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第四章「鏡師、来訪す」
第一話「水鏡の男」
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川風に揺れる水面の前に、ひときわ異質な姿があった。
道明の背後からその男が現れたとき、新右衛門は思わず足を止めた。
漆黒の烏帽子をかぶり、薄い水色の直垂をまとったその男は、腰に円形の銀鏡を提げていた。
「……名を、蒼雲と申す。流浪の鏡師」
そう言った男は、どこか人ならぬ静けさをまとっていた。
「鏡師……」と新右衛門が問い返すと、道明がわずかに目を細めて頷いた。
「久しいな。鏡の術で霊を見る者は、陰陽師の中でも稀だ」
蒼雲は軽く会釈すると、手に持っていた銀鏡を川面に向けた。
「今宵、この川に映る影を借りて、真なる姿を見せよう」
彼が鏡をすっと掲げ、呪を小声で唱えると、水面が凪いだように静まり返り、まるで鏡面のように変わった。
鏡の中に、灯籠が一つ、映し出された。
いや──ただの映像ではない。
「これは……今ここにはない灯籠だ」
新右衛門は思わず息を呑んだ。
水鏡に映った灯籠は、形こそ他のものと同じだが、灯火が強く、色も紅く染まっていた。
その火の奥に、ゆらり、と人影が揺れた。
男の顔。
焦げたような頬、裂けた唇、そして──手を振っていた。
新右衛門の背筋に冷たいものが走った。
「今の顔……!」
おせんが呟く。「……仁兵衛。だけど、少し違う」
道明も、すぐに蒼雲の傍に立った。「それは、何を映している」
「霊の“残像”だ。まだ完全には消えていない念の欠片。
本人ではなく、想念が形をとって、現れようとしている」
新右衛門は、映された灯籠と、それに手を振る男の姿を見据えた。
「手を振っていた……それは、別れか、それとも、呼んでいるのか」
蒼雲は少し黙し、そして言った。
「“誘い”だ。あの霊は、誰かを呼んでいる」
「誰を……おはるか?」
「否。恐らく、見ている“者”すべてだ」
場が静まり返った。
道明が小さく呟いた。「……水鏡は、真実を映す。だが真実は常に、人の心の準備を待たぬ」
蒼雲は鏡を懐にしまいながら、道明に向き直る。
「術としては見事。霊符と火除けの技も、高く評価する」
道明も、口元を引き締めながらも「貴殿の鏡も侮れぬ。共に“封じる”ことができれば」と応じる。
そのやりとりを見ていた新右衛門は、微かに頷いた。
彼ら二人が手を組むならば──まだ灯籠の“火”に囚われた霊も、救うことができるかもしれない。
夜が深まるにつれ、川辺の空気は次第に濃く、重たくなっていった。
水面に浮かぶ灯籠たちは、まるで火の目を持つもののように、揺れながらこちらを見返しているようだった。
新右衛門は、しばらく沈黙していた蒼雲の横顔を見た。
「……あの手を振る霊。もし“誘っている”のだとすれば、あれは何を望んでいる?」
蒼雲は小さく首を振った。「それを読み解くのが、我らの仕事。だが水鏡は一方的に映すのみ、霊の心までは辿れぬ。……そちらの“霊を視る者”はどうだ?」
視線が、おせんに注がれた。
おせんは頷き、静かに答えた。「あの火の奥にいたのは、確かに“かつての仁兵衛”……だけど、何かが違っていた。怒りじゃない、怨みでもない……悲しさでも、ない」
「では何だ?」新右衛門が問う。
「呼びかけのようでいて……迷い、です。自分が何をすべきかも、何をしたかったのかも、わからなくなっている」
その言葉に、場の空気がさらに沈んだ。
道明が小さく霊符を取り出して、川面に指を差した。「ならば、我らが導くしかあるまい。すべてを斬るのではない。道を見せる、手を取る……そのための力が、我らにある」
蒼雲は薄く微笑み、「そうだな、修験者。互いの術を重ねれば、どこまで届くか試してみよう」と言った。
新右衛門はその様子を見ながら、焔陰の柄にそっと手を添えた。
火の霊を、ただ断つためではなく、導くための刃。
「その手が、誰かを誘っているのなら、こちらからも手を伸ばすべきだ」
その言葉に道明が頷き、蒼雲も一歩前に出た。
「試してみよう。水と火、符と鏡──それぞれの力を結んで、“霊の願い”に触れる」
夜風が川面を渡る。
灯籠の火が、一つ、二つ、静かに揺れた。
蒼雲は銀鏡を再び手に取り、川面に向けて呪を唱え始めた。
同時に、道明が四方に霊符を並べ、掌を合わせて念を込める。
おせんが目を閉じ、新右衛門の袖をそっと掴んだ。
「……来るよ」
言葉が終わらぬうちに、水鏡に強い光が走った。
新右衛門は反射的に目を細めたが、その直後、鏡の奥に何かが立ち上る気配を感じた。
男の姿──やはり、仁兵衛。
しかし今度は、明確な意志をもって鏡の中からこちらを睨んでいた。
「これは……」
蒼雲が鏡を握りしめたまま唸った。「霊が、反応している。こっちを“見て”いる……!」
道明が霊符を素早く追加し、術式を強化する。
「近い。やつは現界の縁にいる!」
新右衛門が焔陰の鞘に手をかけた。空気が変わる。
その瞬間、鏡の中の男が、ゆっくりと手を伸ばした──火を越え、鏡を越え、こちら側へ。
「危ない!」
道明が地に符を叩きつけると、眩い閃光が走り、霊の手が弾かれる。
蒼雲は肩を上下させながら、鏡をそっと伏せた。
「……すまない、押さえきれなかった」
「いや、今のは有益だった」と道明。「あの霊は、自分の存在を“見せたい”と思っている。ならば、語らせる機会がある」
新右衛門は深く息を吐いた。
「手を伸ばしてきたのは、ただ誘うためではない。……あれは、何かを渡そうとしていた」
沈黙の中、再び川面の火が揺れた。
蒼雲は鏡を布で包みながら、「明晩、再び試す価値がある。霊の姿が映る以上、繋がりはまだ断たれていない」と言った。
おせんがふと振り返り、「……あの時、父が火の中で手を振っていたのも……同じことかもしれない」と呟いた。
火の奥にある“記憶”と“願い”。
それを斬らずに、どうやって見つけるか。
今、ひとつの問いが、新右衛門の心に根を張り始めていた。
──斬るべきか、導くべきか。
その答えは、次なる火の中にあるのかもしれない。
道明の背後からその男が現れたとき、新右衛門は思わず足を止めた。
漆黒の烏帽子をかぶり、薄い水色の直垂をまとったその男は、腰に円形の銀鏡を提げていた。
「……名を、蒼雲と申す。流浪の鏡師」
そう言った男は、どこか人ならぬ静けさをまとっていた。
「鏡師……」と新右衛門が問い返すと、道明がわずかに目を細めて頷いた。
「久しいな。鏡の術で霊を見る者は、陰陽師の中でも稀だ」
蒼雲は軽く会釈すると、手に持っていた銀鏡を川面に向けた。
「今宵、この川に映る影を借りて、真なる姿を見せよう」
彼が鏡をすっと掲げ、呪を小声で唱えると、水面が凪いだように静まり返り、まるで鏡面のように変わった。
鏡の中に、灯籠が一つ、映し出された。
いや──ただの映像ではない。
「これは……今ここにはない灯籠だ」
新右衛門は思わず息を呑んだ。
水鏡に映った灯籠は、形こそ他のものと同じだが、灯火が強く、色も紅く染まっていた。
その火の奥に、ゆらり、と人影が揺れた。
男の顔。
焦げたような頬、裂けた唇、そして──手を振っていた。
新右衛門の背筋に冷たいものが走った。
「今の顔……!」
おせんが呟く。「……仁兵衛。だけど、少し違う」
道明も、すぐに蒼雲の傍に立った。「それは、何を映している」
「霊の“残像”だ。まだ完全には消えていない念の欠片。
本人ではなく、想念が形をとって、現れようとしている」
新右衛門は、映された灯籠と、それに手を振る男の姿を見据えた。
「手を振っていた……それは、別れか、それとも、呼んでいるのか」
蒼雲は少し黙し、そして言った。
「“誘い”だ。あの霊は、誰かを呼んでいる」
「誰を……おはるか?」
「否。恐らく、見ている“者”すべてだ」
場が静まり返った。
道明が小さく呟いた。「……水鏡は、真実を映す。だが真実は常に、人の心の準備を待たぬ」
蒼雲は鏡を懐にしまいながら、道明に向き直る。
「術としては見事。霊符と火除けの技も、高く評価する」
道明も、口元を引き締めながらも「貴殿の鏡も侮れぬ。共に“封じる”ことができれば」と応じる。
そのやりとりを見ていた新右衛門は、微かに頷いた。
彼ら二人が手を組むならば──まだ灯籠の“火”に囚われた霊も、救うことができるかもしれない。
夜が深まるにつれ、川辺の空気は次第に濃く、重たくなっていった。
水面に浮かぶ灯籠たちは、まるで火の目を持つもののように、揺れながらこちらを見返しているようだった。
新右衛門は、しばらく沈黙していた蒼雲の横顔を見た。
「……あの手を振る霊。もし“誘っている”のだとすれば、あれは何を望んでいる?」
蒼雲は小さく首を振った。「それを読み解くのが、我らの仕事。だが水鏡は一方的に映すのみ、霊の心までは辿れぬ。……そちらの“霊を視る者”はどうだ?」
視線が、おせんに注がれた。
おせんは頷き、静かに答えた。「あの火の奥にいたのは、確かに“かつての仁兵衛”……だけど、何かが違っていた。怒りじゃない、怨みでもない……悲しさでも、ない」
「では何だ?」新右衛門が問う。
「呼びかけのようでいて……迷い、です。自分が何をすべきかも、何をしたかったのかも、わからなくなっている」
その言葉に、場の空気がさらに沈んだ。
道明が小さく霊符を取り出して、川面に指を差した。「ならば、我らが導くしかあるまい。すべてを斬るのではない。道を見せる、手を取る……そのための力が、我らにある」
蒼雲は薄く微笑み、「そうだな、修験者。互いの術を重ねれば、どこまで届くか試してみよう」と言った。
新右衛門はその様子を見ながら、焔陰の柄にそっと手を添えた。
火の霊を、ただ断つためではなく、導くための刃。
「その手が、誰かを誘っているのなら、こちらからも手を伸ばすべきだ」
その言葉に道明が頷き、蒼雲も一歩前に出た。
「試してみよう。水と火、符と鏡──それぞれの力を結んで、“霊の願い”に触れる」
夜風が川面を渡る。
灯籠の火が、一つ、二つ、静かに揺れた。
蒼雲は銀鏡を再び手に取り、川面に向けて呪を唱え始めた。
同時に、道明が四方に霊符を並べ、掌を合わせて念を込める。
おせんが目を閉じ、新右衛門の袖をそっと掴んだ。
「……来るよ」
言葉が終わらぬうちに、水鏡に強い光が走った。
新右衛門は反射的に目を細めたが、その直後、鏡の奥に何かが立ち上る気配を感じた。
男の姿──やはり、仁兵衛。
しかし今度は、明確な意志をもって鏡の中からこちらを睨んでいた。
「これは……」
蒼雲が鏡を握りしめたまま唸った。「霊が、反応している。こっちを“見て”いる……!」
道明が霊符を素早く追加し、術式を強化する。
「近い。やつは現界の縁にいる!」
新右衛門が焔陰の鞘に手をかけた。空気が変わる。
その瞬間、鏡の中の男が、ゆっくりと手を伸ばした──火を越え、鏡を越え、こちら側へ。
「危ない!」
道明が地に符を叩きつけると、眩い閃光が走り、霊の手が弾かれる。
蒼雲は肩を上下させながら、鏡をそっと伏せた。
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