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第二章 雪けぶる町
Man overbord 人が海に落ちた
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うちの店常連のポチョムキン夫妻は、手続きと審査を経て無事ホストファミリーになった。
こうしてようやく受入れ先が見付かった留学生のジョアンは、たまたま2カ国語を解する人だったから意思疎通に問題は無い。ただ彼に関して1つだけ理解できないのは、時々どこか遠い目をして、あらぬ方向を見つめることだ。
「へ? 何も見てないよ。焦点を合わせずにぼうっとしてただけ。そうすると落ち着くんだ」
暇だったから、彼と二人で“或黄花”を観にいった。
重い内容の映画だが、メインは主人公アルニカ・キーンの生き様を描いたノンフィクションで、収益金の大部分はアルニカの遺児、カイム・キーンの治療費に宛てられるそうだ。
映画の冒頭では、医者を夢見ていたアルニカが小学校を辞めさせられ、借金のカタに働かされる。彼女は働き先で、子守唄代わりに囁く。
『お前の親父は嘘吐きだ
お前のお母は意地悪だ
朝昼夕晩働かせ
休む頃には日が昇る』
アルニカは女衒に頼んで子守を辞め、政府支援の不妊手術を不正に施された後、都会の置屋へ連れて行かれる。成長するとちょうど地方から進学した幼馴染の借屋に押しかけて、同居するようになる。しかし金にまつわる些細な誤解からの口論の末、彼女は土砂降りの雨の中、衝動的に部屋を飛び出す。
『お前には何も無い。だからカイム、カイム・キーン』
やがて彼女は昔の同僚から押し付けられた赤ん坊と共に安宿で暮らし始め……たちの悪い元客に、腕に抱えた幼い息子ごと酸をかけられ、殺害される。駆け付けた幼馴染の医学生オンデン・バートルは、後に遺児カイムを引き取り、映画のラストでもインタビューを受けていた。
「ううっ、何だか吐きそう。酸を浴びるところとか、何かとリアル過ぎる映画だったよ……イオニはよく平気だね」
たしかに、クレイトン監督の映画は後味が悪い。しかも正真正銘のノンフィクションだから、やるせない気持ちになる。でもなぜか見てしまう。傷心のジョアンを連れ、そのまま町を散策した。
教会を覗くと、修道士メトディオスが、カナダからの手紙の歌詞を鼻歌交じりに口ずさんでいた。修道司祭様の留守中に、存分に羽根を伸ばしている模様。
代わりに海辺へ向かい、人もまばらな桟橋の奥まで歩いて行くと、水面下で魚がうごめいているのが見えた。
ここで釣りがしたいな。ザウル・ポチョムキンはガレージに沢山持っているから、今度借りてくれば、などと喋っていると。
「今、ザウル・ポチョムキンと言いませんでしたか? 彼等ご夫妻にどうしてもお会いしたいんです私!」
必死の形相でにじり寄ってくるのは、さっきまで海を眺めていたはずの見知らぬ女性だった。彼女の剣幕にたじろいだ私は声も出せずにいた。
「どうか落ち着いて。ご夫妻とはどういったご関係ですか?」
彼女はジョアンが話し掛けると彼に矛先を変え、詰め寄られたジョアンは海に落ちた。笑い事ではない、ここいらは水深が深くて船も通る。もしスクリューに巻き込まれでもしたら、ズタズタになって死んでしまう。
「うわ、ジーンズ重っ。ダメだイオニ、自力じゃ上がれない」
桟橋の下に掴まっているジョアンに、私は急いで持っていたドリンクを捨て、空にしたペットボトルを投げ渡した。
それとへたり込んでいて全く当てにはならないが、私が助けを呼ぶ間、女性には海に漂うジョアンを見ていてくれるよう頼んだ。
とにかく急いでパパの家を目指し、漁船を出してジョアンを人命救助して貰った。私はパパの定係地で帰りを待ち、着岸後は船のへりを引き寄せて、ロープをクリートに留めた。やっと助かってびしょ濡れのまま、今度は私のパパにボーイフレンド疑惑で詰め寄られる不運なジョアン。そこへ先程の女性が息を切らせて駆けつけた。
「……ほんっとうにごめんなさい。どこか怪我したでしょう、ジョアン?」
「早かったね、セリナ。かすり傷で済んだからNo problem. 上がれなかった事に関しては、僕も悪かったよ。緊急事態なんだから四の五の言わずにズボン脱げって、さっきイオニのお父さんからも言われた」
いつの間にかお互いの名前まで知っている二人に何があったのか? そんな事より、ジョアンがシャワーを浴びて着替えるのが先だった。
セリナ・グラース=井。私のパパの家でパスポートを見せて貰った所、それが彼女の本名だった。
本人によるとポチョムキン夫妻の息子の妻で、ハネムーン中の事故で夫を亡くした未亡人だ。
彼女は事故のショックでずっと入退院を繰り返してきたが、どうしても夫妻に会って謝罪したい気持ちを抑えられなかった。しかしいつも夫が窓口になっていたため詳しい住所や連絡先は知らず、一度挨拶に訪れたきりの家を特定することは極めて困難で……途方に暮れる彼女の耳に、私達の会話が飛び込んできたという訳だ。
更に証拠として提示された写真の数々には、セリナと亡き夫キリール・ポチョムキンの幸せそうな結婚式の一幕や、比較的現在よりも若々しいポチョムキン夫妻の姿が写っていた。
シャワーを浴びたジョアンは私のパパの服を借りて、タオルで髪を乾かしながらこれらの写真を一瞥した。
「成程ね。そういうことなら、僕が案内するよ」
私とジョアンは、セリナのレンタカーで家まで送って貰った。私はうちの店の前で降りたから、その後の顛末について詳しくは知らない。
ただし後からジョアンに聞いた話では、セリナはポチョムキン夫妻への謝罪後、夫妻からこの後どうするのか質問された。
彼女は亡き夫の故郷を暫く見て回るつもりだと伝えた。すると遠いホテルからわざわざ通うのも大変だろうからと、ポチョムキン夫妻から客間を提供され、しばしの間だけ泊まることになったらしい。
こうしてようやく受入れ先が見付かった留学生のジョアンは、たまたま2カ国語を解する人だったから意思疎通に問題は無い。ただ彼に関して1つだけ理解できないのは、時々どこか遠い目をして、あらぬ方向を見つめることだ。
「へ? 何も見てないよ。焦点を合わせずにぼうっとしてただけ。そうすると落ち着くんだ」
暇だったから、彼と二人で“或黄花”を観にいった。
重い内容の映画だが、メインは主人公アルニカ・キーンの生き様を描いたノンフィクションで、収益金の大部分はアルニカの遺児、カイム・キーンの治療費に宛てられるそうだ。
映画の冒頭では、医者を夢見ていたアルニカが小学校を辞めさせられ、借金のカタに働かされる。彼女は働き先で、子守唄代わりに囁く。
『お前の親父は嘘吐きだ
お前のお母は意地悪だ
朝昼夕晩働かせ
休む頃には日が昇る』
アルニカは女衒に頼んで子守を辞め、政府支援の不妊手術を不正に施された後、都会の置屋へ連れて行かれる。成長するとちょうど地方から進学した幼馴染の借屋に押しかけて、同居するようになる。しかし金にまつわる些細な誤解からの口論の末、彼女は土砂降りの雨の中、衝動的に部屋を飛び出す。
『お前には何も無い。だからカイム、カイム・キーン』
やがて彼女は昔の同僚から押し付けられた赤ん坊と共に安宿で暮らし始め……たちの悪い元客に、腕に抱えた幼い息子ごと酸をかけられ、殺害される。駆け付けた幼馴染の医学生オンデン・バートルは、後に遺児カイムを引き取り、映画のラストでもインタビューを受けていた。
「ううっ、何だか吐きそう。酸を浴びるところとか、何かとリアル過ぎる映画だったよ……イオニはよく平気だね」
たしかに、クレイトン監督の映画は後味が悪い。しかも正真正銘のノンフィクションだから、やるせない気持ちになる。でもなぜか見てしまう。傷心のジョアンを連れ、そのまま町を散策した。
教会を覗くと、修道士メトディオスが、カナダからの手紙の歌詞を鼻歌交じりに口ずさんでいた。修道司祭様の留守中に、存分に羽根を伸ばしている模様。
代わりに海辺へ向かい、人もまばらな桟橋の奥まで歩いて行くと、水面下で魚がうごめいているのが見えた。
ここで釣りがしたいな。ザウル・ポチョムキンはガレージに沢山持っているから、今度借りてくれば、などと喋っていると。
「今、ザウル・ポチョムキンと言いませんでしたか? 彼等ご夫妻にどうしてもお会いしたいんです私!」
必死の形相でにじり寄ってくるのは、さっきまで海を眺めていたはずの見知らぬ女性だった。彼女の剣幕にたじろいだ私は声も出せずにいた。
「どうか落ち着いて。ご夫妻とはどういったご関係ですか?」
彼女はジョアンが話し掛けると彼に矛先を変え、詰め寄られたジョアンは海に落ちた。笑い事ではない、ここいらは水深が深くて船も通る。もしスクリューに巻き込まれでもしたら、ズタズタになって死んでしまう。
「うわ、ジーンズ重っ。ダメだイオニ、自力じゃ上がれない」
桟橋の下に掴まっているジョアンに、私は急いで持っていたドリンクを捨て、空にしたペットボトルを投げ渡した。
それとへたり込んでいて全く当てにはならないが、私が助けを呼ぶ間、女性には海に漂うジョアンを見ていてくれるよう頼んだ。
とにかく急いでパパの家を目指し、漁船を出してジョアンを人命救助して貰った。私はパパの定係地で帰りを待ち、着岸後は船のへりを引き寄せて、ロープをクリートに留めた。やっと助かってびしょ濡れのまま、今度は私のパパにボーイフレンド疑惑で詰め寄られる不運なジョアン。そこへ先程の女性が息を切らせて駆けつけた。
「……ほんっとうにごめんなさい。どこか怪我したでしょう、ジョアン?」
「早かったね、セリナ。かすり傷で済んだからNo problem. 上がれなかった事に関しては、僕も悪かったよ。緊急事態なんだから四の五の言わずにズボン脱げって、さっきイオニのお父さんからも言われた」
いつの間にかお互いの名前まで知っている二人に何があったのか? そんな事より、ジョアンがシャワーを浴びて着替えるのが先だった。
セリナ・グラース=井。私のパパの家でパスポートを見せて貰った所、それが彼女の本名だった。
本人によるとポチョムキン夫妻の息子の妻で、ハネムーン中の事故で夫を亡くした未亡人だ。
彼女は事故のショックでずっと入退院を繰り返してきたが、どうしても夫妻に会って謝罪したい気持ちを抑えられなかった。しかしいつも夫が窓口になっていたため詳しい住所や連絡先は知らず、一度挨拶に訪れたきりの家を特定することは極めて困難で……途方に暮れる彼女の耳に、私達の会話が飛び込んできたという訳だ。
更に証拠として提示された写真の数々には、セリナと亡き夫キリール・ポチョムキンの幸せそうな結婚式の一幕や、比較的現在よりも若々しいポチョムキン夫妻の姿が写っていた。
シャワーを浴びたジョアンは私のパパの服を借りて、タオルで髪を乾かしながらこれらの写真を一瞥した。
「成程ね。そういうことなら、僕が案内するよ」
私とジョアンは、セリナのレンタカーで家まで送って貰った。私はうちの店の前で降りたから、その後の顛末について詳しくは知らない。
ただし後からジョアンに聞いた話では、セリナはポチョムキン夫妻への謝罪後、夫妻からこの後どうするのか質問された。
彼女は亡き夫の故郷を暫く見て回るつもりだと伝えた。すると遠いホテルからわざわざ通うのも大変だろうからと、ポチョムキン夫妻から客間を提供され、しばしの間だけ泊まることになったらしい。
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