〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第四篇 ― 黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―

ukon osumi

文字の大きさ
11 / 21
第四章「鏡師、来訪す」

第二話「交わる生と死」

しおりを挟む
 夜の川辺は、湿気と霊気が混ざり合い、息苦しいほどの重さを帯びていた。
 榊原新右衛門は、灯籠の並ぶ川面を見下ろしながら、胸の内に渦巻く感情をどう扱うべきか、答えを見つけかねていた。
「これは、“生きている者”の顔です」
 蒼雲の言葉は、静かだが確信に満ちていた。
 道明も黙して頷いた。
 水鏡に映る灯籠の火、その中に浮かぶ顔。それが既に死んだ者のものではなく、まさに今この世に生きている者の相貌であると確定されたのだ。
「つまり……あの顔が写ると、“これから”死ぬ」
 新右衛門が低く呟くと、蒼雲はゆっくりと視線を川からおせんへ向けた。
「ただの予兆ではない。呼ばれているのです。死者が、生者を……」
 その言葉に、おせんが静かに顔を伏せた。
「ならば、これは“呪い”ではなく、“誘い”だ」
 新右衛門が呟いたとき、文吉の叫び声が小屋の奥から聞こえた。
「おはる!」
 一同が駆けつけると、おはるは作業場の灯籠の前で膝を抱え、火を見つめていた。
 その表情には、絶望というより、奇妙な安らぎの色が滲んでいた。
「……お父っつぁん、呼んでるの。火の中から。……私も、あっちへ行けば、一緒にいられる」
 その声はか細く、まるで夢を語るようだった。
「やめろ、おはる! そんなこと言うんじゃねぇ!」
 文吉が荒々しく近づくと、彼女は怯えるように顔を背けた。
「兄さん、わたし……もう、疲れたの。お父っつぁんが居た頃のことしか、もう思い出せない」
 新右衛門は、文吉とおはるのあいだに入るように立ち、静かに問いかけた。
「おはる、君は灯籠に何を書いていた? 髪と名前、そして──何を願った?」
 おはるは、ぽつりと答えた。
「……誰も、お父っつぁんのこと、もう思い出さない。だから、書いたの。あの人たちが死んだら、お父っつぁんのこと、思い出してくれるんじゃないかって……」
 蒼雲がその言葉に目を細めた。
「悲しみは記憶を呼び起こすが、魂はそれを望まぬ。あなたの願いは、誰のためのものだった?」
 おはるは口を開きかけたが、言葉にならなかった。
 文吉が拳を握りしめ、震える声で言った。
「……俺も、忘れてた。あの火事の夜のこと、あん時、助けられなかったこと、全部……蓋をしてた。でも、おめぇがこんな形で思い出そうとするなんて、そんなの、おやっさんも望んじゃいねぇ!」
 新右衛門は、おはるの手にそっと触れた。
「今なら、まだ戻れる。君が願った“記憶”と“想い”は、必ず形になる。だからこそ、君自身が消えてはいけない」
 そのとき、灯籠の火がゆら、と高く燃え上がった。
 火の中に、またあの男の顔──仁兵衛の顔が浮かんだ。
 そしてその口が、確かに動いた。
「──くるな」
 おせんが、震えながら呟いた。「……止めようとしてる。お父さんの霊、呼び寄せようとしてるんじゃない。おはるを、近づけまいとしてる」
 おはるの頬に涙が伝った。
「……お父っつぁん……」
 火は静かに揺れ、再び灯籠の内へと戻っていった。
 道明が一歩前へ出た。「この繋がり、断ち切らねばならぬ。だがそれは、呪いではない。誤った“愛”が呼んでしまった炎だ」
 新右衛門は深く頷いた。
 火は人を温める。だが扱いを誤れば、人を焼く。
 今ここにあるのは──まさにその“境界”だった。

 おはるの唇がかすかに震えた。
「……お父っつぁん、止めようとしてくれてたのに……わたし、ずっと……」
 その肩に文吉が手を置く。「いい。もう何も言わなくていい。……俺のせいだ。全部、俺が、もっと早く気づいてりゃ……」
 おせんが、灯籠の火を見つめながら低く言った。
「この火……もう囁いていない」
 道明も頷いた。「霊の力が、いまの娘の言葉と涙に反応している。呼び出す咒ではない。むしろ、鎮めの兆しだ」
 蒼雲が鏡を取り出し、再び水を張る。静かに術を施すと、鏡の中に、ぼんやりと仁兵衛の顔が浮かび上がった。だが、以前のような憎悪の表情ではなかった。
「……穏やかだ」
 蒼雲がつぶやいた。
「怨みではなく、護ろうとしている父の想念……」道明が霊符を手に歩み出た。「だがまだ完全には解けていない。娘の魂がまた揺れれば、火は再び開くだろう」
 新右衛門は、おはるに向き直った。
「これ以上、この火を灯し続ければ、君自身が燃えてしまう。君が本当に望んでいることは、何だ?」
 おはるはしばらく言葉を飲み込んでいたが、やがてしぼり出すように答えた。
「……お父っつぁんに、ありがとうって……言いたかった。でも……言えなかった。怖くて……言葉が届かない気がして……」
「ならば、今言え」
 新右衛門のその一言に、おはるは震える声で、火に向かって呼びかけた。
「お父っつぁん……あの日、わたしをかばってくれて、ありがとう……。ずっと、ずっと、言えなくて、ごめんね……」
 その瞬間、灯籠の火が静かに収束し、鏡の中の顔も霧のように薄れていった。
 おはるは、ぽろぽろと涙を流したまま、膝をついた。
 文吉がその背に手を添え、「やっと、言えたな……」と、目頭を拭った。
 蒼雲が水鏡を伏せ、道明が術符を収めた。
「これで“火の道”は、ひとまず閉じられた。だが……」
「……だが?」
 新右衛門の問いに、道明は静かに言った。
「この火を通じて呼ばれた者は、一人ではない可能性がある。死者と生者の境が揺らいだ結果、他の霊も、火の奥に残されているかもしれん」
 おせんが顔を上げた。「感じる……まだ、何かが……川底にいる」
 新右衛門は、焔陰の柄にそっと触れた。
「斬らずにすむなら、それに越したことはない。だが──また火が囁くなら、その時は、俺が行く」
 夜風が静かに川面を撫でていく。
 おはるは、文吉に支えられながら立ち上がり、名残惜しそうに灯籠の残り火を見つめていた。
「……さよなら、お父っつぁん」
 その言葉に、誰かが応えるように、小さく灯籠が揺れた。
 新右衛門はその光を目に焼き付けるように見つめながら、心に刻んだ。
 ──生きている者の想いも、死者の声も、どちらも掬わねばならぬ。
 この江戸の闇を歩く“影”として。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚! 大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。 神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。 文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。 吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。 「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」 どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー! ※カクヨムで先読み可能です

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

処理中です...