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第6話「距離の中で」
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それはほんのわずかな変化だった。
会話は続いている。昼休みには並んで弁当を広げるし、放課後には同じ方向へ歩く。交換ノートも週に一度はやりとりしている。
けれど尚吾は、そこに以前のような“密度”が戻らないことを、どこかで確かに感じていた。
話しながらも、言葉が宙を滑っていく。
笑い合っても、その間にほんの一瞬、沈黙が混ざる。
瑠璃の目は、尚吾を見ていても、“奥”で何かを見ていた。
彼女は以前よりも柔らかく笑うようになっていたが、その笑顔の端が、どこか無理をしているように見えることがあった。
尚吾は、問いかけることをしなかった。
それが優しさだと思っていたし、きっと彼女も望んでいないだろうと感じていた。
夏休み前のある日。
文具店の棚の前で、尚吾は試し書き用の紙にペン先を走らせていた。
ブルーブラックの細字。交換ノートに使っていたインクがそろそろ切れる。
瑠璃が好んだ色だったのを思い出し、指先に一瞬、温度が戻る。
「それ、きれいな色。落ち着いてて」
声に驚いて振り向くと、年上の女性が立っていた。
白のカットソーと淡いグレーのスカート。柔らかく笑む口元。
匂い立つような“余裕”を纏っていて、それだけで大人の女性だとわかった。
「……はい。前から、ずっとこれ使ってて」
尚吾の答えに、彼女は少しだけ視線を深めた。
「桜の宮高校の子でしょ?たぶん見かけたことある。私、このへんの短大通ってるの」
「……そうなんですね」
「文具、好き?」
「まあ……少しだけ」
「そっか。なんか、そういう感じする」
“感じ”――その一言が、心の奥で微かに波紋を描いた。
そして、唐突に問いが来た。
「ねえ……彼女とか、いない?」
その一言に、心臓がほんの少し、跳ねた。
いないわけじゃない。いる。でも――言葉が出てこない。
(言えよ、ちゃんと……瑠璃がいるって)
そう思っても、口は動かなかった。
あの花火大会の夜。
来なかった彼女。説明を避けるような返事。
あの時から、どこかに生じた“距離”のことを思い出す。
「……」
尚吾が言葉を失ったまま視線を落とすと、彼女は笑った。
「うん、いないんだ。……」
それは確信を持った声だった。
哀れみでもなく、からかいでもなく。
ただ、経験則から導き出された静かな判断だった。
尚吾は、否定しなかった。できなかった。
女性は小さなポーチを開き、メモ帳の切れ端を一枚取り出すと、スラスラと数字を書き、ペンを置いた。
「よかったら。ほんと、無理にじゃなくて」
紙を差し出す手は穏やかで、無理強いの気配はなかった。
けれど、その落ち着いた仕草に、尚吾はどこか――吸い寄せられそうになる自分を感じた。
「……ありがとうございます」
そう答えてしまった自分に、どこか遠くで驚いていた。
瑠璃のことを考えていないわけじゃない。でも、こうして誰かに求められることが、今の自分には、少し――心地よかった。
その夜、ノートに“あったこと”を書くか迷ったが、結局やめた。
心が揺れなかったのは確かだ。けれど、瑠璃に話すことで、そのこと自体が“何かあった”ことになってしまう気がして。
風のない夜だった。
窓を閉めきった部屋に、鉛筆の音だけが響いていた。
(話せないことがあるのは、裏切りじゃない)
(でも、黙っているのは――守りたい気持ちだ)
その思考の奥に、彼女の言葉があった。
「全部を話せるわけじゃないんだと思う」
そう言った瑠璃の沈黙に、尚吾は今なら少し、寄り添える気がした。
数日後、リビングでの夕食。
テレビは音量を落として流れており、陽子は煮物の皿を並べながら、ふとつぶやいた。
「ねえ、あんた……最近、ちょっと変じゃない?」
「え、俺が?」
「なんかこう、頭のどこかが他のこと考えてる感じっていうか。いつもごはん食べながら上の空なんだもん」
「……そんなことないけど」
否定しながらも、言葉に力がなかった。
陽子は箸を置き、少しだけ尚吾の顔を覗き込んだ。
「瑠璃ちゃんと、何かあったの?」
「いや……何も。ほんとに、何も起きてない」
「でも、何も話してくれなくなったりしてない?」
尚吾は返事に迷った。
何も“起きていない”というのは事実だった。でも、“何も話してくれない”というのは、まさに今、自分が感じていることだった。
「……最近、何考えてるのか、ちょっとわからない」
その言葉は、自分でも意外なほど素直に出てきた。
「そう」
陽子はそれだけを言って、味噌汁をすする音に戻った。
追及も、慰めもなかった。ただ、母としての“受け止め”だけがそこにあった。
尚吾はその夜、机の引き出しから交換ノートを取り出した。
書こうとして、ペンが止まる。
伝えたいことはあった。
でも、“伝える”という行為が、今のふたりには慎重すぎるナイフのように思えて。
言葉を選び、ようやく短い一文を綴った。
>「沈黙も言葉になるような関係でいたい。
>それでも、不安になったら、ただ隣にいてもいい?」
書き終えても、気持ちは晴れなかった。
だが、それが今の自分にできる誠実さだと信じた。
会話は続いている。昼休みには並んで弁当を広げるし、放課後には同じ方向へ歩く。交換ノートも週に一度はやりとりしている。
けれど尚吾は、そこに以前のような“密度”が戻らないことを、どこかで確かに感じていた。
話しながらも、言葉が宙を滑っていく。
笑い合っても、その間にほんの一瞬、沈黙が混ざる。
瑠璃の目は、尚吾を見ていても、“奥”で何かを見ていた。
彼女は以前よりも柔らかく笑うようになっていたが、その笑顔の端が、どこか無理をしているように見えることがあった。
尚吾は、問いかけることをしなかった。
それが優しさだと思っていたし、きっと彼女も望んでいないだろうと感じていた。
夏休み前のある日。
文具店の棚の前で、尚吾は試し書き用の紙にペン先を走らせていた。
ブルーブラックの細字。交換ノートに使っていたインクがそろそろ切れる。
瑠璃が好んだ色だったのを思い出し、指先に一瞬、温度が戻る。
「それ、きれいな色。落ち着いてて」
声に驚いて振り向くと、年上の女性が立っていた。
白のカットソーと淡いグレーのスカート。柔らかく笑む口元。
匂い立つような“余裕”を纏っていて、それだけで大人の女性だとわかった。
「……はい。前から、ずっとこれ使ってて」
尚吾の答えに、彼女は少しだけ視線を深めた。
「桜の宮高校の子でしょ?たぶん見かけたことある。私、このへんの短大通ってるの」
「……そうなんですね」
「文具、好き?」
「まあ……少しだけ」
「そっか。なんか、そういう感じする」
“感じ”――その一言が、心の奥で微かに波紋を描いた。
そして、唐突に問いが来た。
「ねえ……彼女とか、いない?」
その一言に、心臓がほんの少し、跳ねた。
いないわけじゃない。いる。でも――言葉が出てこない。
(言えよ、ちゃんと……瑠璃がいるって)
そう思っても、口は動かなかった。
あの花火大会の夜。
来なかった彼女。説明を避けるような返事。
あの時から、どこかに生じた“距離”のことを思い出す。
「……」
尚吾が言葉を失ったまま視線を落とすと、彼女は笑った。
「うん、いないんだ。……」
それは確信を持った声だった。
哀れみでもなく、からかいでもなく。
ただ、経験則から導き出された静かな判断だった。
尚吾は、否定しなかった。できなかった。
女性は小さなポーチを開き、メモ帳の切れ端を一枚取り出すと、スラスラと数字を書き、ペンを置いた。
「よかったら。ほんと、無理にじゃなくて」
紙を差し出す手は穏やかで、無理強いの気配はなかった。
けれど、その落ち着いた仕草に、尚吾はどこか――吸い寄せられそうになる自分を感じた。
「……ありがとうございます」
そう答えてしまった自分に、どこか遠くで驚いていた。
瑠璃のことを考えていないわけじゃない。でも、こうして誰かに求められることが、今の自分には、少し――心地よかった。
その夜、ノートに“あったこと”を書くか迷ったが、結局やめた。
心が揺れなかったのは確かだ。けれど、瑠璃に話すことで、そのこと自体が“何かあった”ことになってしまう気がして。
風のない夜だった。
窓を閉めきった部屋に、鉛筆の音だけが響いていた。
(話せないことがあるのは、裏切りじゃない)
(でも、黙っているのは――守りたい気持ちだ)
その思考の奥に、彼女の言葉があった。
「全部を話せるわけじゃないんだと思う」
そう言った瑠璃の沈黙に、尚吾は今なら少し、寄り添える気がした。
数日後、リビングでの夕食。
テレビは音量を落として流れており、陽子は煮物の皿を並べながら、ふとつぶやいた。
「ねえ、あんた……最近、ちょっと変じゃない?」
「え、俺が?」
「なんかこう、頭のどこかが他のこと考えてる感じっていうか。いつもごはん食べながら上の空なんだもん」
「……そんなことないけど」
否定しながらも、言葉に力がなかった。
陽子は箸を置き、少しだけ尚吾の顔を覗き込んだ。
「瑠璃ちゃんと、何かあったの?」
「いや……何も。ほんとに、何も起きてない」
「でも、何も話してくれなくなったりしてない?」
尚吾は返事に迷った。
何も“起きていない”というのは事実だった。でも、“何も話してくれない”というのは、まさに今、自分が感じていることだった。
「……最近、何考えてるのか、ちょっとわからない」
その言葉は、自分でも意外なほど素直に出てきた。
「そう」
陽子はそれだけを言って、味噌汁をすする音に戻った。
追及も、慰めもなかった。ただ、母としての“受け止め”だけがそこにあった。
尚吾はその夜、机の引き出しから交換ノートを取り出した。
書こうとして、ペンが止まる。
伝えたいことはあった。
でも、“伝える”という行為が、今のふたりには慎重すぎるナイフのように思えて。
言葉を選び、ようやく短い一文を綴った。
>「沈黙も言葉になるような関係でいたい。
>それでも、不安になったら、ただ隣にいてもいい?」
書き終えても、気持ちは晴れなかった。
だが、それが今の自分にできる誠実さだと信じた。
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