EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第二話 「やさしい声」

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  あの夜から、美沙は何度もリビングの光景を思い返していた。
 丸く白い球体と、安らかに眠る蓮。
 ただそれだけの静かな光景。けれど、その静けさがどこか非現実だった。
 朝になっても、エキドナは鳴かず、布団の端で丸まっていた。
 「おはよう、蓮。ちゃんと寝られた?」
 「うん。しろが一緒に寝てくれたんだ」
 その声がやけに明るい。
 蓮がうなずくと、白い体がわずかに揺れた気がした。
 日曜の朝。道場では自主稽古の日だった。
 「今日は行けそう?」
 「……しろも連れて行っていい?」
 美沙は一瞬迷った。
 だが、あの子が“誰かと一緒に行きたい”と言ったのは久しぶりだった。
 「いいよ。ちゃんと持っていられるならね」
 蓮はエキドナを抱き上げた。
 白い毛並みがふわりと広がる。軽い。けれど確かな温度を持っていた。
 ――感情に共鳴するんです。
 販売員の言葉が胸をよぎる。
 「優しい声に応えるように反応します」
 蓮が笑えば、しろがわずかに揺れる。
 まるで息を合わせているようだった。
 商店街を抜ける途中、通りすがりの女性が声をかけた。
 「かわいいハリネズミね」
 「ちがうよ、しろ。エキドナなんだ」
 蓮の声は小さいが、確かだった。
 その背を見ながら、美沙は、胸の奥の硬いものが少し溶けるのを感じた。
 神原道場の前には、涼太とあかりが立っていた。
 「おはようございます、美沙先生」
 あかりの母親が挨拶する。
 美沙が返すより早く、蓮が前へ出た。
 白い球体を両腕に抱え、誇らしげに言う。
 「しろ。ぼくのペット」
 「わあ、かわいい……ぬいぐるみみたい」
 母親たちは微笑んだ。
 美沙は黙って見ていた。
 ――ほんとうに、ぬいぐるみみたい。
 動かず、静かで、空気のよう。
 それでも、蓮が名前を呼ぶたびに、その小さな体がふるりと震えた。
 稽古が始まると、蓮はいつになく積極的だった。
 声を出し、前列に立つ。
 その姿を見ながら、美沙は思う。
 ――しろのおかげだ。
 理由はわからない。でも、この子が蓮の中の何かを目覚めさせている。
 稽古が終わると、蓮はまっすぐしろのもとへ戻った。
 「ただいま」
 白い体が、かすかに揺れた。
 「しろ、待ってた?」
 蓮が指先で触れると、柔らかな弾力が返る。
 逃げもせず、音も立てない。
 けれど、確かに“応えている”ように見えた。
 「しろは気に入った?」
 「うん。しろはね、ちゃんと聞いてるんだ」
 「聞いてる?」
 「しゃべらないけど、話はわかるんだよ」
 その口調に迷いはなかった。
 美沙は笑った。
 「じゃあ、蓮のこと、ちゃんと大事に思ってるのかもね」
 蓮はうなずき、もう一度しろの頭を撫でた。
 その手つきは、まるで誰かを慰めるようにやさしかった。
 道場を出ると、夕暮れの街が橙に沈み始めていた。
 落ち葉が歩道を転がる。
 「晩ごはん、何食べたい?」
 「しろはゼリー食べるんだよ」
 「蓮のじゃなくて?」
 「ぼくは、お味噌汁。あさりの」
 その答えに、美沙は笑った。
 あさりの味噌汁――昔、夫がまだ生きていた頃、家族でよく食べた。
 忘れていた記憶の温度が、ふっと戻る。
 駅前の通りで、すれ違う人々がしろをちらりと見る。
 蓮は気にしない。
 「人が多いときはね、しろ、静かになるんだ」
 そう言って、胸の前でぎゅっと抱きしめた。
 まるで自分の心臓を確かめるように。
 その姿を見て、美沙は目を細めた。
 風が冷たくなってきた。
 並木の影が二人を包む。
 蓮は歩きながら、しろに語りかけている。
 「もうすぐおうち。ね、しろ」
 その声が、夜の気配に吸い込まれていく。
 ――やさしい声だ、と美沙は思った。
 息子が誰かを思いやる声を、久しぶりに聞いた。
 ほんとうに迎えてよかったのかもしれない。
 蓮にとって、しろはただのペットじゃない。
 言葉にならない部分を、そっと受け止めてくれる存在。
 そして、あの声は――その証のように、穏やかに夜へと消えていった。
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