〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第四篇 ― 黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―

ukon osumi

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第三章「火の底から来たもの」

第三話「父を呼ぶ娘」

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 川辺の草むらに、夜の風がざわめきをもたらしていた。
 榊原新右衛門は、おはるの様子をじっと見守っていた。
 儀式ののち、しばし安静にしていたおはるだったが、再び不穏な兆しを見せ始めていた。
 眠っていたかと思えば、突然起き上がり、灯籠に手を伸ばし、「火が呼んでる……」と呟くのだ。
 今宵もまた、そんなふうに彼女は夢うつつのまま、納屋から出て川辺へと向かっていた。
 おせんと道明と共に、新右衛門はその後を追っていた。
 おはるの足取りは、まるで誰かに導かれているかのように迷いがなかった。
「火が……火の中に、お父っつぁんの顔があるの……」
 おはるはか細い声で呟いた。
 その姿は、まるで霊に身体を借りられているようでもあり、幼い子が父を呼んでいるようでもあった。
 新右衛門は、焔陰の柄にそっと手をかけた。
「まだ、斬る時じゃない」
 おせんの声が、風の中に溶けるように届いた。
 新右衛門は頷きながらも、すでに焔陰の重みを左腰に感じていた。あの儀式以来、刃は静かに、しかし確かに反応を示していた。
 道明が、立ち止まり呟いた。
「見えるか? 火の揺らぎ。……あれは、ただの風ではない」
 おせんが瞬きもせずに灯籠を凝視した。
「いる。火の奥に、誰かが見てる。……焼けただれた顔。睨んでいる、でも……娘を見守る目でもある」
「仁兵衛……」
 新右衛門は声を落とした。
 かつて灯籠一筋に生き、その命までをも灯籠に捧げた男。
 その魂が、いまだ火に縛られている。
「道明……奴は、まだ何を望んでいる」
「恐らく、自分の死が納得できていない。火に包まれて、家と名と娘を残して逝った。……だがその火が、未だに灯っている。誰かに見届けてほしいと願っているのだろう」
 おはるが、膝をついて灯籠の前に座り込む。
「お父っつぁん……ずっと、探してたの……怖かった……寒かった……」
 その声に、新右衛門の胸が締めつけられた。
 霊が娘を通じて語るのではなく、娘の中の記憶が、想いが、霊を呼び寄せている──そう感じた。
「だが、このままではまた囚われる。おはる自身が“火”になってしまう」
 道明の声には焦燥が滲んでいた。
「ならば、俺が斬る」
 新右衛門は、焔陰を引き抜いた。
 短刀の刃は月明かりを受け、静かに輝く。
「……斬ることでしか、送れぬ魂もある」
 だが、そのときだった。
 灯籠の火が、一際高く燃え上がった。
 中から浮かび上がったのは、確かに人の顔──仁兵衛だった。
 その顔は、悲しみに濡れ、怒りに歪み、それでもおはるを見つめていた。
 おはるが涙を流しながら叫ぶ。
「斬って……! でも、忘れないで!」
 その言葉に、新右衛門は震える手で焔陰を下ろした。
「……まだ、時ではない。だが、必ず」

 おはるの叫びは、夜気を裂くように響いた。
「斬って……! でも、忘れないで!」
 その一言に、新右衛門の手が震えた。焔陰の刃先が揺れ、炎のような影が地に落ちる。
「忘れぬさ」
 その言葉を胸中で呟きながら、新右衛門は刃を収めた。
 火の中に浮かぶ仁兵衛の顔が、悲しみに濡れながらも、どこか安堵の色を滲ませる。
 それはまるで、娘の口から願いが語られたことで、何かが解けたかのようだった。
 道明がすっと前に出ると、再び霊符を手にし、灯籠の周囲に結界を組むように配置した。
「この場は、既に“狭間”だ。どちらにも引き寄せすぎると、魂は裂ける」
 新右衛門は静かに頷いた。
 おはるは、その場に座り込んだまま、ひとしきり泣いた。
 泣きながら何度も呟いた。
「ごめんなさい、お父っつぁん……わたし、怖かった……どうしても、声を聞きたかった……顔を、見たかったの……」
 焔陰の柄が、手の中でほんのりと温かくなっていた。
 まるで、斬るべき時が近いことを知らせるかのようだった。
 おせんがそっと新右衛門に寄り添うように立ち、「もう少しだけ、話させてあげて」と囁いた。
 灯籠の火が、再び静かに揺れ始める。
 その揺らぎの中に、仁兵衛の顔がまた浮かび上がった。
 だが、今度の顔は、怒りでも怨念でもなかった。
 燃え尽きた灰のように、どこか静かで、そして寂しげだった。
「……儂は……おはるを守るつもりだった……」
 風が語ったのか、炎が囁いたのか、あるいはそれは、おはるの記憶が語ったのか。
 けれどその声は、確かにその場の全員に届いた。
 道明が目を細める。「……死者が、自らの未練を言葉にするのは稀だ。だが、強く結ばれた魂なら、稀に……」
 おせんが灯籠のそばに膝をついた。「わたしにも見える。あの顔、あの目……もう、呪いではない。ただ、残っていた想いが、姿をとっただけ」
 新右衛門は焔陰をもう一度握り直し、そっとおはるの肩に手を置いた。
「おはる。この想いを、形として受け止めたい。斬ることは、断つことではない。導くことだ」
 おはるは涙の中で微かに頷いた。
「……どうか……送ってください。父を」
 その言葉に呼応するように、焔陰が淡く光を帯びた。
 新右衛門は一歩、灯籠の前へと進み出た。
「仁兵衛……おまえの業火、ここで鎮める」
 刃がゆっくりと振り上げられる。新右衛門は、心の中で仁兵衛に語りかけた。
 ──娘は、前を向こうとしている。おまえも、彼岸へ向かう時だ。
 灯籠の火が、風に揺れ、炎の形を仁兵衛の姿に似せて立ち上らせる。
 その瞬間、新右衛門の焔陰が閃いた。
 静かな一閃。
 刃が炎を断ち、音もなく火が収まっていく。
 そして、灯籠の中の火が、まるで満ち足りたように、ふっと消えた。
 川辺に、深い静寂が訪れる。
 灯籠の残骸が、静かに流されていく。
 道明が口を開く。「……今のは、ただの消失ではない。導かれ、還った火だ」
 おせんが、そっとおはるの背に手を添える。
「お父っつぁん、きっと行けたよ。あなたの声が、届いたから」
 おはるはしばらく何も言わず、ただ涙を流し続けた。
 やがて、新右衛門の方を見上げると、小さく、けれど確かに微笑んだ。
「ありがとうございました……」
 新右衛門はその微笑みに、深く頭を下げた。
 こうして、ひとつの霊が送られた。
 だが、それが終わりではないことを、新右衛門は感じていた。
 まだ、火は囁いている。
 次の声なき声を──誰かが聞き取るその時まで。
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