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人の恋路を
しおりを挟む一方、その先刻、
錦庵と目と鼻の先の桔梗屋では、
「くかぁ」
もうサギは布団の中で大の字の高イビキであった。
「すぴぃ」
お花とお枝は行儀良く、きの字で寝ている。
昔は女子が仰向けで寝るのは無防備ではしたなく、横向きで膝を曲げた『きの字』で寝るのが慎ましいとされていた。
「ううっんっ」
ゴロン、
隣の布団の実之介が勢い良く寝返りを打つ。
ベチッ。
手の甲がサギの顔面に当たった。
「――てっ」
サギはいきなり鼻っ面を張られて目が覚めた。
「痛てて、なんぢゃもう」
実之介に叩かれた鼻を擦っていると、
カタ、
カタ、
ギキィ、
表から下駄の鳴る音、裏木戸の開く音が聞こえてきた。
手代三人が湯屋の帰りに火の用心の夜廻りをして戻ってきたのだ。
カタ、
カタ、
カタ、
カタ、
小走りの下駄の音が後に続いて聞こえてきた。
「――おや?おクキ様、今時分にお戻りにござりますか?」
手代の銀次郎が驚いたように訊ねる。
どこへ行っていたのか、おクキも今頃になって帰ってきたのだ。
「……?」
サギは布団から四つん這いで抜け出し、寝間の障子を開けて縁側へ顔を突き出した。
「へえ、ちょいと神田の実家に急用で遅うなったんだわいなあ」
おクキはそそくさと縁側に上がって足早に女中部屋へ行ってしまう。
「銀次郎、野暮なことを訊くものぢゃない。あんなことを言うとるが逢い引きに決まっとろうが」
「そうでござりますとも。おクキ様は錦庵の我蛇丸さんと深間の仲になったとやら、銀次郎さん、ご存じなかったのでござりまするか?」
金太郎と銅三郎は不粋な銀次郎に呆れ顔をする。
「なに?逢い引き?そのようなふしだらなっ」
銀次郎は信じられぬように目を見開いた。
とてつもなく堅物のためか色恋に関する噂話など銀次郎の耳には入らなかった。
銀次郎が十歳で桔梗屋へ奉公に上がった時から二歳上のおクキはなにくれと世話を焼いてくれた姉のような存在である。
ふしだらな行いを見過ごす訳にはいかない。
さっそく、明日の朝にでも奥様へご注進し、おクキの素行を厳重に注意して貰わねばなるまいと銀次郎は考えた。
真面目な銀次郎は男はしかるべき仲人を立てて相手の親に申し込み、許しを得て、晴れて許婚にならねば二人で逢うなど許されぬことだと思っているのだ。
カタ、
カタ、
手代三人は洗濯物の三尺と手拭いをぶら下げて裏庭の井戸端へ持っていく。
桔梗屋の奉公人は躾が行き届いているので湯屋から帰ると三尺と手拭いは自分で洗って物干しに干すのだ。
「う~ん、今まではおクキ様もなかなかの美人だと思うておりましたが、それは今日のお桐さんを見るまでのことにござりまするなぁ。お桐さん、なんとも言えん淑やかな優しげな美人にござりましたなぁ」
銅三郎がニヤニヤと鼻の下を伸ばす。
「ああ、ずいぶん若う見えるからおクキ様と同い年と言うても通ずるな」
金太郎もお桐の顔をよく見ていたようだ。
「いや、まったく。とても子持ちの後家さんには見えんでござりまするなぁ。わしの馴染みの吉池屋の二十歳のおトメと比べてもずっと肌もピチピチだし、ずっと――」
「――銅三郎っ、よさんかっ」
銀次郎はみなまで言わせず銅三郎を叱り付けた。
「お桐さんは火事でご亭主を亡くして二人の子を抱えて苦労されている人だぞ。お前の馴染みの岡場所の女なんぞと比べるとは何事かっ」
銀次郎は恐ろしい剣幕だ。
「へ、へい。ついつい浮わついて調子に乗って、申し訳ないことを――」
普段からお調子者の銅三郎はペコペコと謝る。
「口を慎むようにっ」
銀次郎は沸然として縁側に上がって寝間へ入っていった。
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