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第肆拾章 雪中矢衾

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「恨めしや…宗春様におかれましては未だ吉宗様にあだをなされてるご様子…これでは拙者は安心して成仏出来ませぬぅ…」

「ひぃぃぃぃぃぃ?! おのれ、仕明しあけ! 血迷ったか?!」

 夜半、尾張迫上さこがみ家にて包帯まみれの姿となって苦しんでいた尾張藩藩主・徳川宗春は闇に浮かぶ白装束に胆を潰した。
 しかもご丁寧な事に炎の魔法を応用して青白い人魂を周囲に浮かべているのだから端から見ていたエヴァはその凝りように感心したものか呆れたものか悩んだものだ。

 何故、彼らの身が日本の尾張にあるのかと云えば、若い頃の宗春の気性を知る吾郎次郎ごろうじろうが残された新太郎の母に意趣返しをしかねないと危惧したからだ。下手をすれば迫上家はお取り潰しである。
 それを聞いて新右衛門しんえもんは泡を食ったが、異世界にて新生活を始める覚悟があるならばと新太郎の母と古くから仕えているという老僕の救出に来たのだ。
 だが流石は武家の妻、新太郎の母である。此度こたびの来訪がお忍びであり、曲がり形にも柳生新陰流を学んだ者が子供に打ちのめされる事などあってはならぬ事、そしてその原因が婦女を手籠めにしようとしていた事から既に迫上家へのお咎めは無いものとする約定を得ていたのであった。
 これには吾郎次郎も感心したものであるが、相手は宗春だ。
 "白”と云えばカラスも"白”となる天下の尾張藩主が一言云えば迫上家は簡単にお取り潰しになってしまうだろう。
 故に吾郎次郎は一計を案じて駄目押しをしてやろうと丑三つ時に幽霊へと変じたのである。決して幾度となく刺客を送り込まれた意趣返しではない…はずだ。

「拙者は地獄の底からいつでも見ておりますぞ。宗春様が悪事を成せば拙者はすぐさま閻魔大王の遣いとなってお迎えに参上仕りまする」

「妖怪め! 退治してくれん!」

 この時代、五十を過ぎれば初老と云っても過言ではないが宗春の一太刀は何の衒いの無い凄まじい勢いがあった。況してや先程まで新太郎に打たれた傷にまんじりとも出来ずに悶えていたのだが、それを感じさせる事すら無かった。
 流石は長年八代将軍・徳川吉宗と希代の剣客にして戦術家である仕明吾郎次郎を相手に暗闘を繰り広げていただけはあるといえよう。

「お見事! なれど拙者には通用致しませぬ」

 なんと吾郎次郎は右の人差し指と中指のみで渾身の一撃を止めてしまったのだ。

「う、動けぬ」

「宜しいか。まずは迫上家を安堵なさいませ。道を外れようとなされた宗春様を討ってでも諫めた新太郎こそは真の忠臣、取り立てれば尾張の誉れとなりましょう」

「迫上家には咎め無しと約束したが」

「目を見れば分かり申す。ふとした瞬間に今夜の事を思い出した時、怒りをも思い出し簡単に迫上家を踏み潰してしまうでしょう。さすれば閻魔大王は忠臣をも殺す大悪人として宗春様のご寿命を待つ事なくお命を奪い無間地獄に堕とすでしょうな」

「じ、地獄などありはせぬ。訳知り顔で信徒を騙す坊主の戯言である」

「では死んだ・・・拙者がここにいるのは何と説明なさる」

「そ、それは…じ、地獄は本当にあるのか?」

 青白く輝く吾郎次郎の瞳に宗春は言葉が出ない。
 恐怖もあるが、その美しさに魅了されているのだ。

「さあ、今が改心する最後の機会とお心得遊ばせれよ」

「あ、相分かった…迫上家の安堵は云うに及ばず、忠臣として新太郎を召し抱えよう。これで良いか?」

「宜しゅうござる。いや、宗春様の寛大な心に感謝致しますぞ」

「そ、それより閻魔大王にはよしなに頼むぞ」

 御意と頷こうとした吾郎次郎であるが、手元に『水都聖羅』を呼ぶや振り下ろす。
 襖を破って一本の矢が飛び出してきたのを迎撃する為である。

「何だ?! 敵襲か?!」

「はて、的は拙者と宗春様のどちらでござろうか」

「首を傾げておる暇は無さそうだぞ」

 襖を貫いた新たな矢を宗春が斬り落とした。

「お見事!」

 吾郎次郎が褒め称えるが宗春は精一杯であるようで答える事は無かった。

「ゲルダ!」

「宗春様!」

 様子を見ていたエヴァと新右衛門も襲撃に飛び出した。
 吾郎次郎もゲルダの姿の戻ると襖を蹴破る。
 矢を防げないのなら邪魔でしかない。
 風を切る音と共に矢が飛来する。
 エヴァは杖で、三人は刀でそれぞれ迎撃した。

「あそこだ!」

 雪の降り積もる庭に出た新右衛門は迫上邸よりやや離れた林を指差した。
 その言葉通り木の上から再び矢が放たれる。

「あの距離から届かせるだけでも至難であるのにこの精度! 敵は化け物か?!」

「敵はエルフじゃ。関所にいた娘もおる」

 ゲルダは瓶底眼鏡の『望遠』機能を駆使して木の枝に立って弓を番えるエルフの集団を見て取った。

「えるふとな? それにその姿…いや、今はそれ所ではないな」

 宗春の問いにゲルダが答えた。

「御意! 後で説明申し上げまする」

 ゲルダは矢が途切れる一瞬の隙に氷の礫を撃ち出したが、敵を仕留めるどころか林とは見当違いな方向へと飛び去ってしまった。

「おい、仕明、どこを狙っておる?!」

「良いのよ。あれで正解」

「何だと?!」

「林からここまで小さな光の球がたくさん浮かんでいるのが分かる?」

「うむ、あるな。仕明はそれを打ち落としたのか?」

 宗春の答えは当たっていた。

「ええ、エルフ達はあの光の球を通して私達を見ているの。それだけじゃないわ。矢に干渉して飛距離の増加と軌道修正もしている。元々エルフは弓の名手が多い種族だけどこの光の球によって更に命中精度を上げているのよ」

「恐るべき術であるな。つまり仕明は敵の“目”を潰しているのだな?」

「そういう事。現に干渉を得られなかった矢が風に流されて見当違いの所に飛んで行くようになってきたし、中には屋敷に届かない矢もあるわ」

 云われてみれば宗春も新右衛門もゲルダに目をやる余裕さえ出てきた。
 転生とやらをしたと耳にしてはいたが改めて見ると実感する。
 若き日の吾郎次郎も美しかったが女性となった事で更に磨きがかかっているように思えた。

「術が破られればこんなものか。かつては“弓の申し子”と謳われたエルフも術に頼り過ぎて腕が落ちてきているようね」

「他人事ではない故に耳が痛いな」

 後進の指導に力を注ぐあまり自己の鍛錬を疎かにしてきた新右衛門が自嘲気味に云うが、それでも一太刀で一度に二本の矢を落とす技量は目を見張るものがあった。
 新右衛門は速射砲のように氷の礫を撃ち出して光の球と矢を撃ち落としているゲルダに、もはや異世界の住人なのだな、とある種の寂寥を覚えた。
 漸く新右衛門は思い至る。自分が吾郎次郎に抱いていたのは復讐心ではなく憧憬であり、彼とは切磋琢磨する好敵手になりたかったのだと。

「む? どうやら敵は撤退するようだな」

 林の中にいるエルフ達が背を向けているのを見て呟いた。
 弓の天才・エルフの絡繰りを破られてはこれ以上の戦闘は意味が無いと悟ったのだろう。見事な引き際であった。

「終わったのか?」

 宗春の問いに頷こうとしたその刹那、ゲルダが横っ飛びに跳んだ。
 一瞬前までゲルダの頭があった所には彼女の右手があり矢を掴んでいた。
 エルフの矢衾から生還した油断に付け入るような一射であった。

「術を破られてなお矢をここまで届かせる者もおったのか」

「恐らくは先の矢衾は囮で戦闘の終了を悟ったその隙を狙った今の矢が本命だったのでしょう。その証拠に鏃には毒が塗ってござる」

 乳白色に濡れた鏃を見せる。

「ヤドクガエルね」

「ヤドクガエルとな」

「その名の通り背中から神経毒を分泌するカエルにござる。その毒を矢に塗って狩猟する民族もいる事からその名がついたようですな」

「世の中にはそのような恐ろしいカエルがいるのか」

 新右衛門が感心したように云ったものだ。
 武に生きてきただけあって矢に毒を塗る発想自体は恐れていないらしい。

「心理の中に罠を仕掛ける軍師が敵におるのやも知れぬな。また異世界にいるはずのエルフが日本にいるという事はである。十中八九天魔宗であろうな」

「でしょうね。しかもゲルダがこちらに来たと同時に襲撃してきたし私達は見張られていると考えた方が良いわ」

「であるな。折角変装までしてスチューデリア入りしたというのに上を行かれちまったのぅ。恐らくは新ちゃんを揶揄っているのを間者に見つかったのかも知れん」

「新ちゃんはやめろ。それよりお主はこれからどうするつもりだ?」

「そうさなぁ……」

 新右衛門の問いに暫く顎を擦り擦り思案していたゲルダであったが、ふと何かを閃いたようにニヤリと笑った。

「スチューデリアは星神教の大神殿に詣でてみようかの」

 どう考えても騒動の元にしかならないであろうゲルダの提案にエヴァと新右衛門は揃って弛緩した表情を見せたのだった。








 一方、その頃…
 イシルはぶるぶると震える手で弓から弦を外していた。
 今日は厄日としか云いようがない。
 会心の出来だと思っていた作戦を柳生七人衆からは一蹴され、加えて大僧正から呼び出され、何の用事かと赴けばゲルダのスチューデリア入りを見過ごしていた事実を叱責されたのだ。
 夜になって酒場にゲルダが現れたと天魔宗のから連絡があって押っ取り刀で駆け付けてみれば、柳生七人衆の一人と老人が睨み合っていた。
 ゲルダなんてどこにいないじゃないかと問い詰めると、なんとあの老人こそゲルダの変装であると云うではないか。

「ゲルダが世を欺く為に老人の姿を取るのをご存知ないのですか」

 呆れる密偵に返す言葉が見つからなかった。
 慇懃無礼を絵に描いたような男である。
 エルフといえども人間との混血児である自分は人から侮られる事が多い。
 母は部族の禁を破って勇者を名乗る人間と恋に落ち、やがて自分が生まれたが父は祝福するどころか、“女子など産みおって”と母と自分を捨て、腹違いの兄弟のみを連れて山に籠もってしまったという。
 頼る者がいなかった母は仕方無く部族に戻ったが、待っていたの罵倒と両親からの勘当であった。純血を重んじるエルフとしては混血児を産む事は許させる事ではなかったのだ。
 母は一応純血であるので村八分で済んだが、自分は産まれた時から忌み子として壮絶な虐待の対象とされた。
 幸か不幸か、触れるのも気持ち悪いと犯されることはなかったが、それでも毎日のように石を投げられるのは地獄でしかなかった。
 かと云って人間の世界に行ったところで結局は被差別の対象である事に違いはなく、どこへ行ってもイシルには居場所などなかったのである。
 そんなある日の事、冬にも拘わらず食糧となる果物を採ってこいと村を追い出された事があった。村にいる以上は役に立てということらしい。
 普段からいない者として扱うか、苛めるかしかしてこなかった連中の言葉とは思えないが母からも“行ってきなさい”と云われた時は絶望を通り越して何も感じなくなっていた程だ。
 後で知ったが母は一日の糧を得る為に自分への虐待を黙認していた。
 部族長の娘であった母は弓と魔法の名手であったが生活能力はまるで持ち合わせていなかったのである。
 弓があるなら獣なり狩れば良いだろうと思ったものだが、エルフは肉や魚、卵などの生臭は食わないのだそうな。自分が肉を食えるのは人間との混血であるせいらしい。その事もまたエルフの中で蔑まれる原因であったという。
 どこを捜しても果物どころか食べられる野草すら見つからない。
 やがて餓えという極限状態の中で意識を失ってしまう。
 次に目が覚めた時は朽ちかけた寺院らしき廃墟の中だった。

「目が覚めたか」

 そこにいたのは小柄な人物だった。
 初めは子供かと思ったが、顔に刻まれた無数のシワと枯れ木のように細い手足から老人だと分かった。

「食え」

「これは」

滋養・・じゃ。混血児なら獣肉ももんじも問題あるまい」

 美味そうだった。
 イシルは差し出された器を引っ手繰ると夢中になって掻き込んだ。
 こんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてだった。
 やがて腹が満たされるとイシルは礼を云ったが老人は首を横に振ったものだ。

「可哀想によ。だが安心しろ。これからは拙僧が守ってあげるよってな」

 細いシワだらけの手であったがイシルの頭に乗せられた手は温かかった。
 滅多に体を洗う事はなく常に酸っぱい匂いのする母より良い匂いがした。
 ああ、ここにいれば安心・・

「お主には力がある。誰にも負けぬ力がな。自分では気付いていないだけだ。お主が望むなら拙僧がその素晴らしい力を引き出して進ぜよう」

 この人はボクを強くしてくれるという。
 この人が云うのなら本当なんだろう。
 力が欲しい。部族のヤツらから身を守れるだけの力を。

「そんなものではない。お主の力は純血のエルフも人間も屈服させるだけの力がある。その力を拙僧に貸して欲しいのじゃ」

 そこまでの力がボクに?
 ううん、この人が云うのだから信じるべきなんだ。
 この人の云う事を聞いていれば安心・・安心・・

「おお、今まで善く我慢した。偉いぞ。だが今は違う。安心・・して思い切り泣くが良い」

「うう…ああ…」

 上手く泣けない。
 泣くともっと非道く苛められたから泣くことを我慢し過ぎたせいだ。

「うああああああ…ああああああああ…」

 堰を切ったように涙が溢れてくる。

「うわーーんっ! 辛かったよぉ!」

「よしよし、たんと泣け。たんと泣け。そして好きなだけ泣いたらそれを怒りと化せ。怒りは力となり、力は安心・・を生む」

 母の抱擁なんかよりこの老人に背を擦られた方がよほど温かい。
 ああ、安心・・だ。








 こうしてイシルは老人の教えを乞うようになる。
 天魔宗は天魔大僧正の一番弟子にして最古の幹部の誕生であった。
 その自分がたった一日で窮地に追いやられている。
 自分が放った矢をゲルダは有ろう事か片手で掴み取っていた。
 絶妙のタイミングだと思っていた。
 エルフ達が撤退し、戦闘の終了を感じ取っていたはずだった。
 勘が良いというレベルではない。
 イシルにとって屈辱の一瞬であった。

「イシル様、如何なさるおつもりで?」

 が無表情に問う。
 答えは決まりきっていた。

「何としてもゲルダと尋常に立ち合わなければいけない」

 策を弄してはダメだ。
 尋常な勝負でゲルダに勝たなければ十代弟子としての立場が無くなる。
 ボクは大僧正様の一番でなければいけないのだ。
 だが、それ以前にイシルの心に武芸者としての火が灯っていた。

「ゲルダと一対一の状況を作って欲しい。出来るかい?」

「やってみましょう」

「ふふ、云ってみるものだね。じゃあ、頼んだよ」

 音も無くは姿を消した。

「待っていろ。ボクを虚仮こけにした報いを受けさせてやる」

 イシルは背負った矢筒から矢を捨てた。
 門外不出にしてきた必殺の奥義を遣う時が来たのだと悟ったのだ。
 奥義に必要な矢は三本。その決意を確かなものにする為に矢筒に残された矢もまた三本であった。
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