さくらの名のもとに

ukon osumi

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第11話「誰にも見えない石」

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 三月十一日。風はまだ冷たく、空は雲ひとつない。
 尚吾はその朝、実家の玄関でコートの襟を立てながら、ふと小さく息をついた。三年目の春。もう三度目になるというのに、歩き慣れた道の途中で胸がざわつくのは変わらなかった。
 「今年は、どうだろうな……」
 誰にともなく呟いた声が、空へと吸い込まれていった。
     
 桜の宮高校の校門は、日曜日のせいかひっそりと静まり返っていた。職員室の明かりだけがぽつりと灯り、門扉の横には「来訪者は事務室まで」の立て札が寂しげにぶら下がっている。
 尚吾は視線を落としながら、そのまま門をくぐった。卒業生だからこそ、ここに来る資格はあると思いたかった。あの桜が、今もそこに立っている限り。
 構内の空気は、確かに春の匂いを孕んでいた。部室棟の影を抜けると、例の場所が見える。校庭の隅、体育倉庫の裏手にひっそりと佇む桜の木。
 今年は、咲き始めていた。
 花びらが、風にふわりと舞い、地面に落ちていく。まだ満開ではないものの、ところどころに膨らんだ蕾と白い花が点々と咲いていた。その光景に、尚吾は少しだけ救われたような気持ちになった。
 「……瑠璃」
 名前を呼んでみても、返事はない。分かっていた。それでも、名前を口にすることが、存在をつなぎ止める唯一の手段のように思えた。
 ベンチも何もない校庭の片隅で、尚吾はしばらく木を見上げていた。すると、ふと視線の先――桜の根元に、何かがあることに気づいた。
 石だった。
 いや、“石碑”と呼んだ方が近い。だが墓石や記念碑のような重厚さはなく、どこか不自然にそこだけが濡れたように黒々としていた。しかも――。
 「……こんなの、あったか?」
 尚吾は数秒、その場に立ち尽くした。過去の記憶を辿っても、桜の根元には、こんな石などなかった。高校三年間、毎年同じ場所に立ち続けたこの木のそばに、そんなものがあれば、気づかないはずがない。
 石の表面には、かすかに文字が刻まれていた。苔むしているわけではないのに、文字は読みづらく、しかし確かにこう書かれていた。
 > 「願いの石」
 思わず息を呑んだ。悪戯か、あるいは何かの記念碑なのか。だが、こんな物を設置する理由も、意味も思い当たらなかった。
 尚吾はゆっくりとしゃがみ込み、指先でその石に触れてみた。
 冷たくない。
 むしろ、かすかに温かい。いや、温かいというより――脈打っているような、奇妙な感触があった。手のひらに伝わる鼓動。自分のものとは明らかに異なるリズムで、石の奥からかすかな震えが感じられる。
 ぞくりと背筋を冷たいものが這い上がった。
 「……何なんだ、これ……」
 すぐに手を離し、立ち上がった。鼓動の感覚は消えたが、掌に妙な温もりが残っている。それは生き物に触れたあとの感覚と似ていた。
     
 その日の午後、尚吾は地元の図書館に立ち寄った。郷土資料の棚を探し、古地図や学校の沿革などを引っ張り出して確認してみたが、校庭に石碑が建てられた記録など、どこにも見当たらなかった。
 それどころか、何十年も前の写真に写る桜の根元には、やはり何もなかった。
 翌日、尚吾は確かめずにはいられなかった。
 ――自分だけが、見たものなのか。それとも、本当にそこにあったのか。
 再び桜の宮高校へ向かう。門の横を通ると、体育教師らしき人物とすれ違ったが、特に咎められることはなかった。桜の木は、昨日と同じように校庭の隅で風に揺れていた。そしてその根元には、やはり“石”があった。
 黒く濡れたような表面。刻まれた文字、「願いの石」。触れた時の、あのかすかな鼓動。
 尚吾はもう一度しゃがみ、石に触れた。温度も、鼓動も、昨日と同じだった。それは夢や幻ではなかった――はずなのに、誰も知らないという事実の方が、現実を疑わせてくる。
 その足で尚吾は、地元の文房具店「青海堂」に向かった。小学校の頃から通っていた店で、万年筆や画材を買うたびに顔を出していた場所だ。
 カウンターの奥にいたのは、店主の達彦(たつひこ)さんだった。父の高校時代の同級生で、還暦を過ぎた今でも背筋がまっすぐで、渋い声が印象的な人物だ。尚吾の顔を見るなり、目尻を下げた。
 「おう、尚吾くん。久しぶりだな。大学生活はどうだ?」
 「うん、まあ、なんとか。……達彦さんに、ちょっと訊きたいことがあって」
 尚吾は小さな文机に腰掛け、昨日の出来事をゆっくりと説明した。桜の根元にあった石のこと、「願いの石」と刻まれていたこと、触れたときの奇妙な感触のこと――できるだけ客観的に、熱を抑えるように語ったつもりだった。
 達彦は最初、冗談でも聞いているような顔をしていたが、途中から真顔になり、腕を組んだ。
 「……それ、今年になって急に現れたってことか?」
 「うん。少なくとも、俺は去年も一昨年も、そこに立ってた。でも、石なんてなかった」
 「“願いの石”かあ……聞いたことねぇなあ。地元の話に、そんな名前のものはなかったと思うぞ。あそこに記念碑が建ったって話も聞いてないし」
 達彦は眼鏡を押し上げ、店の奥の書棚をぼんやりと見つめた。
 「ただな……うちの親父が昔、桜の木には“精”が宿るって、よく言ってたんだよ。祠がなくても、あの木だけは妙に人を惹きつけるって」
 「それ、迷信とか、そういうのじゃなくて?」
 「さあな。でも、お前が見た石が、ほんとにそこにあるのか――俺が見たら見えるのかどうか、行ってみないと分からんな」
 尚吾は少し躊躇ったが、結局言葉を飲み込んだ。達彦さんを連れて行く気にはなれなかった。あの石は――たぶん、自分にしか見えないものなのだという気がしてきたからだ。
     
 その夜、尚吾は自室でノートを開いていた。机の上には、大学で使っているルーズリーフや教科書が積まれているが、今夜の彼に必要だったのは白紙のページだった。
 〈願いの石〉
 〈桜の根元〉
 〈温度、鼓動のような震え〉
 〈誰にも見えない〉
 箇条書きにしながら、自分の体験を記録していく。冷静に、客観的に、と自分に言い聞かせながらも、手はわずかに震えていた。
 ――あの石は、なんなんだ。
 ただの幻覚にしては、あまりに生々しい。悪戯なら、なぜ誰も知らないのか。そもそも、「願いの石」とは何を意味しているのか。
 ページを埋めながら、尚吾はふと一つの可能性に思い至った。
 「……瑠璃、なのか?」
 彼女が来なかったあの春。そして、その翌年も。その理由は、どこにもなかった。連絡も、痕跡も。
 だけど――もし、あの石と瑠璃が繋がっているのだとしたら?
 「助けてくれって……ことか? ……いや、違う。伝えたい、何かが?」
 独り言が止まらなくなる。ノートの余白が急に足りなくなる気がして、尚吾はペンを止めた。
 部屋の窓の外、夜風に枝が揺れる音がした。
     
 翌日、尚吾は再び桜の木のもとに立った。朝の校庭には、誰もいない。桜は昨日よりもさらに花を咲かせていた。
 石は、そこにあった。
 やはり、誰にも気づかれていないようだった。触れれば、相変わらず、あの脈打つ温もりを感じる。
 尚吾は静かに言葉を置いた。
 「……お前は、なんなんだ」
 答えはなかった。だが、その沈黙に、確かに何かが“応えて”いるような気がした。
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