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番外編 とある商家の娘とその夫
生まれた娘の名は夫がつけた。この地域では父親が子供の名をつけるのが当たり前だったからだ。だが私はその判断を今もなお後悔している。
”アレクサンドラ”
それが夫がつけた娘の名前だ。商家の娘には不釣り合いと思えるほど立派で、まるで貴族の娘に与えられるような名前に私は驚きを隠せなかった。
「この子は貴族ではないのですよ!? そのような立派過ぎる名では悪目立ちしてしまいます」
ただでさえ人目を引く容姿をしているのに、そんな分不相応な名をしていればいらぬ誤解を招きかねない。
貴族には貴族の、平民には平民の、それぞれ相応しい名というものがある。そう説明したものの夫には分かってもらえず、挙げ句の果てに小馬鹿にした顔でこう言われた。
「この子に地味な名など似合わない。これだけ私に似た美しい容姿をしているのなら、いずれは貴族に見初められるだろう。その時になって困らないよう、相応しい名をつけたのだと分からないのか?」
「は……? 何を言っているのですか、貴方は……」
もう意味が分からなかった。夫の言い分は、いずれ娘が貴族に見初められ、妻となる日に備えて貴族らしい名前をつけたのだと言わんばかりだった。貴族に見初められたところで、平民が貴族の妻になれるはずもない。法でそう決まっていることを夫は知らないのだろうか。
そう説明しても、逆に夫は私を憐れむような目で見る。物も分からない愚か者だとでも言いたげだった。
その目に私は得体の知れない気味の悪さを覚え、背筋がゾッとなった。この人は頭がおかしい。そう理解した瞬間、私は夫が生理的に受け付けなくなった。
夫の端麗な容姿を受け継いだ娘は周囲も目を見張るほど美しく成長していった。
成長するにつれ、娘はまるで周囲の色を奪うように輝いた。市場へ連れて行けば人々が足を止め、誰もが娘の美しさに目を奪われる。母親と似ていない美貌をもった娘に対し、口さがない人々は夫が他所で作った子ではないかと噂するようになった。私はその噂を出鱈目だと取り合わなかった。しかし、それを耳にした夫はとんでもない思い込みに囚われてしまったのだ。
「ねえ、母さん。アタシの本当の母親はお貴族様なの?」
娘の口からそんな発言が飛び出た時、私は開いた口が塞がらないほど驚いた。
詳しく聞けば、なんと夫が娘にそう吹き込んでいたというではないか。事実無根の嘘をどういうつもりで娘に言ったのだと夫を問い詰めると、焦点の合わない瞳でとんでもないことを口にした。
「あの子には真実を知る権利がある。自分が貴族であるということを」
信じられないことに夫の脳内では娘の母親は元婚約者のご令嬢ということになっていた。
何がどうしてそういう考えに至ったのかは分からないが、私が腹を痛めて産んだという事実は夫の中では無かったことになっていた。産まれた瞬間も立ち会ったというのに。
夫の脳内では、アレクサンドラは元婚約者のご令嬢が夫と通じて出来た子で、婚外子など育てられないという理由で夫に預けられたことになっていた。私は娘にとっては育ての母で、本当の母は夫の元婚約者のご令嬢だという。
「アレクサンドラは、私とクロエの愛の結晶だ。それを知る権利があの子にはある」
真剣に自分の妄想を騙る夫に全身の血が沸騰しそうだった。
この人はどれだけ私を馬鹿にするつもりなのか。どれだけ侮辱すれば気がすむのかと堪忍袋の緒が切れ、気づいた時には台所にあった綿棒で夫を殴り飛ばしていた。
自宅と隣接していた商会の事務所にいた従業員が騒ぎを聞きつけ止めに入ってくれなければ最悪の事態に陥っていたかもしれない。それくらいあの時の私は頭に血が昇っていた。我が子を産んだ事実が勝手に無かったことにされるなど、母親としてどうしても許せなかった。
その後どうしたかの記憶がない。気づいた時には私は実家の寝台の上で目を覚ましていた。
近くには父の姿があり、憔悴しきった顔で頭を下げられた。父の話によると私は自宅で倒れたらしい。
あの場に居合わせた従業員が父を呼びに行ってくれたという。
起き上がろうとしたものの、全身が怠くてとても動けなかった。父が呼んだ医師に診てもらうと、長年の精神的負担が積み重なり体に影響が出ているのだという。こんな状況にまで追い込まれるほど夫との結婚生活は私の心身を蝕んでいたのだと思うと、自然と涙が零れた。
「本当にすまない……。こんなことになるのなら、あんな男を婿として受け入れるのではなかった……」
私の状態を目の当たりにした父は、ただ何度も私に謝り続けた。
しかし、私は父の謝罪を受け入れることも出来ず、無言のまま父を見ていた。
私の体調が回復するまで娘の面倒と店の経営を引き受けてくれるというので、ありがたくお願いした。
レオナルドのことは耳に入れたくないので、とりあえずは生きているということだけを聞いて後は聞かなかった。
今はその名を聞くだけで吐き気と眩暈が止まらないから。
それからの私は体調を回復することに専念した。
一日中寝台で過ごす日々が続き、少しずつ体調は回復し、やがて軽く庭を散歩できるまでとなる。
たまに母や父が娘を連れてきてくれて、その時には久しぶりに話すこともできた。娘の前で夫に暴力を振るってしまったせいで娘は最初は私に怯えていたが、徐々に笑顔を見せるようになった。
あんなことを娘の目の前ですべきではなかったという後悔と、そこまで私を追い込んだ夫への怒りで毎日のように泣いた。どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのかと、自分の不運を恨んだ。そんな鬱々とした気分と悲しみを癒してくれたのが幼馴染だった。
「小父さんから君が実家に戻ってきてると聞いて、居ても立っても居られなくなった。こんな状態になるまで君を追い込んだ君の夫が許せないよ」
幼馴染の彼は毎日のようにお見舞いにきてくれて、私の好きな花やお菓子、それに本を差し入れてくれた。
優しい幼馴染が寄り添ってくれたおかげで私も徐々に笑顔を取り戻せたのだと思う。
やがて彼は私に「子供の頃から君のことをずっと好きだった。俺だったら君をこんな目に遭わせない。ずっと大切にすると誓う。そんな酷い夫とは別れて俺と結婚しよう」とプロポーズをしてくれた。嬉しくて、嬉しくて、涙が零れた。私も彼のことが好きだったから。
だが、私は彼の求婚を受け入れなかった──。
”アレクサンドラ”
それが夫がつけた娘の名前だ。商家の娘には不釣り合いと思えるほど立派で、まるで貴族の娘に与えられるような名前に私は驚きを隠せなかった。
「この子は貴族ではないのですよ!? そのような立派過ぎる名では悪目立ちしてしまいます」
ただでさえ人目を引く容姿をしているのに、そんな分不相応な名をしていればいらぬ誤解を招きかねない。
貴族には貴族の、平民には平民の、それぞれ相応しい名というものがある。そう説明したものの夫には分かってもらえず、挙げ句の果てに小馬鹿にした顔でこう言われた。
「この子に地味な名など似合わない。これだけ私に似た美しい容姿をしているのなら、いずれは貴族に見初められるだろう。その時になって困らないよう、相応しい名をつけたのだと分からないのか?」
「は……? 何を言っているのですか、貴方は……」
もう意味が分からなかった。夫の言い分は、いずれ娘が貴族に見初められ、妻となる日に備えて貴族らしい名前をつけたのだと言わんばかりだった。貴族に見初められたところで、平民が貴族の妻になれるはずもない。法でそう決まっていることを夫は知らないのだろうか。
そう説明しても、逆に夫は私を憐れむような目で見る。物も分からない愚か者だとでも言いたげだった。
その目に私は得体の知れない気味の悪さを覚え、背筋がゾッとなった。この人は頭がおかしい。そう理解した瞬間、私は夫が生理的に受け付けなくなった。
夫の端麗な容姿を受け継いだ娘は周囲も目を見張るほど美しく成長していった。
成長するにつれ、娘はまるで周囲の色を奪うように輝いた。市場へ連れて行けば人々が足を止め、誰もが娘の美しさに目を奪われる。母親と似ていない美貌をもった娘に対し、口さがない人々は夫が他所で作った子ではないかと噂するようになった。私はその噂を出鱈目だと取り合わなかった。しかし、それを耳にした夫はとんでもない思い込みに囚われてしまったのだ。
「ねえ、母さん。アタシの本当の母親はお貴族様なの?」
娘の口からそんな発言が飛び出た時、私は開いた口が塞がらないほど驚いた。
詳しく聞けば、なんと夫が娘にそう吹き込んでいたというではないか。事実無根の嘘をどういうつもりで娘に言ったのだと夫を問い詰めると、焦点の合わない瞳でとんでもないことを口にした。
「あの子には真実を知る権利がある。自分が貴族であるということを」
信じられないことに夫の脳内では娘の母親は元婚約者のご令嬢ということになっていた。
何がどうしてそういう考えに至ったのかは分からないが、私が腹を痛めて産んだという事実は夫の中では無かったことになっていた。産まれた瞬間も立ち会ったというのに。
夫の脳内では、アレクサンドラは元婚約者のご令嬢が夫と通じて出来た子で、婚外子など育てられないという理由で夫に預けられたことになっていた。私は娘にとっては育ての母で、本当の母は夫の元婚約者のご令嬢だという。
「アレクサンドラは、私とクロエの愛の結晶だ。それを知る権利があの子にはある」
真剣に自分の妄想を騙る夫に全身の血が沸騰しそうだった。
この人はどれだけ私を馬鹿にするつもりなのか。どれだけ侮辱すれば気がすむのかと堪忍袋の緒が切れ、気づいた時には台所にあった綿棒で夫を殴り飛ばしていた。
自宅と隣接していた商会の事務所にいた従業員が騒ぎを聞きつけ止めに入ってくれなければ最悪の事態に陥っていたかもしれない。それくらいあの時の私は頭に血が昇っていた。我が子を産んだ事実が勝手に無かったことにされるなど、母親としてどうしても許せなかった。
その後どうしたかの記憶がない。気づいた時には私は実家の寝台の上で目を覚ましていた。
近くには父の姿があり、憔悴しきった顔で頭を下げられた。父の話によると私は自宅で倒れたらしい。
あの場に居合わせた従業員が父を呼びに行ってくれたという。
起き上がろうとしたものの、全身が怠くてとても動けなかった。父が呼んだ医師に診てもらうと、長年の精神的負担が積み重なり体に影響が出ているのだという。こんな状況にまで追い込まれるほど夫との結婚生活は私の心身を蝕んでいたのだと思うと、自然と涙が零れた。
「本当にすまない……。こんなことになるのなら、あんな男を婿として受け入れるのではなかった……」
私の状態を目の当たりにした父は、ただ何度も私に謝り続けた。
しかし、私は父の謝罪を受け入れることも出来ず、無言のまま父を見ていた。
私の体調が回復するまで娘の面倒と店の経営を引き受けてくれるというので、ありがたくお願いした。
レオナルドのことは耳に入れたくないので、とりあえずは生きているということだけを聞いて後は聞かなかった。
今はその名を聞くだけで吐き気と眩暈が止まらないから。
それからの私は体調を回復することに専念した。
一日中寝台で過ごす日々が続き、少しずつ体調は回復し、やがて軽く庭を散歩できるまでとなる。
たまに母や父が娘を連れてきてくれて、その時には久しぶりに話すこともできた。娘の前で夫に暴力を振るってしまったせいで娘は最初は私に怯えていたが、徐々に笑顔を見せるようになった。
あんなことを娘の目の前ですべきではなかったという後悔と、そこまで私を追い込んだ夫への怒りで毎日のように泣いた。どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのかと、自分の不運を恨んだ。そんな鬱々とした気分と悲しみを癒してくれたのが幼馴染だった。
「小父さんから君が実家に戻ってきてると聞いて、居ても立っても居られなくなった。こんな状態になるまで君を追い込んだ君の夫が許せないよ」
幼馴染の彼は毎日のようにお見舞いにきてくれて、私の好きな花やお菓子、それに本を差し入れてくれた。
優しい幼馴染が寄り添ってくれたおかげで私も徐々に笑顔を取り戻せたのだと思う。
やがて彼は私に「子供の頃から君のことをずっと好きだった。俺だったら君をこんな目に遭わせない。ずっと大切にすると誓う。そんな酷い夫とは別れて俺と結婚しよう」とプロポーズをしてくれた。嬉しくて、嬉しくて、涙が零れた。私も彼のことが好きだったから。
だが、私は彼の求婚を受け入れなかった──。
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