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蟻と蝉のはなし
しおりを挟む一方、
その先刻、桔梗屋では、
「ほほ、ミノ坊はなかなか身軽だわなあ」
裏庭の縁側でお葉が膝の白猫を撫でながら、実之介がニョキニョキ草をピョンピョンと飛ぶ様を眺めていた。
その脇では、
「あな、いみじの蟻殿や、かかる冬ざれまで、さやうに豊かに餌食を持たせ給ふものかな。我に少しの餌食を分けて賜び給へと申しければ、蟻、答えて云く――」
乳母のおタネが縁側でお枝に伊曾保物語の『蟻と蝉との事』を読み聞かせていた。
『伊曾保物語』はイソップ物語のことで江戸初期には翻訳され、以降、イソップ物語は内容が微妙に変化しながら繰り返し出版されている。
『アリとキリギリス』の話は最初はキリギリスではなく蝉だったのだ。
「その如く人の世にある事も我が力に及ばん程はたしかに世の事をも営むべし。豊かなる時、つつまやかにせざる人は貧しうして後に悔ゆるなり。盛んなる時、学せざれば老いて後、悔ゆるものなり。酔のうち乱れぬれば醒めて後、悔ゆるなり」
おタネは数え五歳の童にこんな教訓めいた話ばかりを読み聞かせるのだ。
お枝はうんざり顔であった。
「くゆる、くゆる、くゆるなり。イソホはせっきょーくさくて、すかんわなっ。あたい、おさらいさんの『こまちむすめこいかぜなみだあめ』みたいなはなしがええわな」
お枝はお花が読んでいたお庭番の八木の戯作、『小町娘恋風涙雨』の話をしっかりと聞いていた。
江戸時代の人はどうしても音読してしまうからだ。
「おさらいさん?何の話だえ?」
お葉はキョトンとしておタネに訊ねた。
「まあ、恋だの何だのいう話など、お枝坊様、どちらで聞いたのでござりましょう?」
おタネは首を捻る。
お枝は「お侍さん」が上手く舌が廻らず「おさらいさん」になってしまったのだ。
「あのな、おさらいぢゃなく――」
お枝が正しく言い直し掛けると、
「ほらっ、お枝もニョキニョキ草、飛ぶんだろっ」
実之介が慌ててお枝を引っ張っていった。
お庭番の八木が桔梗屋へ遊びに来ていたと母のお葉に知られると面倒なことになると実之介は案じていた。
せっかく仲良くなったのに八木が遊びに来られなくなるとつまらない。
なにより八木の手土産の菓子は美味しいのだ。
「ほほ、きっとお花の読んどる本だえ。それに、蟻と蝉の話はお枝より草之介に聞かせてやったほうが良さそうだわなあ」
お葉は朗らかに笑いながら縁側の向こうを見やると、ちょうど草之介が店の棟から戻ってきたところだ。
江戸時代の商家の終業時刻は昼七つ(午後四時頃)くらいなので、とっくに店仕舞いしている。
「はあ、疲れた、疲れた。お茶をくれ」
草之介はいかにも働いたかのように首をコキコキと廻しながら座敷に胡座を掻いた。
しかし、草之介は今日も朝寝で店へ出たのは昼過ぎ遅くなので一時(約二時間)ほどしか働いてはいない。
そこへ、
「津金屋にござります」
小間物屋の手代がお花の買った品物を届けてきた。
おタネが書き付け(伝票)と照らし合わせて品物を受け取る。
「毎度ありがとうござります」
小間物屋の手代が裏木戸を出ていくや否や、
「いったい幾らだ?」
草之介は書き付けをおタネの手から引ったくるようにして金額を確かめた。
五両也。
「――五両っ?お花の奴、小間物なんぞ五両も買い物するとは、けしからんっ」
草之介は顔をしかめて小間物の数々を睨んだ。
爪紅、手拭い、ウグイスのフン、化粧水、根付け、匂い袋、風呂敷、等々、細々とした女子の小間物が座敷に所狭しと並んでいる。
まるで必要のないものばかりではないか。
「まあ、けしからんと言うことがあるかえ。どれもこれも普段、使うものばかりだえ。なにも無駄遣いしておる訳でなし」
お葉は愛用のウグイスのフンが五十袋も買ってあるので上機嫌だ。
(まったく、おっ母さんは暢気なものだ。このままでは年の瀬の支払いは到底、無理だというのに――)
草之介は恨めしげに母の横顔を睨んだが、お葉は千両箱から五百両も失せているなど夢にも思わぬのだから仕方ない。
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