〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第四篇 ― 黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―

ukon osumi

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第五章「黄泉の炎」

第三話:静寂のあとの水音

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 両国橋のたもと、夜の川面を灯籠が静かに流れていった。
風は止み、波も立たず、まるで何かが張り詰めた幕を取り払ったかのように、あたりは不思議な静寂に包まれていた。
灯籠の火は、どれもゆらゆらと穏やかに揺れていたが、かつてのように人の顔を浮かべることはなかった。
榊原新右衛門は、川辺に立ったまま、それらの灯籠をじっと見つめていた。焔陰はすでに鞘に納めてあるが、刀の熱はまだ掌に残っていた。
あれは、確かに人を送るための刀だった。斬るのではなく、抱えるのでもなく、ただ、想いを受け継ぎ、別れを告げる刃。
新右衛門の脇に立つおせんが、川面に映る灯火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……綺麗ね。何も映ってないのに、こんなに静かで優しい」
「優しい、か」
新右衛門の声には、まだわずかな疲労がにじんでいた。だが、その表情には安堵があった。
おせんの目がふと横を向く。
「来たわ」
その先には、蒼雲の姿があった。水鏡を抱え、川辺をゆっくりと歩いてくる。
その歩みに波紋は起きず、衣の裾も風に揺れることなく、まるで彼自身もこの世とあの世の境に立つ者のようだった。
「ようやく、終わったな」
新右衛門の言葉に、蒼雲は薄く笑みを返す。
「いや。終わったように見えるものほど、始まりに近い。火は消えても、灰は残る」
その言葉に、おせんが眉を寄せた。「……まだ、何かあるの?」
蒼雲は水鏡を静かに地面に置いた。
鏡面には、夜空が映り、星が瞬いていた。
その星の間に、ふと“何か”が揺らいだ。手のような影。遠い、しかし確かにそこにある声の残響。
「江戸には、まだ“声なき声”がある」
その言葉を最後に、蒼雲はふっと立ち去った。
風が再び吹き、川の灯籠が少しだけ揺れた。
新右衛門はその背中を見送ったあと、呟いた。
「……あの男も、何か背負ってるな」
「鏡って、映すだけじゃないのかもね」おせんが言った。「自分の奥にあるものを見せられたら、怖くなるのも無理ないわ」
ふたりの会話に割って入るように、道明が歩いてきた。
手には、すでに使い終えた霊符と灰になった護摩木の残り。
「焔陰の役目は、これで終わりじゃない」
新右衛門はその言葉に、驚かなかった。どこかで感じていたからだ。
「まだ……“斬るべきもの”があるのか?」
道明は黙って頷いた。「次は、もっと深い闇かもしれぬ」
灯籠がひとつ、川辺の石に引っかかり、炎がふっと揺れた。
おせんがそれを見つめている。
「……おはるさん、明日には町を離れるそうよ。火傷の跡のある灯籠をひとつだけ持って」
「灯籠が、罪だったのか、それとも……」新右衛門が呟く。
「祈りだったのかもしれないわね」おせんがそっと付け加える。
その言葉が、ふたりの間に沈黙を落とす。
夜が深くなる。川の流れが、音を立て始める。
道明が、焔陰をちらりと見やった。
「この刀には、まだ余白がある。切先に、何かが囁いているように感じる。……もしそれが“声なき声”であるなら、今度こそ、聴き逃すなよ」
「……ああ」
新右衛門は空を仰いだ。星が、滲んで見えた。
静かに、川を渡る風がまた吹いた。
夜の終わりが、すぐそこに近づいていた。
そして、それはまた新たな影の始まりでもあった。

 焔陰の刃が川辺の風を切ると、空気がぴんと張りつめた。炎のゆらぎが一瞬止まり、全ての灯籠の火が一斉に静まり返る。
榊原新右衛門は、焔陰の感触を掌で確かめながら、その前方に立つ影を見据えていた。
焦げた肌、朽ちかけた衣、そして灯籠の炎に照らされ浮かび上がる、どこか懐かしくも苦悩を帯びた顔。
──仁兵衛。
かつて灯籠師として生き、己の技に誇りを持っていた男。だが、火災によって命を落とし、その無念は死してなお娘にのり移るほど強かった。
「……見えるか、おまえの娘の姿が」
新右衛門の声が夜気に溶けていく。
おはるは、文吉の腕にすがりながら、遠くの影に目を凝らしていた。その目には涙が溜まり、唇は震えていた。
「お父っつぁん……やめて……もう、いいの……」
その声に、仁兵衛の影がわずかに揺れた。
おせんが、灯籠のひとつの火に手を翳す。
「いま、見えてる。彼の魂は、ただ伝えたいだけ。家を、技を、娘を、何より命を……残したかった。それだけ」
新右衛門は静かに頷いた。そして、焔陰を構え直した。
「ならば、送ろう。伝えきったその想いを、彼岸へ導くために」
影が再び動く。仁兵衛の霊が、火の帯をまとって新右衛門へと迫ってくる。その歩みはゆっくりだが、確実だった。
「……来い。俺が、おまえを斬る」
新右衛門の声には、怒りも、憐れみもなかった。ただ、決意と、静かな哀しみだけがあった。
焔陰が淡く燃える。刀身に映る影は、やがて仁兵衛のものと重なる。
道明が背後から結界の符を張る。
「今しかない。新右衛門!」
新右衛門は一閃、焔陰を振るった。
その刹那、炎が舞い、風が巻き、夜が震えた。
仁兵衛の影が光に包まれ、音もなく崩れていく。まるで、灰が風にさらわれるように。
灯籠の火がひとつ、またひとつと消えていった。
おはるが、膝から崩れ落ちる。
「お父っつぁん……ありがとう……ありがとう……」
その声は、あまりに幼く、あまりに深かった。
新右衛門は焔陰を静かに鞘に納めた。
風が再び川面を撫で、灯籠の残り火がぱちぱちと鳴った。
その瞬間、最後の灯籠がふっと燃え尽きた。
静寂があたりを包み、川岸にはただ夜の気配が戻った。
文吉が、おはるの背を支えながら呟くように言った。
「……あれが、親父だったのか。……なんで、あんな形でしか出てこられなかったんだ……」
「火に焼かれて死んだ者の念は、強い。未練と怒りが混じれば、魂の形すら歪む」
道明の声は静かだった。「だがそれでも、おまえの妹は、声を聞いていた。それを忘れるな」
おはるは、まだ頬に涙を残したまま、微かに頷いた。
新右衛門は空を見上げた。雲はなく、満月が灯籠のように輝いていた。
「……終わったな」
おせんが隣で微笑んだ。「うん。でも、これで“すべて”終わったわけじゃないわ。江戸にはまだ、声なき声がある」
新右衛門は、その言葉に黙って頷いた。
彼の中には、まだ焔陰の熱が残っていた。
それは、完全な終わりではなく、ある種の始まりを告げる熱。
この一件が収まったのならば、それはまた、新たな“影”が生まれる余地を残すということでもある。
だが今は、それを思い煩う時ではなかった。
「ありがとうな」
そう呟いたのは、誰に対してか──あるいはすべての魂に対してだったかもしれない。新右衛門は灯籠の残り香を背に、静かにその場を去っていった。
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