さくらの名のもとに

ukon osumi

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第3話「秘密の交換」

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 「ねぇ、尚吾……願いごとって、叶うと思う?」
 教室のカーテンが風に揺れ、光の粒が床に踊る放課後。席に残った数人の気配が次第に薄れていく中、瑠璃はふとそんな問いを口にしていた。
 尚吾は隣の席で英語のノートを閉じ、少しだけ眉を動かした。
 「願いごと?」
 「うん。ほら、神社でとか、誕生日のろうそくに、とか」
 「んー……信じたことないかも。でも……君が信じるなら、僕も信じるかも」
 その言い方が、くすぐったくて、でも少し嬉しくて。瑠璃は笑ったふりをして、前髪をなぞるように指でとかした。ふたりの関係は穏やかに続いていて、毎日が緩やかに過ぎていく。それはとても幸せなことだとわかっているけれど、どこかでほんの少しだけ、何かを残したいと思った。
 「じゃあ、ちょっとだけ、秘密の願い事しない?」
 「秘密?」
 「うん。交換ノート、やろうよ。ふたりだけの。誰にも見せないやつ」
 尚吾は一瞬目を見開いたが、それからおどけたように笑った。
 「小学生のとき以来だな、交換ノート」
 「大人になってから始めるより、今の方が絶対いいよ」
 「そうかな?」
 「そう。だって、“願い”って、書いたときの気持ちが強いほど届くって言うし」
 尚吾はその言葉をじっと聞いていたが、やがて静かにうなずいた。
 「……わかった。やろう」
     
 その夜、瑠璃は引き出しの奥から使っていないノートを探した。文房具屋で衝動買いして眠っていた、小さな花柄の表紙。桜に似た淡い模様が散っていて、色合いも柔らかい。
 表紙の右下に、シールで小さな桜の花を貼った。その下に細いペンで「R&Sh」とだけ記す。それ以上の言葉は、必要ないと思った。
 初めのページには、こう書いた。
 >「願いごと、叶うと思う?
 >私はたぶん、信じたい側の人間なんだと思う。
 >でも誰にも見せたら叶わないって言うから、尚吾だけに書くね」
 続けて、今日の放課後のことや、尚吾がプリントを落としたのに気づかずにいた話、給食のデザートをこっそりもらっていた子のこと。取りとめのないことを書きながら、それでもどこか、“これでふたりだけの世界が始まった”という感覚が瑠璃の胸にあった。
 書き終えたページを軽く指先でなぞり、彼の手に渡る瞬間を思い浮かべると、頬がわずかに熱を帯びた。
     
 翌朝、教室で尚吾にそっとノートを渡すと、彼は「これ、やばいな」と言って口角を上げた。
 「何が?」
 「すごくうれしいのに、誰にも見せちゃいけないって、なんかもどかしい」
 「だから、いいんじゃん」
 ノートは彼の鞄に入れられ、それだけでふたりの間に秘密のやりとりが生まれた。手渡すタイミング、どのページまで書くか、名前のサインをどこに入れるか――そんなことでさえ、ふたりの会話は少しだけ増えた。
 その日から、交換ノートは週に何度か、ふたりの間を静かに行き来するようになった。
 尚吾は、ふだん口にしないようなことを綴っていた。家族の話、将来のこと、昔の夢。そして何より、“ふたりで過ごす時間が、かけがえない”という言葉。
 それを読んだとき、瑠璃はひとり部屋でノートを抱え、声に出さずに笑った。
     
 数日後の夜、ノートを書き終えた瑠璃が、ふと立ち上がった瞬間、引き出しの戸が開いたままになっていることに気づいた。そこへタイミング悪く、廊下から母の足音が聞こえてきた。
 (まずい)
 瑠璃は慌てて引き出しを閉め、ノートをブックカバーで包んで別の棚に差し込んだ。ノックと共に母の声がする。
 「瑠璃、明日の体操着、もう洗ってあるからね」
 「うん、ありがとう。今行くね」
 冷静を装って答えながら、心の中は少しだけざわついていた。たった一冊のノート。それなのに、その存在を知られることが、こんなにも焦りを生むとは思わなかった。
 でも――そう思って、瑠璃は自分の胸に手を当てた。
 (それだけ、大切になってたんだ)
 秘密を持つことは、嘘をつくことではない。
 ただ、大切にしたいものを守ること。
 そう思えた自分が、少し大人になったような気がした。
    
  その夜、ベッドに入っても、瑠璃はなかなか寝つけなかった。
 布団の中でじっと天井を見つめ、今日のやりとりを思い返していた。
 (“かけがえない”って言ってくれた)
 尚吾がノートに綴ったその言葉は、文字よりもずっと深く、胸に染みこんでいた。読み返すたびに温度が残るような、それでいて消えてしまいそうな不安定さもあった。
 (でも……だからこそ、書いておきたい)
 目を閉じても、思考は静まらず、ひとつの問いだけが何度も心の奥で繰り返された。
 “この気持ちは、どこへ行くんだろう?”
     
 翌日。
 瑠璃はノートにこう書いた。
 >「願いごとって、書くと現実になりそうで、でもちょっと怖くもなるね。
 >それでも、私は書くよ。だって、未来のどこかで忘れたくないって思った気持ちが、あるから」
 そしてそのページの余白に、小さな桜の絵を描いた。
 筆圧はやや弱く、けれどその輪郭ははっきりとしていた。色を塗ると、どこか尚吾の笑顔のように柔らかくなった。
 ノートは折を見て彼に手渡された。
 昼休み、廊下のすれ違いざまに、瑠璃は軽く肘で彼を小突いた。
 「ねえ、読むときは、ちゃんと静かな場所で読んで」
 「なんか、ちょっとした儀式みたいだな」
 尚吾は照れたように笑いながら、それでも真剣にノートを受け取った。
 “静かな場所で”という言葉に、彼がどこまで気づいているかはわからない。でも、瑠璃には確信があった。
 (このやりとりは、ただの交換じゃない)
 ふたりの中で交わされる言葉は、時間を超えて残る何かになる。そんな予感が、まだ輪郭を持たないまま、心の底で揺れていた。
     
 放課後。瑠璃は部屋に戻ると、いつものように制服を脱ぎ、軽くストレッチをしてから、勉強机の引き出しを開けた。
 ノートがそこにないのを確認して、ほっと息をつく。今は尚吾の手元にある。もう「見られてしまう」心配はない。でも、何かが引っかかっていた。
 (このノート、いつまで続けられるんだろう)
 別に終わらせたいわけじゃない。むしろ逆だ。
 続けたい。ずっと。卒業しても、大学に行っても、大人になっても。
 だけど――“いつまで”という問いは、未来への不安を連れてくる。
 (人の記憶って、どこまで残るんだろう)
 そんな思いが胸をよぎる。誰かと交わした言葉も、肌に触れた感覚も、全部ずっと持っていられたらいいのに。でも現実は、記憶はやがて薄れ、形も曖昧になる。
 その夜、瑠璃はノートのコピーを取った。
 誰にも言わず、誰にも見せず。小さな癖のように、内容を一文字ずつ写し取った。
 尚吾に嘘をついているわけではなかった。ただ、もし何かがあったとき、どこかでふたりの記録が残っていてほしい――そう願う気持ちがあった。
     
 日曜日、居間にいるとき、ふと母が声をかけてきた。
 「そういえば、机の引き出し開けっ放しだったけど、大丈夫だったの?」
 瑠璃の心臓が、跳ねた。
 「えっ、見たの?」
 「別に。ちょっと閉めただけよ。何か大事なものでも入ってた?」
 「ううん……別に」
 できるだけ自然に、笑顔で答えたつもりだった。でも声が少しだけ揺れていたことに、母が気づいたかどうかはわからない。
 その夜、瑠璃はノートを新しい封筒に入れ、部屋の本棚の奥、昔の絵本の間に挟んで隠した。少しだけ、鍵をかけたい気持ちだった。
     
 その後も、ノートのやりとりは続いた。
 ふたりだけの合図、ふたりだけのリズム。ふとした言葉や、ささいなできごとが、一冊のノートを介して少しずつ“記録”に変わっていった。
 あるページの片隅に尚吾がこう書いていた。
 >「未来の僕が、これを読んで笑ってくれたらいいな。
 >忘れてたら、それはそれでまた書き直せばいい。
 >でも、この気持ちは、今のうちに閉じ込めておくね」
 瑠璃はその言葉を読み、ページの余白に小さく返信を書いた。
 >「ありがとう。私は忘れたくない。
 >だから、あなたが忘れても大丈夫。私が覚えてるから」
 それはほんの数行のやりとりだったが、瑠璃にとって、それ以上のものだった。
 記憶よりも、ずっと確かなもの。
 言葉として、残るもの。
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