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第4話「夏の兆し」
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いつもの教室。窓際の席に座った尚吾は、ノートに目を落としながらも、自然と隣の気配を意識していた。
カーテンが風に膨らみ、日差しが床の上に模様を描く。うっすらと汗ばむ空気のなか、季節は確実に進んでいた。
机を挟んで座る瑠璃は、数学の問題集に鉛筆の先を走らせていた。時折止まって考え込む仕草は見慣れたものだが、最近の彼女にはそれとは異なる“沈黙”が混じっている気がしていた。
尚吾は声をかけるべきか迷ったが、結局何も言えなかった。
(言わなくても通じてる……そう思いたいだけか)
視線を戻す。文字が目に入っても、意味は頭に入らなかった。
中庭のベンチに座って、弁当のふたを開ける。陽の光を避けて木陰に陣取ったその場所は、ふたりにとっていつしか定位置のようになっていた。
「今日は、ちょっと味つけ変えてみたんだけど、どうかな」
「……うん、なんか優しい味。甘さ、いつもより控えめ?」
瑠璃は尚吾の弁当に視線を落としながら言った。
「味見してない。朝、ちょっと寝坊してさ」
「それでもちゃんと作ってるのがすごいよ」
尚吾がそう言うと、彼女は「ありがと」と小さく笑った。だが、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ、影のようなものが差したように見えた。
(今の、なんだったんだろう)
問いかけそうになった言葉は、また喉元で留まった。
放課後の図書室。
静まり返った空間の一角で、ふたりは並んで机に向かっていた。机上には読みかけの文庫と、交換ノート。
尚吾はページをめくる手を止めて、ふと隣の瑠璃を見た。彼女は頬杖をついたまま、視線を落としている。だが、見ているのは文字ではなさそうだった。
目は開いている。けれど、どこかに“飛んでいる”。
「……瑠璃」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「なに?」
「……いや、なんでもない」
瑠璃はまた笑ってみせた。けれどそれもまた、微かにひずんで見えた。
その晩の食卓で、母の陽子が味噌汁の椀を置きながらぽつりと言った。
「最近、あの子……考えごとが多くない?」
「……あの子って?」
「千草さんよ。ほら、こないだうちに来たときも、目がちょっと……ね」
尚吾は少し考えてから答えた。
「元気だよ。学校ではいつも通りだし」
「それならいいけどね。なんとなく、ちょっと影があるように見えたのよ」
尚吾は味噌汁を啜るふりをしながら、その言葉の意味を考えていた。
“影がある”――
それは、今日の彼女の笑顔のことを言っている気がした。
尚吾の部屋。
机の上に広げた交換ノートには、瑠璃の書いたページが開かれていた。
>「最近、知らない番号から着信があったの。誰かわからないから無視したけど、ちょっとだけ気味が悪かった。
>でも、こういうのって案外、誰かのいたずらだったりするんだよね。
>笑って済ませるために書いておく。ほんとに、何でもないといいなって」
その文を、尚吾は何度も読み返した。
“何でもない”と願う言葉のなかに、“何かがある”とわかってしまう感覚。
(笑って済ませられない気がする)
そう思いながらも、ノートに返す言葉が見つからなかった。
翌朝の登校路。
駅から続く坂道を並んで歩きながら、尚吾は何度か瑠璃に話しかけようとして、やめた。
「昨日の……ノートの話さ」
その言葉をやっと口にできたのは、校門が目前に迫ってからだった。
「電話のこと?」
瑠璃は振り返らず、前を見たまま言った。
「うん。なんか、気になって」
「……大丈夫だよ。ほんとに、ただの間違いだと思う」
尚吾は言葉を飲み込んだ。
本当に“それだけ”ならいい。でも、もし少しでも不安があるのなら、自分にもできることがあるんじゃないか――そう思っていた。
だけど、言えなかった。「守りたい」と思うほど、言葉が慎重になってしまうのが自分の悪い癖だ、と尚吾はわかっていた。
その日の昼休みも、中庭の定位置。
風が少し強く、木陰がわずかに揺れている。
「ねえ、知ってる?」
瑠璃が突然、話を変えた。
「カラスって、人の顔を覚えるんだって」
「……急にどうしたの?」
「いや、ふと思い出しただけ。前にさ、巣から雛を戻したでしょ?」
「ああ……あれ、春だったな」
「うん。あれから、あの通学路にカラスいると、なんとなく見られてる気がする」
冗談まじりの声だったけれど、その目は真剣だった。
「カラスって、言葉じゃなくて“気配”で伝え合うっていうじゃない?声じゃなくて、静けさみたいなもので」
尚吾は答えられなかった。
瑠璃の言う“静けさ”が、ただの比喩ではない気がした。
(春のあの日も、音が消えてた)
それはきっと偶然ではない。けれど、言葉にするには根拠が曖昧すぎて、結局「そうなんだ」としか返せなかった。
放課後。
帰り道、尚吾はふと立ち止まった。電柱の上に一羽のカラスが止まっていた。じっとこちらを見ているような錯覚。黒い目は感情を読ませないが、意識の芯だけを刺すような強さを持っていた。
(ほんとに、覚えてるんだとしたら……)
助けたことも、近づいたことも、すべて。
「尚吾?」
瑠璃の声で振り返る。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「……なんか、最近変だね」
「え?」
「自分のこと、じゃないよ。空気が、って意味」
瑠璃はそう言って、また前を向いた。尚吾は言葉を継げずに、ただその背を追いかけた。
その晩、尚吾は風呂上がりにリビングへ降りると、テレビを消した陽子がちょうどソファから立ち上がるところだった。
「お母さん、カラスって人の顔、ほんとに覚えるの?」
尚吾の問いに、陽子は「急にどうしたの」と笑ったが、すぐに答えた。
「うん、聞いたことあるわよ。研究でも証明されてるらしいし。なんか悪さされた人に執着するとか、逆に助けてもらったことも覚えてるとか」
「……じゃあ、ずっと見てるってことも?」
「かもね。なんかあるの?」
「いや、なんでもない。ありがとう」
尚吾はそれ以上聞かれないうちに階段を上った。
だが、心の中にはいくつもの“見えない視線”が貼りついたままだった。
夜、交換ノートを開く。
最後のページに瑠璃がこう書いていた。
>「最近ね、言葉じゃ伝わらないことが多い気がする。
>誰かといても、沈黙の方が確かだと思えるときがあるの。
>尚吾は、沈黙って怖い?」
尚吾はノートの上でしばらく手を止めた。
沈黙が怖いか、と聞かれれば、たぶん怖くはない。けれどその沈黙の中に“何か”が隠れていたら――それは、言葉よりも重たく、時に残酷にもなり得る。
尚吾は返事を書いた。
>「沈黙が怖いとは思わないけど、
>それが大切な人とのものなら、ちゃんとわかるようになりたい。
>たとえ、何も言わなくても」
それが、今の自分にできる精一杯だった。
カーテンが風に膨らみ、日差しが床の上に模様を描く。うっすらと汗ばむ空気のなか、季節は確実に進んでいた。
机を挟んで座る瑠璃は、数学の問題集に鉛筆の先を走らせていた。時折止まって考え込む仕草は見慣れたものだが、最近の彼女にはそれとは異なる“沈黙”が混じっている気がしていた。
尚吾は声をかけるべきか迷ったが、結局何も言えなかった。
(言わなくても通じてる……そう思いたいだけか)
視線を戻す。文字が目に入っても、意味は頭に入らなかった。
中庭のベンチに座って、弁当のふたを開ける。陽の光を避けて木陰に陣取ったその場所は、ふたりにとっていつしか定位置のようになっていた。
「今日は、ちょっと味つけ変えてみたんだけど、どうかな」
「……うん、なんか優しい味。甘さ、いつもより控えめ?」
瑠璃は尚吾の弁当に視線を落としながら言った。
「味見してない。朝、ちょっと寝坊してさ」
「それでもちゃんと作ってるのがすごいよ」
尚吾がそう言うと、彼女は「ありがと」と小さく笑った。だが、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ、影のようなものが差したように見えた。
(今の、なんだったんだろう)
問いかけそうになった言葉は、また喉元で留まった。
放課後の図書室。
静まり返った空間の一角で、ふたりは並んで机に向かっていた。机上には読みかけの文庫と、交換ノート。
尚吾はページをめくる手を止めて、ふと隣の瑠璃を見た。彼女は頬杖をついたまま、視線を落としている。だが、見ているのは文字ではなさそうだった。
目は開いている。けれど、どこかに“飛んでいる”。
「……瑠璃」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「なに?」
「……いや、なんでもない」
瑠璃はまた笑ってみせた。けれどそれもまた、微かにひずんで見えた。
その晩の食卓で、母の陽子が味噌汁の椀を置きながらぽつりと言った。
「最近、あの子……考えごとが多くない?」
「……あの子って?」
「千草さんよ。ほら、こないだうちに来たときも、目がちょっと……ね」
尚吾は少し考えてから答えた。
「元気だよ。学校ではいつも通りだし」
「それならいいけどね。なんとなく、ちょっと影があるように見えたのよ」
尚吾は味噌汁を啜るふりをしながら、その言葉の意味を考えていた。
“影がある”――
それは、今日の彼女の笑顔のことを言っている気がした。
尚吾の部屋。
机の上に広げた交換ノートには、瑠璃の書いたページが開かれていた。
>「最近、知らない番号から着信があったの。誰かわからないから無視したけど、ちょっとだけ気味が悪かった。
>でも、こういうのって案外、誰かのいたずらだったりするんだよね。
>笑って済ませるために書いておく。ほんとに、何でもないといいなって」
その文を、尚吾は何度も読み返した。
“何でもない”と願う言葉のなかに、“何かがある”とわかってしまう感覚。
(笑って済ませられない気がする)
そう思いながらも、ノートに返す言葉が見つからなかった。
翌朝の登校路。
駅から続く坂道を並んで歩きながら、尚吾は何度か瑠璃に話しかけようとして、やめた。
「昨日の……ノートの話さ」
その言葉をやっと口にできたのは、校門が目前に迫ってからだった。
「電話のこと?」
瑠璃は振り返らず、前を見たまま言った。
「うん。なんか、気になって」
「……大丈夫だよ。ほんとに、ただの間違いだと思う」
尚吾は言葉を飲み込んだ。
本当に“それだけ”ならいい。でも、もし少しでも不安があるのなら、自分にもできることがあるんじゃないか――そう思っていた。
だけど、言えなかった。「守りたい」と思うほど、言葉が慎重になってしまうのが自分の悪い癖だ、と尚吾はわかっていた。
その日の昼休みも、中庭の定位置。
風が少し強く、木陰がわずかに揺れている。
「ねえ、知ってる?」
瑠璃が突然、話を変えた。
「カラスって、人の顔を覚えるんだって」
「……急にどうしたの?」
「いや、ふと思い出しただけ。前にさ、巣から雛を戻したでしょ?」
「ああ……あれ、春だったな」
「うん。あれから、あの通学路にカラスいると、なんとなく見られてる気がする」
冗談まじりの声だったけれど、その目は真剣だった。
「カラスって、言葉じゃなくて“気配”で伝え合うっていうじゃない?声じゃなくて、静けさみたいなもので」
尚吾は答えられなかった。
瑠璃の言う“静けさ”が、ただの比喩ではない気がした。
(春のあの日も、音が消えてた)
それはきっと偶然ではない。けれど、言葉にするには根拠が曖昧すぎて、結局「そうなんだ」としか返せなかった。
放課後。
帰り道、尚吾はふと立ち止まった。電柱の上に一羽のカラスが止まっていた。じっとこちらを見ているような錯覚。黒い目は感情を読ませないが、意識の芯だけを刺すような強さを持っていた。
(ほんとに、覚えてるんだとしたら……)
助けたことも、近づいたことも、すべて。
「尚吾?」
瑠璃の声で振り返る。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「……なんか、最近変だね」
「え?」
「自分のこと、じゃないよ。空気が、って意味」
瑠璃はそう言って、また前を向いた。尚吾は言葉を継げずに、ただその背を追いかけた。
その晩、尚吾は風呂上がりにリビングへ降りると、テレビを消した陽子がちょうどソファから立ち上がるところだった。
「お母さん、カラスって人の顔、ほんとに覚えるの?」
尚吾の問いに、陽子は「急にどうしたの」と笑ったが、すぐに答えた。
「うん、聞いたことあるわよ。研究でも証明されてるらしいし。なんか悪さされた人に執着するとか、逆に助けてもらったことも覚えてるとか」
「……じゃあ、ずっと見てるってことも?」
「かもね。なんかあるの?」
「いや、なんでもない。ありがとう」
尚吾はそれ以上聞かれないうちに階段を上った。
だが、心の中にはいくつもの“見えない視線”が貼りついたままだった。
夜、交換ノートを開く。
最後のページに瑠璃がこう書いていた。
>「最近ね、言葉じゃ伝わらないことが多い気がする。
>誰かといても、沈黙の方が確かだと思えるときがあるの。
>尚吾は、沈黙って怖い?」
尚吾はノートの上でしばらく手を止めた。
沈黙が怖いか、と聞かれれば、たぶん怖くはない。けれどその沈黙の中に“何か”が隠れていたら――それは、言葉よりも重たく、時に残酷にもなり得る。
尚吾は返事を書いた。
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