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十七話 シャリバテ

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 今川館に帰還したとき、左兵衛の兵は二百八十四人
 朝比奈泰能の兵は二千七百二十二人だった。

 「一宮の小倅、そちは先達の朝比奈殿に殿を任したか、この不埒者めが」

 居並ぶ群臣の中、孕石が吐き捨てるように怒鳴った。

 「言うな孕石、両人とも生きて帰ってよかった。大義である」

 平静に義元公が仰せになった。

 先陣で勝利を収めた花倉方は勢い付き、
 今川館に主力を投入して攻めかかってきた。

 ここで、雪斎様は野伏の雑兵どもを戦場に出すことにされた。

 しかも十分に米の飯を食わせ、立派な具足を与えてやった。

 野伏の中でも元々士分であった者には甲冑まで与えた。

 これに感動した野伏どもは張り切り勇んで合戦に出陣した。

 その後ろからは当方の主力の大軍が後詰めに付いたことも
 前衛の野伏の気を大きくさせた。

 野伏は集めていたのは左兵衛だけではなく、
 由比殿、興津殿、など諸将もそれぞれ三百ずつ集めており、
 総勢三千の大所帯となった。

 敵の高天神衆が今川館に攻め寄せてくる。

 法螺貝が吹かれ、当方の諸将が前進する。

 それに押される形で野伏の雑兵たちも前に進む。

 その時である。

 後方で雪斎様の配下の僧たちが早鐘を鳴らした。

 すると、またたく間に当方の軍勢は今川館の中に雪崩れ込んでいった。

 「何をしておる、早う」

 父の怒鳴り声に左兵衛も訳が分からぬまま、
 館の中に撤退した。

 当方の軍勢が全部館に入ると、
 まだ野伏が退却していないにも拘わらず、
 門が閉められた。

 狼狽する野伏の雑兵。

 勢いづいて高天神衆が切り込むと、
 一気に態勢が崩れて逃げ出した。

 野伏の雑兵といえど、立派な具足を身に纏い、
 あるいは甲冑を着用したる兜首まであれば、
 高天神衆の将兵たちも手柄になると思い、
 兜首に挑みかかる。

 逃げ場を失った野伏の雑兵たちは死にものぐるいで反抗する。

 そこに、館の中から当方の郎党たちが一斉に矢を射かけた。

 「敵は総崩れじゃ、臆することなく館を我攻めせよ」

 大声で敵の大将が叫んだ。

 勇猛な高天神衆である。

 必死に抵抗する野伏の雑兵と乱戦になりながらも
 切り倒しつつ、館に迫ってくる。

 普通の兵であればこのような乱戦では前進することはできず撤退するものであるが、
 それでも高天神衆は前進できてしまった。

 そこを当方の弓兵に狙い撃ちされて、次々と倒れて死体を重ねていった。

 「しまった、策謀じゃ、引けい」

 花倉方が気づいた時にはもう遅かった。

 高天神衆が引き出すと当方は館の門を開き、
 猛然と撃って出た。それでも高天神衆は耐えて、
 一度は押し返した。

 押し返された当方の軍勢は一旦館に引き返し、
 そこで第二陣の新手が高天神衆に襲いかかった。

 ここでさしもの高天神衆にもシャリバテが来た。

 シャリバテとは飯を食うて蓄えた体内の胆力がつきることである。

 こうなれば、いかな勇者とも抗うことはできぬ。

 高天神衆は一気に崩れて撤退した。

 この一戦に乾坤一擲の勢力をかけていた
 花倉方には十分な後詰めがおらず、
 まともな殿もおけずに総崩れになり多くの将兵が討たれる次第となった。

 花倉本隊は撤退の途中由比城を襲ったが落し切れず、
 高天神衆は斉藤四郎の一族の守る丸子城に立ち寄り水と兵糧を要求したが、
 先に斉藤加賀守の手がまわっており城の主将は開門せず、
 高天神衆は兵糧、水を得ることなく後方へと引き退いた。


 戦力分散を恐れた花倉方は防備の薄い久能寺は放棄し、
 花倉殿は堀越氏、井伊氏などを引き連れて花倉城に入った。
 福島氏ら高天神衆は一旦前衛の方ノ上城に入ったが、
 小笠原氏と福島孫九郎の兵は城を出て花倉城に向かったようであった。

 旗印、陣容などを見て伝令が推察し、伝えてくれたものだ。

 それは、一旦は義元公の逆鱗に触れ、首討たれようとしたものの、
 歌の教養を見せて命助けられた、かの者であった。
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