EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第三話「声のない返事」

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 朝の光が障子のすき間から差し込む。ひんやりした空気に吐息が白い。鍋ではあさりの味噌汁が細く湯気を立てていた。
「できたよ、蓮。冷めないうちに」
 足音。蓮はもう着替え、髪を整え、両手に白い球体――しろを抱えている。
「おはよう、しろ」
「おはよう。……しろも食べる?」
「しろはゼリー。あとで」
 蓮はしろを座布団に置き、ちゃぶ台へ。ふたりと一匹の朝。整った家族の形が、音の少ない空気にすっと収まる。
「今日も連れていくの?」
「うん。学校じゃなくて、ちょっとお散歩」
「一緒に行こうか?」
 首が横に振られる。「だいじょうぶ。ぼくが見るから」
 数日前はうつむいていた子の目が、いまは正面を捉えている。美沙は湯呑を持ち、息を小さく吐いた。何かが変わっている――そう確かに思えた。
 朝食を終えると、蓮は鞄を背負い、しろを胸に抱いて出ていく。「いってきます」「気をつけて」
 戸を開ければ冷たい風。銀杏の黄が深まっていた。小さな背中が角を曲がるまで見送り、美沙は洗い物に戻る。水音がぱしゃぱしゃと手元で跳ねる。
 遠くで犬が吠えた。尾を引く異様な音。金属を擦るような響きが混じっている。窓から見下ろした通りは、いつもどおりの朝だった。
 十時過ぎ、電話が鳴る。小学校の表示。
「神原です」
『神原蓮くんのお母さまですね。今朝、登校前にお怪我を……』
 耳の奥が熱くなる。心臓の音が自分の内側で跳ねた。
『すぐに病院へ――』
 場所を聞いた瞬間、美沙は玄関へ走っていた。
 午後の陽が、病院のガラスを白く染める。
 処置を終えた蓮は個室のベッド。左腕は包帯とギプス。骨折は橈骨遠位端の単純骨折、整復済み。手術は不要――そう説明された。
「……お水、飲む?」
 右手でコップを持つ蓮の動きは落ち着いていた。あれほどの出来事の直後とは思えない顔。
「よく……がんばったね」
 言葉を探した末の一言。
「すごいよ、蓮。怖かったのに、守ったんだね」
 蓮はしばらく光を眺め、ぽつりと言う。
「しろは、なにもしてないよ」
 その名。
「ずっと見てた。動かなくて、でも怖がってもなかった。……だから、ぼくがやるしかないって思った」
 悲しみでも怒りでもない。決めた言葉のように、淡々と。幼い口から出るには硬すぎる“責任”の響き。
「しろは、どこ?」
 ベッド下のキャリーバッグがかすかに揺れ、半開きのチャックの奥から白い球体が顔を覗かせた。半透明の被毛の奥で、青白い“眼”のような部位がじっとこちらを見ている。
「……病室まで連れてきたのね」
 返事はない。蓮が小さく笑う。「大丈夫だったよ。受付の人、なにも言わなかった」
 看護師に見つかれば止められるかもしれない。けれど、今それを排除する気持ちにはなれなかった。
 しろは蓮を見、美沙を見た。獣の警戒でも恐れでもない。何かを“見定める”視線。
(この子は、怖がってない)
 胸に波紋が広がる。だが、蓮が身を張って守ろうとした事実だけが、思考を押し戻した。
「本当に、すごかったよ」
 重ねると、蓮は頷く。その目の芯は安堵でも誇りでもない、別の確かさで光っていた。
「しろは、強いよ。ぼくの気持ち、ちゃんとわかってるから」
 窓から斜陽。カーテンがかすかに揺れる。
 しろが動いた。バッグから這い出すと、包帯の上に身を寄せ、そこを“居場所”のように静止する。
 蓮は微笑んだ。「ね、やっぱりわかってる。……ずっと一緒にいるもん」
 美沙が頷いたとき、しろの“眼”がまっすぐこちらを向いた。音はない。空間そのものが、静かにこちらを“見ている”。
 退院は早かった。医師は子どもの回復力を語り、美沙は頷きながらも、どこか物事が急いている気がしていた。蓮は「早く帰りたい」を繰り返し、判断はすぐに下りた。
 午後、自室。蓮はスケッチブックを取り出し、右手だけで描き始める。傍らにはしろ。
「……描いてるの?」
「うん。しろのこと」
 紙には白い線が擦れ、影の跡だけが積もる。
「見せてくれる?」
「……まだ」
 子どもには、自分の時間がある。美沙はそれ以上踏み込まなかった。
 エキドナは足元に寄り添い、呼吸のように背を揺らす。蓮の手が動くたび、ふっと体が同じリズムで揺れた。
 夕方。洗濯物を取り込んでいると、背後に気配。
 振り返ると、蓮が洗濯バサミを一つ持って立っていた。
「どうしたの?」
 返事はない。瞳は手元と洗濯物の動きを見つめ続けている。手順を“学習”するように。
 違和感が胸をかすめ、すぐに消えた。
 夜。
 風呂上がりの蓮がソファで髪を押さえる。左腕のギプスが邪魔でうまく拭けない。足元にはしろ。テレビはついているが、誰も見ない。音だけが部屋を薄く満たす。
「今日は早く寝よう。疲れてるでしょ」
「……うん」
 素直な返事にほっとしつつ、美沙はふと気づく。
 ――怪我をしてから、この子は一度も泣いていない。
「……蓮」
 顔がゆっくりこちらを向く。
「しろが見てくれてたから。だから大丈夫だったよ」
 その一言に、応じる言葉が見つからなかった。確かに、どこへ行くにも、何をするにも、しろは“そばにいる”。存在を主張せず、音も立てず、ただ近くに。
 (……どうして、こんなに静かなんだろう)
 本来ペットは跳ね、じゃれ、反応で家の音を変えるはずだ。なのに――この子は静かすぎる。呼ばれずとも現れ、空気のように“そこにいる”。
 そして、時々。
 ――見ている。
 しろの“眼”がこちらに向いていた。白い毛の奥で青みの光がまたたき、まばたきもなく、音もなく。呼吸すら感じさせない視線に、美沙は背筋を伸ばした。
(気のせい)
 そう言い聞かせる。蓮は明るさを取り戻し、言葉も素直に返してくれる。いちばん大切なのは、それだ。いまは、それでいい。
 眠りにつく直前、美沙は“見られている”感覚に目を開けた。
 窓は閉じ、カーテンも下りている。リビングの明かりも寝室の扉も閉じている。
 それでも、確かに感じた。
 視線の気配。目でも音でも匂いでもないのに、存在だけがこちらへ向かってくる。
 静かな夜。
 誰の声もなく――視線だけが、夜の帳に潜んでいた。
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