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第十二話「巡る視線」
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金曜日の午後、神原道場の稽古が終わった後だった。
掛け声の余韻が畳に残る空間に、いつものように保護者たちの談笑が響いていた。だが、笑い声の隙間に混ざる“ある話題”が、美沙の耳に引っかかっていた。
「……うちの子も最近、なんていうか……目が、ちょっと怖いんですよ」
あかりの母親が、畳の端に座って、口をすぼめるようにしながら言った。
「うちも! それ言おうと思ってたんです。なんかこう……じっと見る感じっていうか、焦点が合ってるような合ってないような……」
そう返したのは、涼太の母親だ。お迎えのあとにたまに話す程度の関係だったが、今は二人の語気が揃いすぎていて、美沙は思わず手を止めた。
「そうそう。前までは目がきらきらしてたのに、今は、こう……なんて言えばいいのか、どこを見てるのかわかんないって感じで」
「表情も薄くなった気がして。まるで……」
ふたりの言葉がふっと止まった。最後の一語を言いかけて、互いの顔を見合ったのだ。
その一瞬の空白のなかに、名指ししがたい共通感覚が入り込んでいるようだった。
美沙は、飲み残した麦茶を一口だけ口に含み、ふたりの会話に無理なく加わる形で言った。
「それって、最近のことですか?」
あかりの母親が頷いた。
「うちはここ二、三週間です。最初はたまたまかと思ったんだけど……寝顔まで変わった気がして」
「目を閉じてても、“見てる”ような感じがするんですよね……うちも」
言葉は、誰かを責めるわけでもなく、ただ疑問の形をして漂っていた。
それがかえって、余計に美沙の中に残る。
蓮にも――似たような変化があることに、美沙は気づいていた。
表情が読めないのではない。感情の起伏そのものが、表面に浮かばなくなっているのだ。まるで、反応という行為自体が、時間の奥に沈んでいくように。
朝、「おはよう」と声をかければ、蓮はきちんと「おはよう」と返してくる。けれど、そこにこもるものがない。
目の奥で、何も動いていないのだ。
以前なら、声の調子や目線の動きで、「今日は機嫌がいい」「眠そうだ」「何かを言いたそう」といった微細な変化を感じ取ることができた。
だが今の蓮からは、“きっかけ”が返ってこない。
道場の稽古を終え、帰宅してからも、蓮は一言も喋らなかった。
おやつを出しても、テレビをつけても、反応は乏しい。ただ静かに、エキドナを膝の上に乗せ、指先で背を撫でるだけだった。
その手の動きには、妙な規則性があった。上下、左右、回転。決まった順序があるわけではないのに、どこかで見たようなリズム。そう、信号のような反復。
「蓮、ちょっと外の空気、吸わない?」
声をかけると、蓮は顔を上げた。
その瞬間、美沙は言葉を失いかけた。
目が合った――はずなのに、合っていない。
蓮の視線は、美沙の左肩あたりをすっと通り過ぎた。焦点が合っていないのではない。“見よう”としていない。
「……うん」
口だけが、反応を返した。
それは“返事”ではなかった。
単に、“応じるための音”だった。
買い物がてら、ふたりで近くの商店街を歩く。
道沿いの街路樹には、秋の風が触れていた。葉はまだ緑を保っていたが、枝先に混ざる赤みが、次の季節の予告のように目に留まった。
蓮は、エキドナを抱えるでもなく、足元に自然についてこさせるでもなく、ただ“同じ歩幅で”歩いていた。エキドナはすぐ後ろを、転がるように進んでいた。摩擦音もない。物音ひとつ立てず、気配を溶かすように。
店の前で立ち止まったとき、美沙は小さな違和感を覚えた。
蓮が見ていたのは、ウィンドウに映る自分の姿だった。鏡のようなガラスの向こう、無言で自分を見返す“もうひとりの自分”。
だが――。
その“映像のほう”が、ほんのわずかに、遅れて反応したように見えたのだ。
実際にはそんなことがあるはずがない。反射は即時の現象だ。だが、美沙は確かに、蓮の動きとガラスの中の蓮との間に、タイムラグのようなズレを感じた。
そしてその刹那――エキドナが、蓮の足元で小さく震えた。
街の気配が、少しずつ変わってきている。
人々の話し声が小さくなり、すれ違う親子の目線が、妙に似ている。
それは服装でも髪型でもない、“内側”の一致だった。
目が、似てくる。
焦点が、曖昧になっていく。
都市全体が、ひとつの“視線”を持ち始めているように――美沙は、そう思った。
掛け声の余韻が畳に残る空間に、いつものように保護者たちの談笑が響いていた。だが、笑い声の隙間に混ざる“ある話題”が、美沙の耳に引っかかっていた。
「……うちの子も最近、なんていうか……目が、ちょっと怖いんですよ」
あかりの母親が、畳の端に座って、口をすぼめるようにしながら言った。
「うちも! それ言おうと思ってたんです。なんかこう……じっと見る感じっていうか、焦点が合ってるような合ってないような……」
そう返したのは、涼太の母親だ。お迎えのあとにたまに話す程度の関係だったが、今は二人の語気が揃いすぎていて、美沙は思わず手を止めた。
「そうそう。前までは目がきらきらしてたのに、今は、こう……なんて言えばいいのか、どこを見てるのかわかんないって感じで」
「表情も薄くなった気がして。まるで……」
ふたりの言葉がふっと止まった。最後の一語を言いかけて、互いの顔を見合ったのだ。
その一瞬の空白のなかに、名指ししがたい共通感覚が入り込んでいるようだった。
美沙は、飲み残した麦茶を一口だけ口に含み、ふたりの会話に無理なく加わる形で言った。
「それって、最近のことですか?」
あかりの母親が頷いた。
「うちはここ二、三週間です。最初はたまたまかと思ったんだけど……寝顔まで変わった気がして」
「目を閉じてても、“見てる”ような感じがするんですよね……うちも」
言葉は、誰かを責めるわけでもなく、ただ疑問の形をして漂っていた。
それがかえって、余計に美沙の中に残る。
蓮にも――似たような変化があることに、美沙は気づいていた。
表情が読めないのではない。感情の起伏そのものが、表面に浮かばなくなっているのだ。まるで、反応という行為自体が、時間の奥に沈んでいくように。
朝、「おはよう」と声をかければ、蓮はきちんと「おはよう」と返してくる。けれど、そこにこもるものがない。
目の奥で、何も動いていないのだ。
以前なら、声の調子や目線の動きで、「今日は機嫌がいい」「眠そうだ」「何かを言いたそう」といった微細な変化を感じ取ることができた。
だが今の蓮からは、“きっかけ”が返ってこない。
道場の稽古を終え、帰宅してからも、蓮は一言も喋らなかった。
おやつを出しても、テレビをつけても、反応は乏しい。ただ静かに、エキドナを膝の上に乗せ、指先で背を撫でるだけだった。
その手の動きには、妙な規則性があった。上下、左右、回転。決まった順序があるわけではないのに、どこかで見たようなリズム。そう、信号のような反復。
「蓮、ちょっと外の空気、吸わない?」
声をかけると、蓮は顔を上げた。
その瞬間、美沙は言葉を失いかけた。
目が合った――はずなのに、合っていない。
蓮の視線は、美沙の左肩あたりをすっと通り過ぎた。焦点が合っていないのではない。“見よう”としていない。
「……うん」
口だけが、反応を返した。
それは“返事”ではなかった。
単に、“応じるための音”だった。
買い物がてら、ふたりで近くの商店街を歩く。
道沿いの街路樹には、秋の風が触れていた。葉はまだ緑を保っていたが、枝先に混ざる赤みが、次の季節の予告のように目に留まった。
蓮は、エキドナを抱えるでもなく、足元に自然についてこさせるでもなく、ただ“同じ歩幅で”歩いていた。エキドナはすぐ後ろを、転がるように進んでいた。摩擦音もない。物音ひとつ立てず、気配を溶かすように。
店の前で立ち止まったとき、美沙は小さな違和感を覚えた。
蓮が見ていたのは、ウィンドウに映る自分の姿だった。鏡のようなガラスの向こう、無言で自分を見返す“もうひとりの自分”。
だが――。
その“映像のほう”が、ほんのわずかに、遅れて反応したように見えたのだ。
実際にはそんなことがあるはずがない。反射は即時の現象だ。だが、美沙は確かに、蓮の動きとガラスの中の蓮との間に、タイムラグのようなズレを感じた。
そしてその刹那――エキドナが、蓮の足元で小さく震えた。
街の気配が、少しずつ変わってきている。
人々の話し声が小さくなり、すれ違う親子の目線が、妙に似ている。
それは服装でも髪型でもない、“内側”の一致だった。
目が、似てくる。
焦点が、曖昧になっていく。
都市全体が、ひとつの“視線”を持ち始めているように――美沙は、そう思った。
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