EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第十一話「言葉のない返事」

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 坂東は、紙コーヒー片手に古びた事務所の前に立った。三階踊り場の突き当たり、小さな配管扉をしばらく見つめる。呼び鈴は鳴らさず、ノックを二度。応答なし。軽くもう一度叩くと、金属が擦れる音、扉が少し開いた。
 「……坂東さん?」
 よれたワイシャツの中年が顔を出す。目の下の隈、震える手――だが情報屋としては使える。
 「例の土地の件」
 男は頷き、薄暗い部屋へ。壁沿いに書類、卓上には中古ノート。カビ臭い空気。
 「桜山の旧商業ブロック、やっぱ怪しい」男はUSBを差し出す。「土地台帳はあるが、三年前に“桜山まちづくり合同会社”へ。そこから吸収合併で――」
 「アジアンランドか」
 「早いな。けど今は別名で再編、実体不明。しかも“商業再開発準備地”のまま、計画なし」
 「持ってるだけ、か」
 「いや、もっと変だ」
 用途別区画図を広げる。旧モールの一角だけ名義変更が三年で五回、工事はゼロ。立入禁止の柵だけ。
 「……“メゾン・ラミア”が入ってる建物だな」
 「そう。なのにテナント契約は“個人名”。住民票も納税記録もなし。幽霊名義よ」
 坂東はUSBと地図を受け取り、立ち上がる。淀んだ空気に、見張られる気配が混じる。
 「気をつけろよ。あそこに近づいた何人か――」
 「わかってる」
 外へ出ると、明るさに目が眩んだ。生きた都市の匂いと音。だが同じ風景を、誰かと“同じ目”で見ている気配――共有ではない、“侵食”だった。
 「今日も……行きたくない?」
 白い朝の光。神原家のダイニングに湯気と沈黙。蓮はパジャマのまま前を見つめる。その先に、白い球体――エキドナ。見られるというより“包まれる”視線。
 「蓮」
 顔は上がるが、目は母を通り越え背後の壁へ。
 「……うん」
 意味を伴わない肯定が空中で消える。道場へ来なくなってから、髪も爪も自分で気にしない。
 「散歩、行こうか」
 蓮の眼がエキドナに触れる。白が小さく震え、蓮はぎこちなく立ち上がる。つるりと滑るように白が従った。
 「靴、履いて――」
 玄関で小さな足音、“カチャ”。鍵は自分で開けられた。ほんの数秒の遅れが胸を冷やす。
 歩道は誰もいない。蓮の足元に白が影のように寄り添い、重力を無視する滑りで進む。
 「夜は、道場にお客さんが来るかも」
 蓮の眉が微かに動くが、言葉はない。
 「お母さん、また道場開けてるからね」
 美沙を見る、ように見えて焦点は逸れる。
 「……うん」
 “返すべきタイミング”だけの音。エキドナがくるりと回り、蓮の歩幅と視線がそれに合う。美沙は半歩後ろでその背中を見守る。小さいのに、何かが貼りついた重さ。
 「……スーパー、寄ってもいい?」
 返事はないが、蓮は左へ折れた。――同意か反射か、判別できない。
 信号待ち。向かいに母と娘。ランドセルの少女が笑う。
 「ほんとうに、よくできたね」
 「ほんとうに、よくできたね」
 同じ言葉、同じ抑揚で重なる。次の笑い声まで“同じ”。母の顔には作り笑い、娘に喜びはない。音だけが感情を演じていた。
 蓮がそちらを“見る”。視線は宙に漂い、白い球体が小さく震えた。
 青になっても美沙は動けなかった。レジ袋の持ち手が指に食い込み、体温が戻る。親子は消えていたが、胸には湿った違和感が残る。――同じ声。同じ間。同じ笑い。偶然か? それとも街のどこかで“増えて”いるのか。
 昼下がりの雲が都市に蓋をする。蓮は帰るとテレビも見ず、和室で畳に座る。白は隣で丸まり、体温を吸うように静止。音より重い静けさが落ちる。
 ――変化だ。だが起点がわからない。蓮か。エキドナか。あるいは都市そのものの“空気”か。
 スマホに坂東のメッセージ。
 《土地の名義、アジアンランドに連なる。今夜話せる。契約が変だ》
 短文に圧力が宿る。“あの場所”――メゾン・ラミア。テナントのはずなのに、販売も飼育も曖昧。説明は受けた“はず”なのに手触りすら思い出せない。ここでは、何かが抜け落ちる。蓮もまた、何かを“失って”いる。
 「蓮」
 襖を開けると、蓮は膝を抱えて顔をうずめ、白は気配と溶け合うように寄り添う。
 「寒くない?」
 返事はない。代わりに白が波打つ――ふるえでも跳ねでもない、“同調”の動き。蓮の気配と完全に重なる。
 「夕飯、何が食べたい?」
 間を置く。蓮は顔を上げ、美沙を“かすめ”て視線が逸れる。
 「……なんでもいい」
 それは返事ではなく“応答”だった。美沙は静かに襖を閉める。
 窓の外。低い雲がゆっくり移動し、街全体が言葉を失い始めているように見える。遠くを母と子が並んで歩く。歩幅も肩のリズムもぴたり――ひとつの意識が二つの身体を動かすみたいだ。
 夜。坂東と会う約束を確かめ、着替える。鏡の前で口角が上がらない。“なんでもいい”が耳で反響する。あれは蓮の声か。“誰か”の声か。わからないまま時間が滑り、言葉から意味が剝がれていく予感だけが、静かに世界へ染みた。
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