EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第五話「ふたりの空白」

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 食卓に箸の音だけが響いていた。
 朝のリビング。窓からの光は静かで、週末の始まりのはずだった。けれど、決定的に欠けていた。言葉。呼吸。交わされるはずのあいさつや問いかけ。
 「……卵焼き、少し焦げちゃったかも」
 美沙がそう言ったのは、会話をつなぐより、空白を埋めたかったからだった。
 だが蓮は顔を上げない。皿に箸を伸ばし、何も言わず、反応もしない。
 食べ方はきちんとしている。手元は乱れず、咀嚼も丁寧。けれど“子供らしさ”はない。咀嚼音さえ薄く、ただ機械的に“動いている”印象。
 言葉は部屋の壁に吸い込まれていく。
 「蓮」
 名前を呼ぶと、ようやく顔を上げた。
 だが視線は美沙ではなく、隣の椅子に置かれた白いペット――“しろ”。
 「しろは、好き嫌いないから。全部食べられるんだよ」
 その一言に、美沙は返答のタイミングを失った。
 食べているのは蓮なのに、語りかけている相手が違う。
 「そう……でも、蓮もちゃんと食べてるから、えらいよ」
 繋ぎ直そうとした言葉も、また宙に浮く。
(私じゃない。私に話してない……)
 彼は視線を戻さない。しろを見つめたまま、淡々と箸を進める。
 エキドナは椅子の上にちょこんと乗っている。まるで“定位置”。「降ろしなさい」と言う理由すら奪われていた。
 静かで、清潔で、反応がないのに“そばにいる”。“育てやすい”の見本。
 だが、その沈黙が今は不気味だった。
 「……ねえ、蓮。最近、お母さんと話すこと、減ってると思わない?」
 ようやく絞り出した問いに、蓮は手を止める。
 顔はまだしろを見ていたが、返事の気配。
 「うん。……でも、この子が、話を聞いてくれるから」
 短く、それだけ。
 その言葉は、美沙の胸に深く刺さった。
 「お母さんも、話聞いてるよ。学校のこと、道場のこと、しろとどう過ごしてるか……全部、知りたいと思ってるのに」
 責めないよう柔らかく言葉を選ぶ。
 しかし蓮はまた、しろへ視線を戻し、小さく呟く。
 「この子は、何も言わなくても、わかってくれるんだよ」
 “わかってくれる”。“何も言わなくても”。
 その二語が、美沙を沈黙させた。
 「でも、話すって……気持ちを届けることでしょう?」
 「……ちがうよ。しろは、もう知ってるから」
 蓮はにこりともせず、ただ言う。
 違和感はないのに、感情を浮かべないぶん、“自信”すら見える声だった。
 美沙は小さく吐息をついた。
 会話は成り立っているようで、成立していない。
 蓮の言葉は美沙に届かず、美沙の声も蓮に届かない。
 互いの“言語”が、少しずつ別系統へ離れていくようだった。
 空白があった。
 以前なら笑い声や返事、質問が挟まった場所に。
 食卓の中央、器と器のあいだに、ぽっかりと。
 それは“会話のない朝”以上のもの。
 向き合っているのに、美沙は自分の姿が蓮の瞳に映っていない気がした。
 視線の奥には、しろがいる。
 言葉の向こうに、しろがいる。
 感情の隙間に、しろがいる。
 「……もう、行く時間ね」
 席を立つと、蓮も無言で従う。
 ランドセルを背負い、エキドナのバッグを抱え、玄関へ。
 靴を履き、ドアの前に立つ。
「いってきます。」
 その背中を、美沙は黙って見送った。
 足音は軽く、リズムも綺麗。
 だが、扉の外へ消えた姿は、何かを“連れて行った”というより――**何かに“ついて行った”**ように見えた。
 午後になっても、家の静けさは張りついたまま。
 蓮は帰宅後も、美沙とほとんど目を合わせない。どこへ行き、何をしていたかも語らず、ただ「うん」と「べつに」。
 食卓には蓮の好きなオムライス。トマトケチャップで名前を書こうとして、やめた。
(意味が、あるんだろうか)
 文字を書いても、反応があるとは限らない。伝えたいことがあっても届かない。むしろ言葉を使うたび、距離が開く。
 蓮は食事中ひと言も発さない。だが、完全な無表情でもない。
 食後、椅子から立つと、そばのしろを抱えて自室へ。
 その背中を、美沙は黙って見送る。
 日曜の午後。テレビの音はなく、洗濯機の回転音だけが小さく響く。
 ソファに座り、冷めた紅茶のカップを手に、何度目かの溜息。
(こんな時間、あっただろうか)
 かつては一緒に料理をし、買い物へ行き、ゲームをした。笑い、喧嘩し、泣いて、抱きしめた。
 その全部が今は思い出の中にあるだけ。
 今の蓮には“空白”がある。
 何も起きなかったのではない。“かつてあった何か”が、すっぽり抜けている。
 時間は共有しているのに、会話はなく、感情も伝わらない。
 隣にいながら、別の部屋にいるような――。
 ――トン。
 階段の上から、軽い足音がひとつ。
 蓮か、しろか、瞬時には判断できない。
(あの子は、いま――)
 “誰と”会話しているのだろう。
 美沙ではない。もう、長いことそうだった。
 それでも家の中には「会話のようなもの」があった。蓮としろのあいだに。
 蓮の口が、確かに動くときがある。
 だが声は出ない。
 唇だけが動き、音にならない。
(口の中で、なにか“渡して”いる……?)
 言葉にならない言葉。意味のない音。
 伝達ではなく、“感覚の共有”だけが成立している――そんな印象。
 蓮の行動には、そんな“抜け落ち”が増えた。
 説明も報告もなく、ただ行動が先にあり、調和や確認は後回し。
 それでも混乱は起きない。
 まるで蓮が生活そのものを“予測している”。
(ちがう、ちがう。私が――予測されてる)
 そうよぎった瞬間、背中に寒気。
 ――見られている。
 ――読まれている。
 部屋のどこにも視線はない。誰もいない。
 それでも美沙は確かに感じた。
(この家の中に、もう一人“気配”がある)
 呼吸でも体温でもない。
 もっと“乾いた”何か。
 思わず立ち上がり、階段に耳を澄ます。
 物音はない。だが、上階の空気が――異様に静か。
 蓮の部屋のドアは閉じられている。
 呼びかけようとして、やめた。
(……聞こえていても、返事はない)
 会話が成立しないのは“相手がいない”からではない。
 むしろ“別の相手がいる”。
 蓮にとって美沙は、もう“話しかける相手”ではない。
 何を言っても、どう返しても、話は“しろ”へ向かう。
(何が……あの子の中で起きてるの?)
 そう思った瞬間、ドアの内側から――“視線”が返ってくる感覚。
 目を合わせたわけではない。けれど確かに“見られていた”。
 その視線の先が蓮なのか、しろなのか。
 あるいは――両方でも、ないのか。
 玄関先で乾いた風がガラス戸を鳴らす。
 家の空気に、誰かの気配が混じっている。
 親子とは思えないほどの“間”が、そこにあった。
 だが、あまりにも静かで正確で、生活として成立しているため――その“空白”は誰にも気づかれないまま続いていた。
 夜になっても、蓮は自室から出てこない。
 美沙は何度か様子を見たが、返事はなく、ノブをひねる勇気も持てなかった。ドアの向こうに息子がいることはわかる。だが、それ以上確かめるべきか――判断できない。
 リビングの時計が22時を告げる。
 寝室の灯りを落としても、眠れない。
 布団の中で目を閉じるほど“音のなさ”が浮かび上がる。
 蓮の寝息は聞こえず、隣室の気配すら薄い。
 ――この家に、私と蓮は、本当に“ふたり”で住んでいるのだろうか。
 疑問がふとよぎる。
 数ヶ月前まで確かにあった“親子の空間”。会話、衝突、成長。
 それが自然に剥がれ落ち、今では“なくなったこと”にさえ気づきづらい。
(……これじゃ、だめだ)
 布団を跳ねのけ、立ち上がる。
 廊下をそっと進み、蓮の部屋の前で足を止める。
 呼吸を整え、ノック。
 「蓮、入っていい?」
 返事はない。美沙は静かにドアを開けた。
 部屋は暗い。カーテンは閉じられ、電気もついていない。
 それでも窓の隙間の街灯が室内の輪郭をうっすら浮かび上がらせる。
 蓮はベッドの上に座っていた。布団はなく、正座のような姿勢で、まっすぐ前を見つめる。
 膝の上には、しろ。
 しろは動かず、光も発さず、ただ体に沿って“いる”。
 「眠れないの?」
 問いかけても、蓮は答えない。
 「……今日は、ちょっとだけお話ししよう。蓮のこと、聞きたいの」
 近づきながら椅子を引く。
 「さっきお風呂のときも言わなかったね。今日、どこ行ってたの?」
 蓮は何も言わない。だが、顔を上げた。
 視線は美沙へ――ようでいて、焦点は肩の後ろ、もっと遠く。
 「……お母さんに、話してくれない?」
 蓮は首を少し傾ける。
 「なんで……お母さんじゃなくて、しろなの?」
 問いを変える。
 「しろとはちゃんと話してるのに。お母さんの言葉は、聞こえないの?」
 蓮の唇が、わずかに動く。
 しかし音は出ない。
 しろが美沙の方を見ていた。
 曖昧な輪郭の中、眼の反射が一瞬、光を帯びた気がする。
 「この子は、言わなくても、わかってくれるから」
 蓮が、ぽつり。
 美沙は言葉を失った。
 朝の食卓と同じ一言。同じ言い回し、響き、調子。
 まるで“決まった言葉”の再生。
 感情による応答ではなく、蓮の中で“記憶された応答”を呼び出している――そんな感覚。
 「蓮……ほんとうに、いま、ここにいる?」
 自分の声が誰か別の人の声のように聞こえた。
 蓮は、しろを抱いたまま動かない。
 視線はどこか一点へ吸い込まれている。
 部屋の空気が動かない。
 温度が変わらない。
 音が――消えている。
 美沙は立ち上がった。
 もう、何も言えない。
 これ以上どんな言葉を選んでも、それが“届く場所”はここにはない。
 ドアの外へ出ても、しばらく立ち尽くした。
 そして――背後から“視線”を感じた。
 振り向いても、何もいない。
 だが確かに、あの部屋に“もうひとつの目”が存在していた。
 蓮と、しろと、そして“何か”。
 かつて共有していた空間に、いまは空白だけが残っていた。
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