悪役令嬢の幸せは新月の晩に

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選定の儀5

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 キャアーッ、と誰かの絹を裂くような悲鳴が聞こえた。エレノアのものではない。おそらくは、選定の儀に出席している令嬢の誰かなのだろう。

 エレノアは体の側面に激しい衝撃を受け、気がつくと地面に伏していた。

 どうやらあのステッキで殴られ、倒れたらしい。
 殴られた場所であろう左肩に激しい痛みが走って我に返った。左肩だけではなく、倒れた時に打ち付けたらしい膝や右側の腕も酷く痛んだ。呻き声を上げそうになるのを唇を噛んで耐えた。

 思わず手の中のペンダントを握りしめる。ペンダントは殴られた衝撃でも飛ぶことなくエレノアの手の中に収まったまま、その冷たさを手のひらに伝えてくる。体の痛みよりも、ペンダントが無事であることにエレノアはホッと息を吐いた。

 しかし体は痛く、まともに動かせそうにない。折れているのかもしれない。けれど痛いのには慣れている。痛いのはいつかは終わることを知っている。


「な、何をなさっているのですか! 月の王よ!」

 オズワルドが慌てたように出てきて月の王を止めようとしていた。

「この者がエレノアです。月の王の花嫁です!」
「その女は駄目だ! その女から、同胞を殺したはぐれの臭いがプンプンする! ああ駄目だこの魔女め! この女だけは許さぬ……!」

 その声に、エレノアはハッと顔を上げる。
 ルカーシュと出会ったあの2年前の新月の晩、傷付いたルカーシュを追いかけていた吸血鬼の声。それはこの目の前でステッキを振り上げる月の王の声に間違いなかった。あの時は巨大なコウモリの姿を取っていたから今まで気が付かなかったのだろう。
 そしてエレノアは昨晩にルカーシュに血を吸われている。ほとんど分からない痕しかないが、同じ吸血鬼である月の王はその匂いを敏感に感じ取ったのだろう。

 月の王は眦を吊り上げ鋭い牙を剥き出しにする。裂けたように広がる口内は血のように赤い。吸血鬼は人ではないのだ。令嬢達にそう思わせ、恐怖が広がっていく。その場にいる令嬢はみな年若い箱入り娘ばかりである。これを見て動ける胆力のある者など誰もいない。

 月の王はその恐ろしい形相で止めようとするオズワルドを軽々と振り払った。

「ぐあぁッ!」
「オズワルド様!」

 人間よりも格段に力が強いのだ。オズワルド相手にはそれでも手加減したのだろうが、それでもかなりの距離を吹き飛ばされて転がり、庭園内の生垣へとぶつかる。倒れたオズワルドに召使いが駆け寄る。辺りの令嬢達は恐慌状態になり手近な令嬢同士で抱き合ったり、その場にしゃがみこんだりと、庭園は騒然としていた。


 エレノアへの先程の一撃は加減したというよりも、たまたま咄嗟にステッキを振り下ろしただけで、ろくに力を込めていなかったに違いない。彼が本気になればエレノアの体程度、柔らかくなったバターを切るよりも容易く切断できるに違いないのだから。

 その真っ赤な目は再度エレノアへと向けられる。殺意のこもる瞳。エレノアはそれを痛みで意識が混濁したままぼんやりと見つめていた。

「首を刎ねよ! 血を啜るにも相応しくない穢れた血の魔女め! その血は地面に撒き、その首は獣に食わせよ!」

 月の王の持つステッキの赤い石が光る。

 エレノアは今度こそ死を覚悟した。

 けれどどうせ死ぬのなら昨晩ルカーシュに血を吸わせた時に全て与えて死にたかった。

「いや……やだ……ルカ……」

 エレノアは激しく震え、手の中の冷たい珊瑚を握る。あの冷たい指をもう一度握りたかった。

 死に対して恐怖心はなく、いつか訪れる死は救いだとすら思っていたエレノアは、ここで初めて恐怖を感じた。
 死んでしまえばもうルカーシュに会えなくなってしまう。あの冷たい手でエレノアの髪を撫でてくれることも、ぶっきらぼうでたまに口が悪いけれど、きつい眦を少しだけ和らげて優しく話しかけてくれることもなくなってしまうのだ。死ぬことはエレノアからルカーシュが失われることでもあった。


「……ルカーシュ……!」


 エレノアはその名を呼んだ。ルカではなくルカーシュと。
 ルカーシュは名前を呼べと言ったのだ。どうしても辛くて耐えられなければ、名前を呼べと。助けてくれるのだと言った。
 

「ルカーシュ……助けて!」


 しかし待てどもルカーシュは来ない。

「ルカーシュ……? ふむ、それがあのはぐれの名か。だが、その名を呼んだところで来るはずはない」

 月の王はステッキを降ろしてニタリと笑った。

「先程……つい先程、我らに食ってかかってきた、そのはぐれの吸血鬼は始末したところだ」
「う……嘘……」
「嘘なものか。ふっ、よい余興だ……この余興の間だけは生かしてやろう。……あれを持て」

 月の王は守護吸血鬼に目配せをし、錆びた棒のような物を持って来させた。

「ほら、よく見えるようにしてやろう」

 月の王は倒れたままのエレノアの目の前にその棒を放った。ガラン、と金属が音を立てる。
 それは杭であった。片側は細く鋭利になっており、錆びているのかと思わせる赤茶色はツンと金臭い臭いを立てている。

「こ……れ……」

 しかし、その赤茶けた色は錆びではない。血が乾いた跡だと気がつき、エレノアはひゅっと息を呑んだ。

「ああ、この杭で心臓を貫き、核は完全に破壊した。どれほど強い吸血鬼であろうとも、核を壊せば消滅……つまりは死ぬ。残念だったな穢れた血の魔女よ。お前が通じたその男は既に死んでいる」

「いやああああぁぁ!!」

 エレノアは絶叫した。

 喉が裂け、血が出るほどに叫び、それでもその声はもうルカーシュには届かない。


 エレノアの意識は今度こそ暗転し、その心ごと闇へと飲み込まれていった。




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