さくらの名のもとに

ukon osumi

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第8話「ふたりの今」

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 未希の言葉は、やけに静かだった。
 「私、結婚するの。相手はね、うちの短大の先生」
 そう言って、カップを両手で包んだまま微笑んだ。
 薄く色づいた唇にかすかな震えが見えたが、それ以上の動揺は見せなかった。
 駅前の喫茶店。窓際の席からは、まだ冷たい陽の光が歩道に落ちていた。
 早春の風が、ショーウィンドウの飾りをかすかに揺らす。
 誰もいない昼下がりの空気が、時間を遅くしていた。
 尚吾は、目の前のマグカップに視線を落としたまま、返す言葉を探していた。
 結婚という二文字が、喉の奥で引っかかっていた。
 「……急な話だったんですか?」
 ようやく絞り出した声は、思ったより冷静だった。
 未希は目を細めて、少しだけ笑った。
 「うん。親が急に言い出して。見合いみたいな感じかな。先生の方は、うちの親と昔から知り合いだったみたい」
 言葉の端々に強がりが混じっていた。
 尚吾はそれを理解しながらも、うまく拾えなかった。
 「……君の気持ちは?」
 その問いに、未希はふっと眉を下げて、カップに口を寄せた。
 「……私は、ちゃんと好きだったよ」
 それは過去形だった。
 けれど、感情はまだ残っていた。未希の目がそれを語っていた。
 「でも、これで良かったのかもしれない」
 「だって、私ばっかりだったから。いつも、手を伸ばすのは私で、尚吾くんは……少しだけ遠くにいた」
 静かに言われたその言葉に、尚吾は息を呑んだ。
 何も反論できなかった。
 確かに、彼女の言う通りだった。
 瑠璃の存在がいつも心のどこかにあって、未希と向き合うたびに、その影を無理に押し込めていた。
 「無理してくれてたよね。ありがとう」
 その一言で、何かがほどけるように消えていった。
 未希は立ち上がると、コートのボタンを留めながら小さく笑った。
 「忘れないよ、尚吾くんのこと。たぶん、ずっと」
 そう言って背を向けた彼女の後ろ姿が、夕方の光に染まってゆっくり遠ざかっていった。
    
 家に戻ると、玄関先に母・陽子の靴と、買い物袋が無造作に置かれていた。
 「おかえりー」と声がして、台所から湯気がのぼっている。
 「あら、もう帰ったの? 今日は早いのね」
 陽子は手を拭きながら振り返った。
 「……うん。ちょっと、いろいろあって」
 尚吾が答えると、陽子はそれ以上は何も聞かなかった。
 その優しさが、逆に胸に響いた。
 夜、部屋で机に向かいながら、スマホのアルバムを開いた。
 瑠璃との交換ノートの写真。
 いくつかは手書きで写したものもあったが、最近は更新されていない。
 いつのまにか、あのやりとりが止まってしまったことに、今さらながら気づく。
 文面の中の瑠璃は、いつも柔らかく、時に不安げで、でも尚吾のことを信じていた。
 (もう一度、ちゃんと話さないと)
 思えば、あの時のすれ違いから何も解決していない。
 瑠璃の沈黙も、不安げな目も、すべて見て見ぬふりをしていた。
 春が近い。卒業式まで、もう時間は残されていない。
    
 約束もしていないのに、駅前の喫茶店で尚吾はひとり座っていた。
 瑠璃がこの場所を覚えていてくれる気がした。
 何年も前から、ふたりが偶然何度も出会った、あの交差点の先。
 カップの中のコーヒーが冷めかけた頃、ドアのベルが鳴った。
 瑠璃だった。
 制服のまま、少し肩をすぼめて立っていた。
 目が合うと、ゆっくりと微笑んだ。
 何も言わずに、尚吾は手を挙げて、隣の席を指した。
 瑠璃は頷いて、黙って腰を下ろす。
 言葉はなかった。けれど、その沈黙に、かつての心地よさが微かに戻ってきた気がした。
「元気だった?」
 ようやく口を開いた尚吾の声に、瑠璃は軽く頷いた。
 「うん、まあね」
 それだけだった。
 言葉は続かなかったが、尚吾は焦らなかった。
 目の前の彼女は、どこか柔らかくなっていた。
 けれど、その笑顔の奥に、やはりどこか翳りがあった。
 「最近、交換ノート……」
 尚吾が言いかけると、瑠璃は少し視線を伏せた。
 そして、テーブルの上に視線を落としたまま、そっと言った。
 「……書けなかったの。何て書いていいのか、分からなくなって」
 尚吾は、静かにその言葉を受け止めた。
 責める気持ちはなかった。
 ただ、瑠璃がそう感じていたことに、自分がもっと早く気づくべきだったと思った。
 「俺も、少し……離れてたから」
 それが、未希とのことを暗に含んでいることは言わなかった。
 言う資格もなかった。
 瑠璃はふっと微笑んで、小さく呼吸をついた。
 「でも、今は大丈夫。……少し、書きたくなったから」
 その言葉に、尚吾の胸がかすかに震えた。
 まるで、一度枯れた花がまた芽吹くように、ふたりの時間が静かに動き始めた気がした。
 「春、もうすぐだね」
 「そうだな。……卒業か」
 その一言に、ふたりはふっと同時に目を伏せた。
 未来に目を向けることが、少しだけ怖い。
 同じ教室で、同じ風景を見てきた日々が、もうすぐ終わる。
 それを言葉にすると、どこか本当に終わってしまいそうだった。
 「東京、行くんだよね?」
 瑠璃の声が震えていなかったのが、かえって切なかった。
 尚吾は頷く。
 「うん。決めた。行って……ちゃんと頑張ろうと思う」
 「そっか……」
 また沈黙が落ちる。
 けれど、その沈黙はもう、ふたりを離すものではなかった。
 「……瑠璃は?」
 「私は地元にいるよ。……ここを離れる気にはなれなくて」
 尚吾は、彼女の言葉の“本当の意味”を測れずにいた。
 けれど、それでも心の奥に何かが残った。
 瑠璃は何かを隠している――そう感じた。
 けれど、それを問い詰めることはできなかった。
    
 千草家のキッチン。夜、食器を片付けながら、母の静江がぽつりとつぶやいた。
 「この春、何かが終わっちゃう気がするの。……変な予感だけどね」
 手にしたマグカップを洗いながら、静江はふと手を止めた。
 その指先が、わずかに震えていた。
 「……あの子、最近、夢を見ているような目をしてるのよ。前にも見たことのないような」
 それが、母としての直感であることを、静江は自分でも分かっていた。
 ただの不安ではない。何かが、瑠璃の中で決まりかけている。
 その“何か”が、自分の手の届かない場所にあるような気がしてならなかった。
    
 夜のベッドで、尚吾は天井を見上げていた。
 未希との思い出が頭の隅に浮かび、すぐに瑠璃の横顔にすり替わる。
 それが、今の自分にとっての真実だった。
 (きっと、これからいろんな人に会って、いろんな景色を見るんだろう)
 (でも、忘れたくないものが、確かにここにある)
 瑠璃と出会い、時間を重ね、迷い、すれ違い、それでもまた少しだけ心が寄った。
 その全部が、今の自分を形づくっている。
 ただの“高校の思い出”にはしたくなかった。
 そして尚吾は、まだ知らない。
 瑠璃が、あの石の下で「尚吾を守る」決意をしたことを。
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