〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第四篇 ― 黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―

ukon osumi

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第三章「火の底から来たもの」

第二話「魂移しの水盆」

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 夜の気配が川辺を濃く染めていく中、榊原新右衛門は道明とともに、小高い土手の上に立っていた。
 川面には風ひとつなく、どこか不自然な静寂が広がっていた。町の喧噪は遠く、ここだけが切り離された異界のようだった。
 その中心に据えられたのが、銅製の丸い水盆。水面には一点の波紋もなく、鏡のように空を映していた。
「……火に宿るものを断ち切るには、水を媒介にせねばならん」
 道明は呟くように言いながら、水盆の周囲に霊符を八方に配していく。
「この水は、山から汲み上げた“清めの水”だ。地と火の穢れを払うには、天の気を映す水が必要なのだ」
 新右衛門は、手にした灯籠をじっと見つめた。先ほどまで仁兵衛の声を宿していた灯籠。今は火も消え、紙の端が焦げているだけのように見える。
 だが、そこにまだ残滓がある。
「おはるの身体に宿ろうとしていた霊……あれも火を通じて来たのか」
「その通りだ」
 道明は霊符の一枚に指をかざすと、低く呪を唱え始めた。水面が、ふっと揺らぐ。
「火は魂を照らす。だが同時に、呼び込む。あの娘は“灯籠を作る者”としての縁を通じて、父の魂と繋がってしまった」
 おせんが新右衛門の後ろに立ち、静かに見守っていた。
「……おはるは今、川辺の納屋で眠ってる。けど、時々うなされてる。『灯籠を作らなきゃ』って、夢の中で呟いてた」
 新右衛門は唇を引き結んだ。
「このままでは、また魂が囚われる。道明、儀式を早く……」
「わかっている」
 道明は一際長い呪を口にし、水盆の表面に紙片をそっと浮かべた。
 それは、灯籠から切り取った薄紙。
 そこに書かれていた名が、水面に映る月光の中に溶け込むと、水盆の中央から淡い光が立ち昇った。
「始まった……」
 道明の指が素早く動き、周囲の霊符が微かに光を放ち始める。水盆の光が次第に強まり、まるで底のない井戸のように、周囲の気を吸い込んでいく。
「今、火の気をここに封じる。その間に灯籠を一つずつ、“無火”にする必要がある」
 新右衛門は頷き、灯籠を慎重に手に取った。
 火のない灯籠は軽く、まるで中身の抜けた骸のようだった。それでも、焦げた痕には微かな霊気が残っている。
「火を抜く。気を残さず、浄化する」
 道明の声が小さく響いたときだった。
 おせんが、何かに気づいたように振り返った。
「──おはるが、立ってる」
 納屋にいたはずのおはるが、土手の下にいつの間にか現れていた。
 白い足袋のまま、地面に立ち、無言でこちらを見つめている。
「道明! 儀式はまだ途中だろう!」
 新右衛門が声を上げたが、道明は水盆から目を離さずに答えた。
「動くな、今は結界が不安定だ。霊が“抜け道”を探している」
 おはるの身体が、ぎくりと動いた。
 その動きは人間のそれではなかった。関節がわずかに逆の方向に曲がり、瞳が空ろなまま。
「……父さま……待って……」
 その声に、おせんが震える声で呟いた。
「……入ってる。もう、半分……」
 おはるの身体に、何かが入り込もうとしていた。

 おはるの身体が土手をゆっくりと上ってくる。その足取りは異様なまでに静かで、まるで足音を殺しているようだった。
 新右衛門は焔陰の柄に手をかけながら、一歩、前へと出た。
「止まれ、おはる。おまえの意志でここに来たのなら、返事をしろ」
 だが、返ってきたのは微かな呻きだけだった。
 おせんが低く告げた。「あれはもう、おはるじゃない。完全に入り込まれる前に……」
「……やるしかないか」
 だがその刹那、水盆の光が急激に強まった。道明が声を張り上げる。
「今、霊を引き離す。新右衛門、焔陰で魂の道を斬れ!」
 新右衛門は地面を蹴り、おはるに向かって飛び込んだ。焔陰の刃を抜き放ち、火の霊気と重なる身体を真一文字に薙ぐ。
 斬撃は、肉体を傷つけない。刃が通り抜けた瞬間、おはるの身体が大きく仰け反り、口から白い息を噴き上げた。
 その白息は霧のように空中に留まり、一瞬、人の顔を形作った。それは、焦げた顔の男──仁兵衛の霊だった。
「……まだ……終わって……ない……」
 その囁きと共に、白霧は水盆に吸い込まれていった。
 水面が黒く沈み込み、そこに一筋の赤い光が走る。道明が立てた霊符が、一つ、また一つと燃え上がった。
「封じるぞ──!」
 道明が呪を紡ぎ、水盆の中央に金の護符を落とした。瞬間、水が弾けるように飛び散り、夜空へ火の粉が舞った。
 風が吹き、霊の気配が音もなく消えていった。
 おはるは、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。新右衛門がすぐに駆け寄り、身体を支える。
「……お前は、もう大丈夫だ。父の声から、離れた」
 おはるの瞳が微かに揺れた。「……わたし……何を……」
「全部、終わったわけじゃない。でも、もう呪いに操られることはない」
 道明が水盆の横に座り込み、深く息を吐いた。「まったく……命を削る仕事だ」
 おせんが微笑を浮かべる。「でも、見えたでしょ。最後に、仁兵衛さん、笑ってた」
 道明は霊符の残骸を拾い上げた。「……あれは未練じゃない。感謝だったな。魂が導かれた証拠だ」
 川辺には、静かな夜が戻っていた。
 新右衛門はおはるの肩を支えながら、土手を見下ろした。
 風に揺れる草。燃え残りの灯籠。
 そして、まだ消え残った火の痕跡が、ほんのりと川面を照らしていた。
「まだ……いくつか残ってるな」
 道明が頷く。「次は、“呼ばれた者たち”の灯籠を見つけなければならん」
 おせんが遠くを見やった。「声を上げられなかった者。忘れられた名前。……あたし、それを見つけてみせる」
 新右衛門は静かに焔陰を鞘に戻した。
「魂を送る。それが俺たちの役目だ」
 夜が明けようとしていた。
 空がわずかに白み、川面に映る影が、淡く、やさしく揺れていた。
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