さくらの名のもとに

ukon osumi

文字の大きさ
6 / 24

第6話「距離の中で」

しおりを挟む
 それはほんのわずかな変化だった。
 会話は続いている。昼休みには並んで弁当を広げるし、放課後には同じ方向へ歩く。交換ノートも週に一度はやりとりしている。
 けれど尚吾は、そこに以前のような“密度”が戻らないことを、どこかで確かに感じていた。
 話しながらも、言葉が宙を滑っていく。
 笑い合っても、その間にほんの一瞬、沈黙が混ざる。
 瑠璃の目は、尚吾を見ていても、“奥”で何かを見ていた。
 彼女は以前よりも柔らかく笑うようになっていたが、その笑顔の端が、どこか無理をしているように見えることがあった。
 尚吾は、問いかけることをしなかった。
 それが優しさだと思っていたし、きっと彼女も望んでいないだろうと感じていた。
     
 夏休み前のある日。
 文具店の棚の前で、尚吾は試し書き用の紙にペン先を走らせていた。
 ブルーブラックの細字。交換ノートに使っていたインクがそろそろ切れる。
 瑠璃が好んだ色だったのを思い出し、指先に一瞬、温度が戻る。
 「それ、きれいな色。落ち着いてて」
 声に驚いて振り向くと、年上の女性が立っていた。
 白のカットソーと淡いグレーのスカート。柔らかく笑む口元。
 匂い立つような“余裕”を纏っていて、それだけで大人の女性だとわかった。
 「……はい。前から、ずっとこれ使ってて」
 尚吾の答えに、彼女は少しだけ視線を深めた。
 「桜の宮高校の子でしょ?たぶん見かけたことある。私、このへんの短大通ってるの」
 「……そうなんですね」
 「文具、好き?」
 「まあ……少しだけ」
 「そっか。なんか、そういう感じする」
 “感じ”――その一言が、心の奥で微かに波紋を描いた。
 そして、唐突に問いが来た。
 「ねえ……彼女とか、いない?」
 その一言に、心臓がほんの少し、跳ねた。
 いないわけじゃない。いる。でも――言葉が出てこない。
 (言えよ、ちゃんと……瑠璃がいるって)
 そう思っても、口は動かなかった。
 あの花火大会の夜。
 来なかった彼女。説明を避けるような返事。
 あの時から、どこかに生じた“距離”のことを思い出す。
 「……」
 尚吾が言葉を失ったまま視線を落とすと、彼女は笑った。
 「うん、いないんだ。……」
 それは確信を持った声だった。
 哀れみでもなく、からかいでもなく。
 ただ、経験則から導き出された静かな判断だった。
 尚吾は、否定しなかった。できなかった。
 女性は小さなポーチを開き、メモ帳の切れ端を一枚取り出すと、スラスラと数字を書き、ペンを置いた。
 「よかったら。ほんと、無理にじゃなくて」
 紙を差し出す手は穏やかで、無理強いの気配はなかった。
 けれど、その落ち着いた仕草に、尚吾はどこか――吸い寄せられそうになる自分を感じた。
 「……ありがとうございます」
 そう答えてしまった自分に、どこか遠くで驚いていた。
 瑠璃のことを考えていないわけじゃない。でも、こうして誰かに求められることが、今の自分には、少し――心地よかった。
     
 その夜、ノートに“あったこと”を書くか迷ったが、結局やめた。
 心が揺れなかったのは確かだ。けれど、瑠璃に話すことで、そのこと自体が“何かあった”ことになってしまう気がして。
 風のない夜だった。
 窓を閉めきった部屋に、鉛筆の音だけが響いていた。
 (話せないことがあるのは、裏切りじゃない)
 (でも、黙っているのは――守りたい気持ちだ)
 その思考の奥に、彼女の言葉があった。
 「全部を話せるわけじゃないんだと思う」
 そう言った瑠璃の沈黙に、尚吾は今なら少し、寄り添える気がした。
     
 数日後、リビングでの夕食。
 テレビは音量を落として流れており、陽子は煮物の皿を並べながら、ふとつぶやいた。
 「ねえ、あんた……最近、ちょっと変じゃない?」
 「え、俺が?」
 「なんかこう、頭のどこかが他のこと考えてる感じっていうか。いつもごはん食べながら上の空なんだもん」
 「……そんなことないけど」
 否定しながらも、言葉に力がなかった。
 陽子は箸を置き、少しだけ尚吾の顔を覗き込んだ。
 「瑠璃ちゃんと、何かあったの?」
 「いや……何も。ほんとに、何も起きてない」
 「でも、何も話してくれなくなったりしてない?」
 尚吾は返事に迷った。
 何も“起きていない”というのは事実だった。でも、“何も話してくれない”というのは、まさに今、自分が感じていることだった。
 「……最近、何考えてるのか、ちょっとわからない」
 その言葉は、自分でも意外なほど素直に出てきた。
 「そう」
 陽子はそれだけを言って、味噌汁をすする音に戻った。
 追及も、慰めもなかった。ただ、母としての“受け止め”だけがそこにあった。
     
 尚吾はその夜、机の引き出しから交換ノートを取り出した。
 書こうとして、ペンが止まる。
 伝えたいことはあった。
 でも、“伝える”という行為が、今のふたりには慎重すぎるナイフのように思えて。
 言葉を選び、ようやく短い一文を綴った。
 >「沈黙も言葉になるような関係でいたい。
 >それでも、不安になったら、ただ隣にいてもいい?」
 書き終えても、気持ちは晴れなかった。
 だが、それが今の自分にできる誠実さだと信じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...