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魚心あれば水心あり
しおりを挟む今しも暮れ六つ近い黄昏時。
「えへっ、どうも長々とお待たせ致しましたぢゃっ」
サギは愛想笑いでお竜姐さんと男衆を桔梗屋の広間へ招じ入れた。
「まったく、待ちに待たされたよっ」
お竜姐さんはもう一年以上も裏木戸の外で待たされたかと思うほど待たされた気がしていたが、実のところは小半時も経ってはいない。
「まあまあ、すっかり慌ててしまって行き届きませず――」
お葉はそれなりに上等な着物に身支度して、そわそわと広間へやってきた。
大店の箱入り娘として育ったお葉が博徒の姐御と相まみえるなど当然ながら初めてのことで戸惑いを隠し切れない。
「いいえ、わたくし共が卑賎の身も顧みず推参致しまして、ご無礼お許し下さりまし――」
お竜姐さんは先ほどのサギに対する居丈高な態度はどこへやら、殊の外、お葉にはへりくだって慎ましやかにお辞儀してみせた。
さすがに博徒の女賭博師とはいえ表向きは高級料理茶屋『大亀屋』の女将だけのことはある。
「――」
おもむろに顔を上げるとお竜姐さんはフッと薄く紅い唇に微笑を浮かべた。
凄味があるほどの美女の極上の笑み。
「――ほぅ――」
お葉は眩しげに目を細める。
美しいものに目のないお葉は三十八年の人生で最上級の美女を目の当たりにした。
とたんにお竜姐さんへの疑念はどこへやら吹っ飛んでいく。
美しい人、すなわち、悪い人ではない。
お葉は何事も一目瞭然で判断した。
美しいか、美しくないか、人でも物でも見れば一目で真価が分かると、お葉は常々、己れの審美眼には自信を持っていた。
「聞けば何でもサギに丁半博打のツボ振りとやらをお教えにお越し下さったとか、お邪魔でなければ、わたくしもご一緒に――」
お葉はまるで娘気分でワクワクと胸が躍った。
「まあ、こちらの奥様のように話の分かる御仁には滅多にお目に掛かれるものではござりませんよ。――これ、有り難いお言葉に甘えて盆の支度をおし」
お竜姐さんはさっそくと男衆に盆の支度を命じる。
「へいっ」
男衆は気合の入った野太い返事をするとテキパキと広間の真ん中に白布を敷き、盆を整えていく。
「なあ?盆って、あの白布の上でサイコロを振るんだえ?本物の女賭博師のツボ振りを見られるなんて夢のようだわな」
お花もお竜姐さんの到来を聞き付けてワクワクと廊下から広間を覗き込んでいる。
「お花は見ておるだけぢゃぞ。わしが教わるんぢゃからなっ。わしがっ」
サギはツボ振りを教わるのは自分だけだと言わんばかりだ。
「まあ、カスティラもこうして戴くと尚更に美味しゅうござりますこと」
「お口に合うてよろしゅうござりました」
お竜姐さんとお葉はすっかり打ち解けて盆の支度が出来るまで次の間でカスティラの耳をよそゆきに凝らした件のオヤツでよもやま話に花を咲かせた。
「若旦那様がお小さい頃、町道場へ通われるお姿をようくお見掛けしたんでござんすよ」
お竜姐さんは唐突に話題を草之介の剣術の稽古のほうへ持っていく。
「ええ、草之介が十二の年齢に明和の大火で田舎へ疎開しましたが、わしの父が草之介に剣術の稽古を続けさせとうて、道場を焼け出された剣術の師範も疎開先へお連れしたほどなんでござります」
草之介にはイヤイヤながらの剣術の稽古であったが、明和の大火で江戸の町が焼け野原で仕方なく疎開した田舎では何もすることがないので、その頃ばかりは熱心に稽古に励んだものであった。
「では、疎開先で剣術の師範がずっと若旦那様に付きっきりでお稽古を?」
「ええ、それに草之介とは年頃も近い今の手代三人も一緒に疎開しておりましたので稽古の相手には困らなかったんでござりますよ」
「まあ、若旦那様も手代さん三人も剣術はなかなかの腕前なんでござんしょうねえ」
お竜姐さんは軽いお世辞の調子で言いながらもギラリと目が光る。
桔梗屋の乳母のおタネ、女中のおクキは薙刀の師範代、そのうえ、若旦那の草之介に手代三人も剣術の覚えがあるのだ。
(――ふぅん、玄武一家が桔梗屋を訪れた本当の目的は、この屋敷の下見に、桔梗屋に武術の使い手が何人いるかを調べるためか)
貸本屋の文次はそう察した。
サギにツボ振りを教えてやるためにわざわざ来たとは口実にしても無理がある。
「あっ、白猫だ。ちょ、ちょ、こっち来い」
先ほどから竜胆は猫に興味がある振りをして裏庭に這いつくばって屋敷の縁の下まで覗き込んでいる。
この桔梗屋はからくり屋敷で隠し扉があることをすでに嗅ぎ付けているのだろうか。
(来月のたぬき会での反タヌキ派の企てを玄武一家も虎也から聞き知っておるんぢゃろうの)
文次は貸本を縁側に並べながら横目で竜胆の動きを追っている。
(玄武一家もそれとなく客人を装って、たぬき会を警護するつもりなんぢゃろう)
富羅鳥の忍びも上様を通じて我蛇丸、ハト、シメ、文次の四人でたぬき会に参加させてもらう手筈を整えていた。
たぬき会は書画、唄、踊りなど各々の得意の芸術の品評会だが、忍びは他人の筆跡を真似る習いでおしなべて達筆なので四人とも書を出品することにしたのだ。
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