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第五章「黄泉の炎」
第一話「幻影の灯籠」
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夏の終わり、両国の川沿いに無数の灯籠が浮かび上がった夜。
風は穏やかで、川面に映る灯火が、ゆらゆらと命のように揺れていた。
榊原新右衛門は、その景色を見つめながら歩を進めていた。隣には、ひときわ静かな気配を纏うおせんの姿。後方には、道明が儀式の道具を背にして黙々とついてきている。
「……これは、ただの供養ではない」
おせんが呟いた。
「うむ。灯籠の火に呼ばれたような感覚がある」
新右衛門の右腰には、焔陰が収められていた。歩を進めるたびに、刀身の奥から微かな熱が伝わってくる。まるで、この場にある灯籠の火と呼応しているようだった。
「この数……百は下らぬな」
川岸に等間隔に並べられた灯籠は、どれも赤く、そして揺らめくように燃えていた。だが、灯籠一つ一つに込められた灯火には、わずかに異なる気配があった。静かに燃えるものもあれば、激しくちらつくものもある。
「……幻影、かもしれぬ」
道明が低く呟いた。
「灯籠そのものが、現実と異界の境をなしている。魂を運ぶはずの火が、むしろ霊を引き寄せているように見える」
新右衛門が立ち止まった。
その瞬間、焔陰の柄がじわりと熱を帯び、刀身が小さく振動した。
「来るぞ」
空気が変わった。風が止み、蝉の声が遠のく。灯籠の火が一斉に揺れ、まるで見えぬ何かに呼応するように跳ねた。
「……斬れるのか、焔陰で」
おせんの声がかすれた。
新右衛門は答えず、静かに焔陰を抜いた。
その刹那、空気が裂けた。
灯籠の火の中から、いくつもの“顔”が浮かび上がる。どれもかつての江戸の人々。老若男女、泣き、笑い、怒り、祈る。
そしてその奥に、ひときわ濃い影があった。
黒く焦げ、輪郭すら不確かなそれは、まるで闇そのものが灯籠の火を通じて現れたかのようだった。
焔陰の刃が、それを照らすように淡く輝いた。
その光に引き寄せられるように、影がゆっくりと形を成していく。
──焦げた着物の裾。
──焼けただれた手。
──だが、表情には苦悶よりも、なにか深い、悲しげな訴えがあった。
「仁兵衛……」
おせんがつぶやいた名に、影が反応するように一歩、灯籠の間を踏み出す。
周囲の灯籠の火が、まるで風もないのに次々と吹き消されていった。だがその中心、仁兵衛の影を映した灯籠の火だけは、逆に強く燃え上がる。
道明が霊符を取り出し、周囲に結界を張った。
「このままでは、霊の熱が人にまで届く。新右衛門、心を澄ませ。これは“斬る”戦ではない」
新右衛門は頷き、焔陰の刃を前に構えた。
その刀身に、影が手を伸ばしてきた。
触れるか触れぬかの距離。だが、そこに殺気はなかった。
「……伝えたいのだな」
新右衛門の声に、影が微かに頷いたように見えた。
おせんがそっと進み出て、灯籠の火に手を翳した。
「聞こえる……“忘れないでくれ”って」
新右衛門は一歩、仁兵衛の霊に近づく。
「斬ることは、消すことではない。おまえの思いを、俺が受け継ぐ。だが、この火に縛られ続ければ、いずれ娘も、おまえ自身も滅ぶだけだ」
焔陰の刃が、静かに光を強めた。
霊がゆっくりと、炎の中へ引き返していく。
その背を、新右衛門は一閃、斬った。
斬撃は風を巻き起こし、夜空を照らした。
灯籠の火が、一つ、また一つと穏やかに消えていく。
最後に残った灯籠の火が、仁兵衛の面影を映しながら、そっと川へ流れていった。
──風が戻り、虫の音がよみがえった。
おせんが目を閉じ、道明が手を合わせる。
新右衛門は、焔陰を静かに鞘へと戻した。
その胸には、斬った手応えと共に、ある種の温もりが残っていた。
「……終わったのか?」
おせんが問う。
「いや……まだ、灯籠は残っている」
遠く、川上にもう一つ、燃え盛る火の灯籠が揺れていた。
風は穏やかで、川面に映る灯火が、ゆらゆらと命のように揺れていた。
榊原新右衛門は、その景色を見つめながら歩を進めていた。隣には、ひときわ静かな気配を纏うおせんの姿。後方には、道明が儀式の道具を背にして黙々とついてきている。
「……これは、ただの供養ではない」
おせんが呟いた。
「うむ。灯籠の火に呼ばれたような感覚がある」
新右衛門の右腰には、焔陰が収められていた。歩を進めるたびに、刀身の奥から微かな熱が伝わってくる。まるで、この場にある灯籠の火と呼応しているようだった。
「この数……百は下らぬな」
川岸に等間隔に並べられた灯籠は、どれも赤く、そして揺らめくように燃えていた。だが、灯籠一つ一つに込められた灯火には、わずかに異なる気配があった。静かに燃えるものもあれば、激しくちらつくものもある。
「……幻影、かもしれぬ」
道明が低く呟いた。
「灯籠そのものが、現実と異界の境をなしている。魂を運ぶはずの火が、むしろ霊を引き寄せているように見える」
新右衛門が立ち止まった。
その瞬間、焔陰の柄がじわりと熱を帯び、刀身が小さく振動した。
「来るぞ」
空気が変わった。風が止み、蝉の声が遠のく。灯籠の火が一斉に揺れ、まるで見えぬ何かに呼応するように跳ねた。
「……斬れるのか、焔陰で」
おせんの声がかすれた。
新右衛門は答えず、静かに焔陰を抜いた。
その刹那、空気が裂けた。
灯籠の火の中から、いくつもの“顔”が浮かび上がる。どれもかつての江戸の人々。老若男女、泣き、笑い、怒り、祈る。
そしてその奥に、ひときわ濃い影があった。
黒く焦げ、輪郭すら不確かなそれは、まるで闇そのものが灯籠の火を通じて現れたかのようだった。
焔陰の刃が、それを照らすように淡く輝いた。
その光に引き寄せられるように、影がゆっくりと形を成していく。
──焦げた着物の裾。
──焼けただれた手。
──だが、表情には苦悶よりも、なにか深い、悲しげな訴えがあった。
「仁兵衛……」
おせんがつぶやいた名に、影が反応するように一歩、灯籠の間を踏み出す。
周囲の灯籠の火が、まるで風もないのに次々と吹き消されていった。だがその中心、仁兵衛の影を映した灯籠の火だけは、逆に強く燃え上がる。
道明が霊符を取り出し、周囲に結界を張った。
「このままでは、霊の熱が人にまで届く。新右衛門、心を澄ませ。これは“斬る”戦ではない」
新右衛門は頷き、焔陰の刃を前に構えた。
その刀身に、影が手を伸ばしてきた。
触れるか触れぬかの距離。だが、そこに殺気はなかった。
「……伝えたいのだな」
新右衛門の声に、影が微かに頷いたように見えた。
おせんがそっと進み出て、灯籠の火に手を翳した。
「聞こえる……“忘れないでくれ”って」
新右衛門は一歩、仁兵衛の霊に近づく。
「斬ることは、消すことではない。おまえの思いを、俺が受け継ぐ。だが、この火に縛られ続ければ、いずれ娘も、おまえ自身も滅ぶだけだ」
焔陰の刃が、静かに光を強めた。
霊がゆっくりと、炎の中へ引き返していく。
その背を、新右衛門は一閃、斬った。
斬撃は風を巻き起こし、夜空を照らした。
灯籠の火が、一つ、また一つと穏やかに消えていく。
最後に残った灯籠の火が、仁兵衛の面影を映しながら、そっと川へ流れていった。
──風が戻り、虫の音がよみがえった。
おせんが目を閉じ、道明が手を合わせる。
新右衛門は、焔陰を静かに鞘へと戻した。
その胸には、斬った手応えと共に、ある種の温もりが残っていた。
「……終わったのか?」
おせんが問う。
「いや……まだ、灯籠は残っている」
遠く、川上にもう一つ、燃え盛る火の灯籠が揺れていた。
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