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前編 三泊四日の無人島生活

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『そ…颯太の… ばっかやろう~!!!』

べつに夕焼けの下、海に向かって古くさく青春を叫んでいるわけじゃない。

私、千葉渚
高校1年生。

今日失恋しました。

ずっと一緒だった幼馴染への恋心にようやく気付いたその瞬間だった。

いや、きっとこの失恋でようやく気付いたのかもしれない。

痛いほどに奴が好きだった自分に。

情けなくて涙がでる。
私はきっとこの恋の舞台にすらたてなかった“対象外”だったのだ。

**********

颯太と私は物心ついたころから家が隣通しで両親が良かった事もあっていつも一緒だった。

普通の幼馴染なら、男女の違いを感じた頃にそれなりに思うところや照れがあって距離ができたりする事も多いらしいけれど、私達に関してはそうではなかった。

同じ道を志す同士でもあったから。
私も颯太も同じ空手道場に通っていた。

小さい頃から本当に呆れるくらい空手馬鹿な私達だった。

帯の色が変る度、次の帯を目指して、次の大会を目指して、共に練習して切磋琢磨したながら年を重ねてきた。

だから、男女なんて考えるまでもなく、いつだってどんなときだって一番近い存在だった。

そんな関係が変るなんて考えた事もなかった私は、きっと一人の女子としては、あまりにも考えが足りなかったのかもしれない。

小学校で空手に全てを捧げ何度も入賞を繰り返した私達は、地方の空手教室が閉鎖になるとともに当時の師範の友人が経営するというこの学園への誘いに応じた。
どちらがどちらを誘うでもなくスポーツに力を入れている寮を備えた南西クロス学園に地元を離れて昨年中学3年生になる時に編入したのだ。

ここは中高一貫教育の学園だ。

進学率だけに限定するならば、飛び抜けて上をいく学園では無いのかもしれない。
だけど勉強がパッとしない偏差値の低い学校というのとは少し違う。

何かに秀でた人が多く集まる個性的な学園なのだ。

理事長先生の方針“個性豊かな人材育成”を目的とした運営をしている学校なのだ。

“頑張る生徒一人一人を応援しよう”というスローガンのもと、色んな頑張る学生を受け入れて、環境を整える為のクラス編成が考えられたり、学園の部活動を強くする目標だけではなく、個人の頑張る何かの為の部活動があったりする。

だから私達も週三回の稽古に限られてしまう空手道場だけでは鍛えきらない身体を鍛える為に、総合格闘技部に身を置いている次第だ。

男子が多い部活ではあるが、もちろん女子だって数名いる。

時にストイックに、それでも和気藹々と過ごすこの部活に馴染むのはずっと男女入り混じる道場通いをしていた私にはすぐだった。

新しい生活、私の知らないスポーツをする人達との触れ合いが楽しかったし、スポーツだけではなく、幅広い人材を応援する学校だから、モデルや俳優志望等、デザイナーを志すような個性溢れる面々も沢山いて、結構楽しい学園生活を過ごしてこれた。

小説家志望の人や、理数系を極めるような数学者を目指す人なんかもいたりして学生のバラエティーパックのような学園なのだ。

皆それぞれに自分がやりたい事を優先しながら、学園生活を楽しんでいた。
もちろん私もだ。

だからそんな平和な毎日の中、それなりに日々一生懸命生きていた私は気付いていなかった。

いつも一緒にいた颯太の身長がこの一年でグッと背丈が伸びた事も、その顔がいつの間にか少年の顔から精悍なファイターのものに変って周囲の女子達の目を惹くほどになっていたことも。

ずっと一緒に鍛え続けてきたその身体が、どれだけ鍛えてもそう多くの筋肉を身に纏う事のない私の体とは本来全然別物であることも。


**********

颯太は昨日からどこかボーっとしていた。

スパーリングの途中でもどこかいつもと違って危なかしくて、怪我を心配した私は颯太をランニングに誘った。

いつものペースについて来れない颯太に違和感を感じた私は、止まって颯太に聞いた。

『颯太!? あんた、何か昨日から変じゃない??腑抜けた顔して ……何か変なもの食べた??』

そう問いかけた私に颯太はムッとした。

『おまっ、その発想、ほんと色気ねえよな?』

そう言われた私は、明らかにムッとして顔を歪ませた。

『ま……、お前に今更色気なんて求めてないけどよ…。なぁ、渚 お前さ、時々隣のクラスの佐伯さんと話してる事あったよな…?』

そう思いがけない事を言われて私は、首を捻った。

『え…、佐伯さんって、涼香ちゃん?』

一件、モデル志望?って思うほど可愛くて可憐な彼女は画家を目指す才媛だ。

『なんかさ…、昨日呼び出されてさ… 好きなんだって、そのさ… 俺の…ルックス?』

頭の後ろを掻きながら、照れたように俯く幼馴染の言葉が一瞬理解できなかった。

『は!?』

寝耳に水の言葉に私は、眉を寄せた。

『ルックス? 長年ひょろいのがコンプレックスだったあんたの…?』

そう言いかけて照れたように頬を赤らめて、後頭部に手を回したまま突然立ち止まった颯太の胸板におでこと鼻を打ち付けて、真上を見上げた私は眉間に皺を寄せた。

(え……。颯太ってこんなだったっけ???)

私の中で颯太はずっと颯太だった。

昨日見た顔が、次の朝変る訳もなく、その晩変るわけでもなく…
そんな繰り返しで気付かなかった。

私は眉を寄せて俯いた。

『涼香ちゃんっていうの…?突然モデルになってもらえませんか…って言われてさ……』

(そ…それってまずは“お友達”からって言うお誘いの画家バージョンだろうか?)

そう驚愕して、私はそういえばと、涼香ちゃんに何度か探るように颯太の事聞かれてた事を思い出した。

『渚ちゃんて、もしかして颯太君と付き合ってるのかな…?』

あの時の控えめな問いかけに、全力で笑って両手を大きく振って否定した私に安心したように、涼香ちゃんは可愛い顔を綻ばせていた。

淡くて長い巻き毛にお人形のような大きな瞳を持つ女の子から見てもドキっとするくらい可愛い顔。

胸に黒い感情が渦巻く自分に戸惑いながら問いかけた。

『……そ、颯太はどうなのよ。涼香ちゃんの事…。』

恐る恐る尋ねた。

どうして私は、自分で聞きながらその答えにこんなに怯えているのだろう。

動揺する自分に驚きを隠せなかった。

『あー、こんな話、お前とするのってなんか照れるけどさ…。ぶっちゃけ可愛いよな?
今までの俺の周りにはちょっといなかったタイプっていうの?長い付き合いのお前なら判ってくれると思うけど…。あれってさ、俺、期待してもいいのかな…? なぁ、どう思う?? 渚!?』

私は、眉間に大きな皺を寄せたまま、私の顔を覗き込んで問いかけようとする颯太の胸を突き飛ばした。

『っ…て… なにすんだよ??』

そう恨めしそうに私を見つめる颯太に私は精一杯に言った。

『……いんじゃない?勝手に期待しとけば。体調心配したのに馬鹿みたい。颯太…ほんっとうに稽古の邪魔!!』

そう言って私は踵を返して走り出した。

『え…、渚? ちょ… まだ話終わってないだろ!』

颯太は不満そうだったがしったことか。
私は泣きそうな顔を堪えるので必死だった。

(何で…こんなに胸が苦しいんだろう…)

その日、ランニングを終えた私は、金曜日であることを理由に、急遽、帰省する事にしたと部の皆に断って部室をでた。

颯太の顔を見るのが辛かった。

いつもと同じように周囲に見てもらえる自信がなかった。

それによって颯太にこの動揺に気付かれるのが怖かった。

この動揺を隠さなければ、私は颯太の幼馴染でいられなくなる。

でも、それが何だというのだろう。
例え颯太の幼馴染の立ち位置を守ったとしても、近い将来、涼香ちゃんと並ぶ颯太を笑って見つめなければいけなくなる。

今よりずっとずっと後ろに引いて。
それでも私は颯太との今の関係を大切にしたかった。

(馬鹿だ…)


こんな気持ち誰にも気付かれたくない。
それでも、今日だけは自分に泣く事を許したかった。

こんな時でも、強がりな自分が嫌になる。
部の仲間にも、ルームメイトにも気付かれたくない。

だからと言って、本当に突然実家に帰って親に心配かけて何かを勘ぐられるのも辛かった。

************

気がつけば私は一人夕暮れの渡船に乗っていた。

渡船と言っても、海に隣接した学園が所有する無人島に向かう学園の管理する渡船だ。

自然観察や、強化キャンプ、オリエンテーションに使われる場所だけど、自然がそのまま残されていて整備されているとは言えないその島は野生動物なども多くて危険を伴う事もあり無断での宿泊は禁止されている。

私はその島へ渡り、その日の最終便の船が対岸に帰るのを見送った。

(これで… 私… 一人だ…)

私は、砂浜にポツンと膝をついた。
同時に涙が毀れた。

(ああ…。馬鹿だ…。こんなに判りやすく直に泣けるくらいに、私は颯太の事好きだったんだ…)

自分でも予想していなかったくらいの涙が次から次に毀れた。

(颯太の馬鹿野郎…。ずっと一緒にいようねって… 約束したじゃん… そりゃ昔だよ。時効って言われたって何も言えないくらい昔だけど…。でも、つい最近まで、本当につい最近まであの頃と同じような顔してたじゃん…)

私は顔を歪めた。

(あんの野郎、おねしょだって黙っててあげたし…。嫌いなにんじんだって食べられるように練習に付き合ったし、小さな頃は帯が上手く結べるようになるまで毎回手伝って…。毎年一つももらえないって密かにシンミリしてるからバレンタインチョコだって毎年欠かさずあげたのに…。いつだって当然な顔してヘラヘラヘラヘラ笑いやがって… なんだ!?挙句の果てに色気が無い?? 今更求めない? 何が… 『今まで周りにいなかったタイプ。渚には判るだろ?』だ…。ふざけるんじゃない!!)

『馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿~!!ばっかやろ~!!』

再び込み上げてきた怒りのままに叫んだ私は、次の瞬間には力なく呟いた。

『可愛いだけだったら…… きっと来れなかったよ私…。あんたと…こんなところまで。』

そう口から毀れた自分の言葉に思い知らされた。

(ああ…。私、ずっと置いて行かれないように追いかけてたんだ。颯太の事……)

今、きっと私は酷く情けなくて頼りない顔をしているに違いない。

『でも…、置いていかれちゃったね…。はは……格好わる……』

力なく暮れ行く空を眺めていた。

今までの楽しかった色んな場面が思い出されて顔を歪めた。

思い出のなかのあいつとさえ別れなければならない気さえして、今日だけは思い出に浸って泣きつくそうと思った。

忘れないといけないから…
ちゃんと前に進まないといけないから…

そして詰る所思うのだ。
どれだけ悲しくても、颯太との思い出は切なくなるくらいに楽しい事ばかりだった。

今の自分が、自分なのは颯太が傍にいてくれたからだ。
颯太がいなかったら、きっと私はどこか今の私じゃなかった…。

今となっては颯太がいなければ何を得て
何をなくしていたのかすら分らない。

それでも今の自分を否定したくないから…
そう思うくらいには、きっと今までの私は頑張って生きてきたと思うから…

だからきっと私は、颯太に感謝しなくてはならない。

直にとはいかなくても、感謝の気持ちを持って颯太の幸せを喜んであげられるようにならなければ……

(それには、一体どれくらいの時間が必要だろうか…。)

そんな人生初の失恋を経験したその夜。
まさかあんな“怪奇現象”を目撃するとは思いもしなかった。


**************

泣いて泣いて泣いて、涙と嗚咽が収まった頃、夜はすっかり深まっていた。

今まで嗚咽をかき消してくれていた波の音がザブーンザブーンとやけに大きく聞こえて、私は深く息を吐いた。

初夏の夜風はまだ少しだけ、冷たくて私の逆上せた頭を冷やしてくれたけど、一人になりたかった癖に、本当に一人な事が妙に寂しくて心細かった。

月だけが惨めな私を慰めてくれるように美しく海面を照らしていた。

その時、私は月明かりに照らされた海面に、一瞬何かが動いたような気がした。

『ん、魚……?』

それにしてははっきりとしていたように思って眉を寄せた。

『気のせい…?』

そう思い、目を細めたけど、また何やら細長いものが海面に時々ニュっと現われる。

二本の何かが交互に見えて、徐々に近づいてくる。

私は言い様のない恐ろしさを感じた。

(何…。何、何、何??? この状況で推測できるこれって何???)

既に日が暮れていた。

方角的に沖から真っ直ぐこちら方面に近付く“未確認海遊物体”に私は大いに引き攣った。

不思議と逃げるという選択肢は浮かばなかった。

それが何であるのかを確かめたかったのかも知れない、目を見開いたまま私はそれを見守っていた。

その形が目視できるほど近付いた時、私は凍りついた。

(手……? 人の手…?? いや、の手…??)

完全に逃げるタイミングを失っていた。

起き上がる事もできないほど驚愕した私は、お尻を使って懸命に後ずさった。

(……おばけ? 河童?? 人魚?? いや… 海難事故か何かで何とか泳ぎついた人…?)

次の瞬間、浜にたどりつき、顔らしきものをあげた人形に私は大きな叫び声を上げた。

(ここ助けるところ?逃げるところ???)

そうこうしている間に黒い物体は岸に近付き無情にも私とそう距離の無い場所に漂流(?)してきた。

『ひっ…ひぅ… ゥキャーッ!!! 』

私は後ずさって、涙目で首を横に何度も何度も振った。

私の声にびっくりしたのか、その人型(?)もビクッと肩を振るわせた。
随分でっかい!

『わ…わ… ワカメ男!? い…い・や・あ~!!! 』

そう 私の前には今までに見たことがない未知の生き物が立っていた。

濃い緑と渋い赤の海草を頭一杯につけた顔も無き妖怪だ。

『ひっ…いや… いやいやいや… 来ないでえ!!!南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…アーメン!!
邪気退散!!!!』

私はその場に手にできるものを手当たり次第かき集めた。
そして石とか、砂とか、棒切れとか缶を手当たり次第、涙目でワカメ男にぶつけた。

『って… いていていて…。ちょ、ま… だっ~!! やめい!!節分か!?』

そう言って、男はどんどん私に近付いてきた。

『い、いや~!!来ないで来ないで来ないでえ! え…節分 鬼?? 鬼なの??
オニワソト フクワウチ オニワソト オニワソト……』

『だから… ちょ…落ち着け、妖しくないから…、ほら…』

『待て! 違う!! いいかげんにしろよてめぇ… いて…てててて…』

そう言って、男は顔周辺の夥しい数の若布を払い始めた。

(どう見ても妖しいだろう… 妖しすぎるだろう… 渡船も終了している無人島の海面から突如忍び寄るワカメ男。恐怖だろう、ホラー以外の何者でもないだろう!!)

でもその時、気付いた。

(し…しゃべってる?)

……って事は、もしかして一応……人間??

警戒を解かないまま、私は初めてその可能性を感じた。

そのまま男は私に一歩、また一歩とワカメを散しながら歩み寄る。

わたしは引き攣りながら後ずさる。

それが、私のこの状況でのパーソナルスペースに侵入すると察知した瞬間、私は覚悟を決めて目を細めた。

普段は決して安易にこんな事はしない。
してはいけない…。

“武道とは人を傷つける為にあるのではないから……”

生涯の修行の中で己の心身を高め続ける為にあるのだから…

でも、ごめんなさい。

これは例外にしてもらいたい。

そう、これは“不可効力”だ!

自己防衛の為に武道を嗜む人がいるのもまた現実。

次の瞬間私は、目の前の若布男わかめおとこ… 
もとい近付く不審者に向かって、上段回し蹴りを炸裂させた。

『は!?……なっ……ぐっ……』

男は信じられないというように目を見開いてそのままその場に倒れこんだ。

『って~…。お前、本当になんて事しやがる…』

(これをまともに喰らって、直に喋れる…? 起き上がろうとしている?? これは只者ではないかもしれない。もう一発入れて止めを刺すべきだろうか…)

そう思案しながら眉を寄せて再びファイティングポーズで男を睨みつけた。

目が合った男は何かを悟ったのだろう、目を見開いて首を横に振った。

『ちょ… 待て待て待て…。お前何を考えている…。頼むから殺気を漂わすんじゃねぇ…。俺達には話し合いが必要なようだ…。な!? そうだろう…。』

そう言う男を睨み付けて、ファイティングポーズをとったままの私は男に言い放った。

『不審者とする話などない…』

その私の物言いにムッとしたように男は立ち上がった。

若布は随分とれていたけれど、長めの髪が目を隠すくらいの位置までべったりと張り付いて表情が見えない。

とにかく不気味と言う言葉に尽きる。

『だ・か・ら 不審者じゃねぇ!!俺からしたらお前の方がよっぽど不審だ!何だって金曜の夜にこんな島に女が一人残ってんだよ。しかも長い髪で顔覆って、いかにも泣き腫らした顔して、一瞬 見ちゃいけないもの見ちまったと思っただろうが?? なのに人みたいだと思って安心した瞬間の“今のその攻撃”は一体なんだ!?絶対お前ただ者じゃないだろう?? 誰がワカメ男だふざけるな、この妖怪怪力女が!!』

私は、その言葉に引き攣った。

『妖怪……怪力…女??』

色気がないと言われ、失恋の痛みにシクシク泣いていた乙女に向かって…。

今、このタイミングでの“妖怪怪力女”発言……。

私は拳を握り締めて、眉間に皺を寄せて怒りに震えた。

『そうだろう? 俺の驚きも少しは考えてみろ怪力女…。
お前にあんな蹴りをもらうくらいなら、色気のある幽霊の方がまだマシだったさ。』

その瞬間私は切れた。

『色気が無いって……言うな~!!!』

その瞬間私は、不審者に下段蹴りから正拳突きを繰り出そうとした。

だが、男は今度は器用にそれをかわした。

まさかの出来事に眉を寄せた私はフッと身体が持ち上がるのを感じた。

『っ… 離せ~!!』

次の瞬間、自分が“お姫様抱っこ”されている屈辱に私は身悶えた。

『こうして抱くと… 意外と華奢だな… お姫様…』

髪で顔の見えないワカメ男は、唇の端をあげて、からかうように笑った。

『離せ!!』

男は起用に、私の手首さえも固定して私を木の下に連れて行き、木にもたれかかるように私を抱いたまま腰を下ろした。

『離せ 離せ 離せ!!!この変態!!』

ジタバタともがく私に呆れたように男は溜息を吐く。

『お前が落ち着いて話を聞くっていうんなら、いつでも離してやる…。そうでなきゃこのままだ。それともなんだ、このままお前が俺の膝の上でまだ甘えていたいって強請るなら、このままでもいいけど…?』

男の飄々とした言葉に私は忌々しく顔を引き攣らせて黙った。

『聞く…。 だから離せ…。』

そんな私に男はやれやれという顔をして、ようやく私を解放した。

**************

『トライアスロン???』

そう絶句して聞き返す私に、男は苦虫を噛み潰したような顔をして頷いた。

とはお馴染みのあれだよね?

自転車とマラソンと水泳と言っても海とか泳ぐあの過酷なスポーツ?

いまいち私にはあの楽しさは想像がつかないけれど“自分の限界”に挑戦する己との戦いであることは察することができる。

『それで…、そのトライアスロンの練習を…?』

男は憮然とした顔で私を睨みつけた。

『そうだ…。ちなみにちゃんと学園の許可をもらって今日の朝、スタート地点を出発して、今ようやくゴールに設定していたここにたどり着いたんだ。マラソンで30KM、バイク(自転車)で80KM、ヘトヘトのなか最後の水泳3KMをようやく泳ぎきって、大の字になって空を仰いで頑張った自分を噛み締めようとしていた俺に、お前は一体何をした…?』

男の顔の見えない憤りを感じて私は顔を歪めた。

『…………』

私はあまりの気まずさに絶句したまま何も言えずに引き攣っていた…。

『す…すみませんでした。、全く思い浮かばなくて…。』

男は深い深い溜息を吐いて、私の顔を見つめた。

『たくっ、で…。あんたは? 一体何やってるんだ?連れがいるようでもないし…』

そう問いかけられて別の意味でまた引き攣った。

『いや…。その…、ちょっとだけ? 嫌なことがありまして、その、今日一晩だけここで過ごそうかなあ…なんて?』

その瞬間男が、目元を引き攣らせた。

『一晩?… お前、今日が何曜日か判ってんのか?』

そう言われた私は、眉を寄せた。

さっきから、何度も曜日を強調されている事に思い当たる。

『金曜…。ですけど、それが何か?』

『お前…、ここは立派な無人島だって判ってるのか?電気・ガス・水道すべてない完全な自然。何が住んでるのかだって把握できていない人の手なんてほとんど入っていない自然の領域だ…』

今更ながら私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

『一晩なら… それでも何とかなっちゃったりするかなぁ~なんて…』

そう言った瞬間、男は額に大きな手をあてて『はぁー』と盛大な溜息を吐いた。

『三晩だ…。三泊四日になるな…。』

一瞬何を言われたのか判らなかった。

『へ……!?』

私は呆けたような声を出した。

『だ・か・ら…、三泊四日だ…。お前この学園の生徒なのに知らないのか?
土日は学校自体が休みだから、渡船も休業する。次に船がここに到着するのは月曜の昼前だ…。』

男は吐き捨てるようにそう言った。

『そんな……』

私は絶句した。

『どうするつもりだ? そんな思いつきで出てきたような軽装で、飯は?飲み水は?トイレは?寝るとこは?あん??』

そう厳しい顔で詰め寄られて私は言葉を完全に失っていた。

『それとも何だ? 俺みたいに泳いで帰るか?』

そう言われて引き攣った私は、恐る恐る聞いてみた。

『あの…。岸まではちなみに何キロでしょうか?』

『3キロだ。ちなみに流れは無茶苦茶きついぞ…。』

『………』

クロールで連続100M程度までしか泳いだ経験のない私は、3キロという途方もない距離に諦めるしかなかった。

しかもプールではないのだ。
海なのだ。

『残ります…。』

『あん…?』

『だから…。残ります。』

『馬鹿なのか…?』

『馬鹿って…』

私は涙目で男を見つめた。

『お前なぁ、俺だって鬼じゃない…。お前がちゃんと悪かったって素直に侘びを入れて、「助けを読んでください」って泣いて縋れば、陸まで泳いで学校に臨時の船を用意してもらえるように頼んでやってもいいぞ…。』

その申し出に一瞬、道が開けたような気がした。

でも、私は思い直して必死に首を振って眉を寄せて俯いた。

『何だよ…?』

そんな私に心底驚いた様子で男は眉を寄せた。

『いいんです…。私のせいで学校に迷惑はかけたくないです。それに……』

そう言いかけた私に男は続きを促すように

『それに……?』

と続けた。

『あんまり、人に知られたくないんです。ここに来たこと…。判っちゃうと気まずいっていうか…。
月曜に自然に戻りたいから、私、このままここで三泊四日しますから!』

私は男にそう宣言した。

『な!? 馬鹿言ってんじゃねえよ!!お前、さっきの俺の話聞いて無いのか?』

そう戸惑う男に私は今度は真っ直ぐに向き合った。

『大丈夫です。私、逞しいですから…。ワカメ男さんもどうか私の事は気にせず、体力が戻り次第、陸に戻って今度こそゆっくり休んで下さい。』

私は、そう言って立ち上がった。

『ちょ…誰がワカメ男だって、おい、どこに行こうっていうんだ?』

その問いに私は振り返って答えた。

『寝ます。地形も知識も無いのに夜動くのは危ないですから。
明日夜明けと共に食べるものは探します。』

そう言って私は、彼に笑顔を向けて、丁重に一礼して踵を返した。

その瞬間、月明かりの下、彼は一瞬固まって目を細めた。

次の瞬間、彼の声がかかった。

『馬鹿が…。どこに寝ようっていうんだ?』

そう聞かれて私は、岩場の下辺りを指差した。

『ん~、あそこにします。じゃあ、おやすみなさい。』

そう言ったはずなのに、何故か彼は岩場の下までついて来た。

『あの…、私、ここで寝ますから…。』

『そうらしいな…。』

そう言って男は、私の傍らに座り込んだ。

懐からウェットスーツから防水バッグを取り出した彼は、起用にその辺から集めた小枝や葉を集めて、
そこにライターで火をつけた。

『これで…獣も寄ってきにくいだろう…。』

心配して火をつけてから帰ろうとしてくれたワカメ男の優しさにジンときて、私は彼に微笑みかけた。

『ありがとうございます。この火、四日間大事にしますね。でも、火起こしとかじゃなくてライターなんですね』

私は何となく可笑しくて笑った。
笑って気付いた。

あんなに泣いてたのに、颯太の事忘れて必死にこれから四日間のサバイバル生活の算段をしているどこか逞し自分自身に。

恋だの失恋だの…
きっとそんなものは平和だからこそできる事なのかもしれない。

(これから4日生きる為に必死で生きてみよう。)

それで、忘れたり、変れたりする何かがあるかもしれないから…。

起こしてもらった力強い火を見つめながらそう思った。

炎に勇気がもらえるようで、この火をとてもあり難いと思った。

しばらくそこで暖をとっていたワカメ男さんは、立ち上がった。

『ちょっと待ってろ…… 動くんじゃねえぞ。』

そう言い残した彼は、この場を立ち去った。

まだ、帰るような物言いじゃなかったから、トイレだろうかと思いながら待っていた。

一時間くらい経過したころ、彼は戻ってきた。

その手には数本の少し古そうなペットボトルが数本と、使用済みらしき木炭があった。

ペットボトルの一本を先ほどのライターで底部分を焼いて筒状にした若布男さんは小石や砂をつめて使用済みの木炭を砕いていれて、どこから取り出したのかバンダナを二枚取り出して一枚を先ほどのペットボトルの一番上に詰め込んだ。

そしてもう一枚のバンダナをざっくり折りたたんで、邪魔になっていた髪をどけるように、ギュッと額に巻いた。それでもところどころ零れ落ちて着ているサラサラした髪の間から、初めて彼の目を垣間見た私は、その切れ長の涼しげ漆黒の瞳に一瞬目を見開いた。

(あ…… 全容は判らないけど、この人たぶん、凄く綺麗な顔してるんじゃないかな…。)

ふとそんな事を思った瞬間、憮然とした男にそのペットボトルを突きつけられた。

『ほら、これ持ってついて来い…』

そう言われて私は促されるままに、30M程さきの岩場に行った。

『あ…。水……』

岩の一部から水が吹き出ていた。

『一見綺麗だけど、このまま呑んじまうと明日から下痢と高熱だ…。』

これならそのまま飲めそうだと喉を鳴らしていた私は、その言葉に引き攣る。

『だから、それを通すんだ。』

そう言って、彼は私の手ごと、ペットボトルを水の出ているところまで運んだ。
そして、彼自身は、別のペットボトルで少しずつでてくる水を受けていた。

『すごい……』

彼に差し出された飲料水に私は目を見開いた。
ちゃんと呑める…。

結局彼はその日『帰らないんですか?』という私の問いかけを何度か忌々しく、聞き流して、『今日は疲れたからこのまま寝る』と言って、火の傍の岩に背を預けたまま夜を過ごした。

私は、そんな気配を僅かに感じながら、彼が見つけてきてくれたレジャーシートの上に眠らせてもらった。

『…ったく、警戒心があるのかないのか…。たいした女だな…。』

そんな呆れた男の声を夢見心地に聞いた気がした。

*******************

次の日の朝、若布男さんと私は、島の内部を歩いて食べれそうなものを探した。

目ぼしいものは見つからなくて、途中で出会った小さな蟹を持ち帰った。

その後、お手製のモリの様なものをつくった若布男さんの手ほどきを受けて、私は海にもぐった。

まるで石器時代にタイムスリップしたみたいだ。

某テレビ番組のようで少しだけテンションが上がった。

(人間も、こうして自然と向き合えば野性動物みたいなものなのかも…)

狩猟本能が呼び覚まされたかのように時が経つのも忘れて夢中になった。
最初はなかなか取れなかった。

でも、私は泳げない訳でもないし、もぐれない訳でもない。

この狩猟は私の性にあっていた。

(勝負は何事も一瞬だ。
チャンスを逃した者の負けなのだ。
だから、迷いは禁物なのだ。)

『えい…!!!』

静かに己を抑え、時が来た瞬間
渾身の殺気を込めて、私はその場にいた物体の正体を見破り、迷う事無くそれを突いた。
そして、更に深くもぐりそれを滑らないようにしっかりと捕獲して水面に出た。

『とったど~!!!!』

これはすごい達成感だ。
一度やってみたかった、某テレビ番組を真似たお決まりの雄たけびを見事に再現できているだろうか…?

そう言ってドヤ顔をする私を引き攣った顔で見つめるワカメ男さん。

『ざ…ざぶとんヒラメ…??』

信じられない様子でそう呟き、引き攣りながら絶句している彼に私は胸を張って頷いた。

その日の釣果は
私 ざぶとんヒラメ1匹、鯛(かなり大きめ)1匹、蟹中くらい2匹、うつぼ1匹
若布男さん 鯛(中くらい)一匹 

以上。

豪華な食事となりました。

ちなみにこの日も『帰らないんですか?』と問いかけた私に若布男さんは忌々しく答えた。

『負けたまま帰れるか…。明日はリベンジしてやるからな…。』

さすがトライアスロンのワカメ男さん!
負けず嫌いです。

(でも、申し訳ないですが、負けず嫌いなら、私も決して負けません。)

私も密かに連勝を目指して拳を握り締めた。


ちなみに次の日の釣果は
私、ざぶとんヒラメ2匹、鯛(少し小振り)3匹、うつぼ2匹、カレイ(中)3匹、蛸一匹
若布男さん うつぼ一匹 ハゼ一匹 

以上。
この日も豪華な食事になりました。

美味しい魚を頬張りながらこうして生きていく幸せもあるのかもと実感する。

それに対して苦虫を噛み潰したように、並んだ料理を口にするワカメ男さん。

『今日も、私の勝ちでしたね? でも、あっという間でした。明日は学園に帰れますし、若布男さんのお陰です。ありがとうございます。でも、結局帰らなくてよかったんですか?』

そう問いかける私に少しだけ嫌な顔をして、ワカメ男さんはボソッと答えた。

『まぁ、俺も途中から楽しくなっちまったからな…。』

そう言ってもらえた私も少しだけ嬉しくなって彼に向かって笑った。

『私も、なんだかんだ楽しかったですよ…。なんか、キャンプみたいで…。』

そう思った瞬間、過去キャンプや合宿をした日の最終日みたいだと思って少し物悲しさを感じた。

きっと、帰れる見込みができたからだ…。

その瞬間、私の心を少しだけ、颯太の事が過ぎった。

今までの懸命な時間が忘れさせてくれていた胸の痛み。私が明日から戻るのは、今までと同じ生活ではないのだ。

その時、不意に頭に大きな手の平を乗せられた。

いつに無く、心配するような優しい顔をしていた。

この人でもこんな顔するんだ。

『初めて会った時みたいな顔だな。……帰るのが辛いのか?』

その言葉に私は、一瞬肩を震わせて首を振った。

『そんな事ありません。ある意味リフレッシュできましたから、今度はしっかりトレーニングしなきゃ!空手の大会が近いんです。』

そうガッツポーズをとる私に、若布男さんは苦笑して『そうか…』と目を細めた。

燃える炎を二人で見つめていると、少しだけ前向きになれる気がした。

(私はきっと大丈夫…。今まで通りにやっていける。)

『この火…。消して帰らなきゃいけないんですよね。』

そう呟いた私に、若布男さんは、怪訝に眉を寄せた。

『そりゃそうだろ…。』

私は燃え盛る火を見つめた。

『何か、火っていいですよね。パワーもらえるっていうか。今日の記念に聖火みたいに持って帰れたらいいのに…』

そう言った瞬間、眠気に襲われて私は丸くなって横たわった。

『おやすみなさい…。ワカメ男さん。』

『まだ言うか…。怪力女…。』

『ん~、怪力女でもいいから、は今の私には禁句ですからね…』

そう言って私は心地よい夜風と満腹感と疲れで意識を手放した。

頬を触れられるような優しい温もりに包まれた。

『怪力も色気ないのも……いいと思うけどな。ちゃんとお前の良さに気付く男に惚れちまえよ…。…って…あれ?』

その夜、髪を梳かされる心地よさの中で穏やかな気持ちで眠ったように思う。
あれは現実だったのだろうか…。

***************

朝目を覚ますと、ワカメ男さんはいなかった。

そこにずっとあったはずの火は、まだ僅かな温もりを残したまま綺麗に消えていた。

その名残を呆然と眺めた後、私は立ち上がった。

『よし…。また頑張りますか!!』

こんな思いもかけない体験をしたせいだろうか。
私は、どこか憑き物が落ちたように、スッキリした気持ちで空を見上げた。

動物は動物らしく前に進もう。
くよくよ考えるより、今しなければならない事をしながら生きていくのだ!

***************

船で戻った私は、何食わぬ顔でシャワーを済ませて、2時間程遅れて授業に出た。
私の顔を見た瞬間、颯太はクシャっと顔を崩した気がした。

休憩時間になると、颯太は私の手を引いて、中庭に連れ出した。

『ちょ… 痛い…。何? やめてよ颯太… 』

怒った顔をした颯太は、私に詰め寄った。
颯太のこんな顔を見たのは何時振りだろう。

『どこ行ってたんだよ?どれだけ心配したと思ってるんだ??』

そう問い詰められた。

『どこって…。実家?』

そういった瞬間颯太は顔を歪ませて、私を睨みつけた。

『どうして… 何で嘘つくんだ? お前が実家に帰ったって聞いて、俺もお前を追いかけるようにして実家に戻った。だけど、お前帰ってなくて、電話もメールもでなくって…どれだけ俺が心配してたか判ってるのかよ?』

苦しげにそう言う颯太に違和感を感じて私はその手を振り払った。
私は敢えて少しだけ唇の端を上げて颯太と対峙した。

『もう… 私達子供じゃないから…。昔とは違うから、全部全部お互いに報告する必要なんてないから…。颯太だってそうしていいから…。』

私はそう言って、踵を返した。

『渚…。ちょっと待てよ…。お前、最近おかしいだろ??なぁ。』

そんな光景を生徒会室から、今朝まで一緒にいた人が目を細めて見ているなんてこのときの私に判るはずも無かった。

****************

『ねぇ、渚!!今日なんで遅れちゃったの、朝の生徒集会、すっごい見物だったのに。』
そう、ルームメイトの桜が興奮したように、私に語る。

『生徒集会?… あ、そう言えば今日、生徒会メンバーの交代式だったんだね』

中高一貫の我が学園の生徒会は、前生徒会の推薦と学園の生徒からの人気投票で決まる。
大抵、一人でやるものでもない性質から、過去多いのが、学園の人気グループのような憧れの的のような人達がグループ毎支援されて生徒会を任される事が多い。

そしてそんな人気グループとも言える歴代生徒会の中でも最大の人気を誇る現高等部2年のメンバーがこれから1年少しに渡る任期を受け持ち、受験に備える3年の途中で次のメンバーにその任を引き継ぎ、後方支援する。これが、我が学園の慣わしなのだ。



















































 






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