さくらの名のもとに

ukon osumi

文字の大きさ
7 / 24

第7話「未来の選択」

しおりを挟む
 未希の唇は、柔らかくて、少しだけ震えていた。
 触れた時間は短かったのに、なぜか心の奥がゆっくりとほどけていくのを感じた。
 ふいに手を取られたのは帰り道の交差点、人気のない路地。夕焼けが背中に差していた。
 「……いきなり、ごめんね」
 未希はそう言って笑った。声がわずかに上ずっていた。
 尚吾は何も言えずに、ただ頷いた。
 否定しようとして、でも体のどこかがそれを止めた。
 瑠璃のことが頭に浮かんだ。けれど、遠くの景色みたいにぼやけていた。
 交換ノートの更新は止まっていて、最近はまともに話せてもいない。
 自分でも、今がどういう関係なのか、はっきり言い切れなかった。
 未希とは偶然の出会いだった。
 未希とは偶然の出会いだった。
 文具店でボールペンを手に取って迷っていた尚吾に、未希が「それ、私も使ってる」と話しかけたのが最初だった。
 そこから何気ない会話が始まり、また会えたらいいなという空気のまま、自然と連絡先を交換した。
 彼女は二つ年上の大学生。自分の考えをしっかり持っていて、それでいて柔らかい。
 「尚吾くんって、真面目そうに見えて、ちょっと抜けてるところあるよね」
 からかうように笑う顔が好きだった。
 気を抜くと、その笑顔に引き込まれそうになる。
 それでも尚吾の中には、どこかに瑠璃がいた。
 けれど、その輪郭が曖昧になりつつあることに気づいていた。
 「いる」と言い切れない関係。だけど「いない」とも言えない。
 その宙ぶらりんが、未希のまっすぐさに比べて、あまりに不誠実だった。
 喫茶店のカウンター席。雨上がりの夕方。
 窓の外では水たまりに街灯が映っていた。
 未希はストローを指でくるくる回しながら、少しだけ声を潜めて言った。
 「……私、ひとりで浮かれてたらどうしようって、ちょっと思ってた」
 「尚吾くんは、私のこと、ちゃんと……好きでいてくれてる?」
 カップの中のコーヒーが波打ったように、尚吾の心も揺れた。
 言葉が喉まで出かかったが、どうしても続かなかった。
 (……好き、だと思う。でも――)
 瑠璃のことを、きちんと終わらせていない。
 未希の目を見て、尚吾はなんとか笑ってみせた。
 「……ごめん、今、うまく言葉にできない」
 そう答えるのが、精一杯だった。
 未希は一瞬だけまばたきし、それから小さく息を吐いた。
 「そっか。でも……その返事で、わかったよ」
 それがどういう意味なのかは、訊けなかった。
 未希はそれ以上言わず、ただ隣にいてくれた。
 そのぬくもりが、尚吾の心にゆっくりと入り込んでいく。
 桜の宮高校、三年生の春。
 進路の話が現実味を帯びてくる。尚吾は東京の大学を志望し、すでに模試の判定も受けていた。
 一方、瑠璃は地元に残るつもりでいる。
 互いにわかっていた。けれど、その話題は避けていた。
 言葉にすれば、距離が現実になる。
 ふたりの未来は、まだ“見ないふり”ができるほど脆かった。
     
  夜の食卓で、父・達彦が唐突に言った。
 「東京でも、うまくやれよ」
 尚吾が驚いて顔を上げると、達彦は箸を置いてテレビに目を戻していた。
 いつもと変わらぬ口調だったが、どこか寂しさがにじんでいた。
 母の陽子は、静かに味噌汁をすするだけだった。
 それでも尚吾は、どこかで背中を押されたような気がした。
 家の中で進路の話をすると、妙に現実味を帯びてくる。
 東京へ行く――その言葉が、ようやく口にできる場所に来ていた。
 次の日、瑠璃とすれ違った。
 下校の坂道、すれ違いざまに軽く目が合ったが、互いに言葉は交わさなかった。
 何もなかったような顔、それでも心は軋んでいた。
 (このまま、終わってしまうのかもしれない)
 そんな思いが一瞬、胸をよぎる。
 でも尚吾は、立ち止まらなかった。
 未希の存在が、彼を前へ進ませていた。
 文具店で出会ったあの日から、未希はいつも自然に心に入り込んできた。
 最初は軽い言葉だった。けれど、尚吾が言葉を失っているとき、彼女は笑って待ってくれた。
 「急がなくていいよ。ちゃんと気持ちが固まったらで」
 そんな言葉が、罪悪感すら優しく包んでいく。
 未希と会う時間が増えていくにつれ、尚吾は瑠璃への想いを“過去”として捉えようとしていた。
 あの笑顔も、交換ノートの中の手紙も、まるで昔の日記のように遠ざかっていく。
 だが、何も終わっていないことを、尚吾はどこかで知っていた。
 瑠璃の沈黙が何を意味していたのか。
 あの目の奥に、どんな言葉が閉じ込められていたのか。
 それを聞かずに前へ進もうとしている自分に、どこかで戸惑いがあった。
 「東京、行くんだよね」
 未希の声が耳に残っていた。
 そのとき彼女は、尚吾の手をそっと握った。
 「応援してる」
 そう言って笑った彼女の横顔を、尚吾は美しいと思った。
 ――けれどその笑顔の奥にあった影に、彼は気づいていなかった。
 決意は定まった。尚吾は東京行きを選ぶ。
 未来が確かに開けていくようでいて、
 一方で何かが静かに後ろで崩れ落ち

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...