り返し問うたが、結局答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
笹原環は、再び後悔していた。
都内某駅、改札口周辺の雑踏の中、頭を抱えたい気持ちを必死に耐える。
どうしてノコノコとやって来てしまったのか。
忙しなく行き交う人々の波の、その向こう。駅構内の壁際にぽつんと立つ、ボブヘアーの美人――神崎綾音の姿に、後悔しても遅いことは分かっていたが、悔やまずにはいられなかった。
高いヒールのパンプスを履きこなし、凜と姿勢良く佇む姿は、例え顔を隠したとしても居住まいだけで美しい。
今から自分は、あの美女の隣に立たなければならない。
環は鬱々とした気持ちに区切りをつけるべく、一度深呼吸した。
そして一歩、また一歩と行き交う人を避けながら綾音の元へと向かっていく。
綾音は人混みの中の環にすぐに気がつき、一礼する。
「笹原様」
環が目の前までやってくると、綾音は花が綻ぶように微笑んだ。
土曜日、昼過ぎ、栄えた駅前。インドアな環がわざわざ休日に足を運びそうにない場所と状況。
これらすべては綾音の発案によるものだ。
先週の金曜日、例の〝講習〟のあと。帰り支度を整えた頃、綾音にされた提案を、環は思い出す――
◇ ◇ ◇
「笹原様、次回の講習は来週の土曜日でいかがでしょうか?」
「土曜日ですか」
綾音の提案に環が抱いた感想は、面倒くさいな、だった。
気怠い身体も相まって、そう感じたのだ。
ちなみに今となっては、この時に〝断る〟という選択が浮かばなかったことを悔やんでいる。
「金曜日だと、難しいですか?」
休日に化粧をして、頭髪と衣服を整えて、外出する。想像するだけで、辟易とした。
そのうえ、〝こんな〟講習を真っ昼間に受けるのも心理的に憚られたし、かといって夕方に家を出るのは一等嫌気がさす。
それならば今日と同じく、金曜日の仕事終わりの方がずっといい。環はそう考えたのだった。
「金曜日でも勿論問題ございません。ただ、ちょっとこれは、講習とは別のご提案になるのですが……」
綾音はそう言って、講習外の提案を続けた。
その内容は、土曜日の昼過ぎに会い、洋服やヘアスタイルのイメージチェンジをしないか、そうしてその流れで、夕方から三度目の講習を、というものだった。
変わりたいと願う環にとっては、前者の講習外の提案の方が至極真っ当な講習ですらあった。
「嫌だったら、断って下さって大丈夫ですよ」
綾音はそう言ったが、環は瞳を僅かに輝かせ、提案に飛びついたのだった。
◇ ◇ ◇
そんなわけで、環は土曜日の昼過ぎに、栄えた駅前でこうして綾音と落ち合っているのである。
「あ、違いました。笹原〝さん〟、こんにちは」
「こ、こんにちは」
街中を並んで歩きながらの〝様〟呼びは明らかに浮く。そう考え、事前に断ったのは環だった。
環は内心で、断っておいて良かったと胸を撫で下ろす。
そもそも、美容室とショッピングは講習の一環ではない。浮くか浮かないか以前に、綾音に本来の業務外で客扱いをさせてしまう申し訳なさもあった。
「まずは美容室に行きましょうか」
「はい」
並んで歩き始めると、隣から歩道のコンクリートをコツコツと叩く、高い音が響く。
打ち鳴らすでもなく、軽快ささえ感じられる足音。その足音に、環は綾音の自信を感じ取る。
そして、自分の足裏から伝わるペタペタとした振動を、なんだか間抜けな音だな、と自嘲した。
「そういえば――」
ふと、綾音が環に少しだけ顔を振り向けて、口を開く。
環も女性の中では上背のある方だったが、綾音がヒールの高い靴を履いているために、目線は少しだけ見下ろすような格好だった。
「笹原さんは、どうして婚活しようと?」
「えっ」
「以前、結婚したい理由を尋ねた際、お答えが難しいようでしたので、きっかけから探るのが良いのではないかと」
綾音は柔らかい口調で、質問の意図を補足した。
口調と同じく顔付きはにこやかで、無理に聞き出そうというよりも、環の自己分析を助けようという善意が滲んでいる。
環は少しだけ考えて、思い切って本心を吐露することにした。
「……周りがしてるって、気づいたから、ですかね……」
雑踏にかき消されそうなほどにか細い声。
綾音はその声を受け止め、まだ先がありそうな環の話に相づちを打って、続きを促す。
「結婚したい理由も、同じなんです」
環は先ほどよりも明瞭な声で続けた。
あっさりと口に出来たのは、周囲の人間は忙しなく行き交って、環の内心など聞いていないと思えたからか。
綾音ならば馬鹿にしないという安心があったからか。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
環には判断がつかなかったが、いずれにしても、一度口にしてみると大して後ろめたく思うことでもないのでは、と思えたのだった。
自分がないようで、みっともない。そう感じる気持ちはまだあったが、同時に、深く考える必要はないのではないか、というある種の開き直りのような気持ちも湧いてきたからだ。
「何て言うか、それが普通、じゃないですか?」
環は同意を求める投げかけをして、半歩先を歩く綾音の様子をうかがった。
「そうですね。そういうのは、確かにありますが……」
同意を返しながらも、綾音は何かを考えているような素振りだった。
それは結婚したい理由として、間違っている――そんな言葉が続いたらどうしよう。そう思った環が、慌ててはぐらかそうと口を開きかけたとき、綾音が呟く。
「そうは見えなかったんです」
「え?」
綾音は、ちらりと環に視線をやって、続けた。
「笹原さんが結婚したい理由は、そういう、世の中的な理由では無いように見えたんです」
綾音は、少しだけ自信なさげに、けれどはっきりとそう言った。
「他にあるんじゃないでしょうか? 理由が」
綾音の言葉が、すとんと環の胸に落ちる。
環は昔から、周りの目を気にする方だった。
そして、取り立てて目立つ特徴も無く、問題も起こさない。教師や友人からは、引っ込み思案で、大人しく、真面目。そう評されることの多い子供だった。
だが、無理に周囲の人間に合わせたことも、合わせようとしたこともなかった。
環は漠然とそんな過去を振り返り、思う。
結婚したいという今回の衝動は、果たして周囲の影響によるものだろうか。
その考えに至ったとき、環の胸は静かにざわめいた。
「あ、着きましたよ。こちらです、美容室」
綾音の言葉に、俯き気味だった環は顔を上げる。
目の前には、ビルの一階と二階を使った、ガラス張りの大きな美容室があった。
上下階は吹き抜けになっており、店内は広々としている。一席一席の間隔もゆったり取られ、利用客のプライベートに配慮した作りだ。
都会の大通りに面しているだけあって、外観からすでに洗練された雰囲気が漂っている。
(お、おしゃれな人が行く店だ……!)
呆けた顔で店を見上げる環に構わず、綾音は扉を開いて入店を促した。
「どうぞ」
「は、はひ……」
広いガラス扉から店内に足を踏み入れると、スタッフがにこやかに会釈をする。
環は緊張でぎこちない動きになりながら、言われるままに鞄を預けた。
そのあいだ、綾音は別の顔なじみらしいスタッフと、親しげに何かを話している。
どうやら、施術を担当するスタッフらしかった。
綾音の横顔を見ながら、環はまたぼんやりと思う。
――自分は、どうして結婚したいのだろう。
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