ピースアー 繕われた真実

ukon osumi

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第1章 呼び出しの声

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 午後一時を少し過ぎた。窓の外の光が強く、テーブルの上に置いたコップの縁が白く反射していた。居間の壁にかかった受話器のベルが三度、一定の間隔で鳴った。高瀬梨紗は椅子から立ち、右手で受話器を持ち上げた。線が軽く揺れ、プラスチック同士の擦れる小さな音がした。
「はい」
 落ち着いた女性の声が聞こえた。「クリーニングの〈ピースアー〉でございます。お預かりしているお品について、白石悠真さまにご連絡いたしました」
 梨紗の喉が一度だけ鳴った。受話器を持つ手に力が入る。視線が壁の時計に向かい、秒針が四つ進む間、口が開かなかった。
「……はい」
 声は低く出た。送話口に息が触れ、短いノイズが混じる。女性は続けた。「六月末にお預かりした品でございます。仕上がっておりますが、お引き取りがございません。」
「あ……はい」
「ご都合のよろしいときに、店頭でお名前をご提示ください。封はそのままにしてございます」
 玄関でサンダルを履くとき、踵のベルトがうまく収まらず、指先で押し直した。
 外は八月の熱気で、地面からの照り返しが足の甲を焼く。
 横断歩道の信号が青に変わる。数字が減っていくのを見て、思わず歩幅を広げた。
 渡りきるころには、息が少し上がっていた。
 商店街の入口で立ち止まると、氷を削る音と果物屋の呼び声が、熱気の中をまっすぐ抜けていった。

 〈ピースアー〉の庇は白い布地で、青い蝶が三つ並んでいた。押し戸を押すと鈴が二度鳴った。冷房の風が頬と首に当たり、皮膚の表面温度が下がる。店内は二十六度。奥の壁に銀色のパイプ棚があり、透明のビニール包みが等間隔で吊られている。蛍光灯の光がビニールに細い線を作り、左右に揺れていた。
 奥から小柄な老女が出てきた。白髪を後ろで束ね、藍色のエプロンを締めている。手の甲の皺の谷間に、染料の跡が細い筋として残っていた。
「いらっしゃいませ。〈ピースアー〉の飛本マニラーと申します」
 梨紗はカウンターに近づき、両手を揃えて軽く会釈した。「さきほど家の電話にご連絡をいただきました。高瀬と申します。白石悠真の…… 白石は亡くなりまして……」
 マニラーは頷き、棚の中段から古いビニール包みを取り出した。包みは角のテープが少し黄ばんでいる。封はまっすぐに貼られ、気泡はなかった。マニラーは包みをカウンターに置く前に、両手のひらで一度下から支え、角がつぶれないよう位置を調整してからそっと置いた。
「こちらでございます。六月末にお預かりしてました。」
 梨紗は頷き、包みの端に付いたタグを目で追った。印字は「白石」。その下の余白に、細いボールペンの字で「高瀬 梨紗」と書かれている。インクの黒がわずかに薄い。自分の筆圧の癖が出ていて、最後の「紗」の払いが長い。彼女は息を吸い、吐いた。右手の指先がビニールの表面に近づいたが、触れずに止まった。
「こちら、お持ち帰りになれます。ご希望であれば、改めてお清めも承ります」
 マニラーの声は低く、一定の速さで区切られていた。梨紗は包みの中の薄青い布が、ビニール越しにわずかに灰がかって見えるのを確かめた。黒いボタンが三つ、直線で並んでいる。折り目は崩れていない。
「……お清め、というのは」
「亡くなられた方のお召し物を、霊衣として洗い直すことです。普段の仕上げでは香りは使いません。霊衣のときだけ、桂皮と白檀の香を、最後に空気へくぐらせます。封は今ここで、承諾をいただいてから開けます」
 梨紗は顎を少し引き、目を瞬かせた。呼吸が一定に戻るまで二度、肩が小さく上下した。カウンターの木目に沿って視線が動き、節の位置で止まる。彼女は口を開きかけ、閉じ、再び開いた。
「そう……ですか……では、お願いします。霊衣で」
 マニラーは一度頷いた。頷く角度は小さく、戻る動きに無駄がない。引き出しから新しい伝票を取り出し、日付と時刻を記す。数字の縦線はほぼ同じ長さで、ペンの運びが乱れなかった。控えをちぎる線に沿ってまっすぐに破り、手前の紙だけを梨紗に差し出す。
「明後日の午後三時以降にお渡しできます。香りは一日置くと落ち着きます。料金は通常どおりですが、霊衣の香は追加はいただきません。うちの習いです」
「わかりました。明後日伺います」
 マニラーは包みの上に両手を重ね、静かに言った。「“ピースアー”はタイの言葉で蝶のこと。蝶は魂のかたちといわれます。霊衣の香は普段の仕事とは別です。お約束します。封は今、こちらで開けて、記録して、水に通します。香は最後に。人の手の温度を一度通してから」
 マニラーは伝票用紙を引き寄せ、ボールペンを取った。
「こちらに日付とお名前を記入いたしますね」
 紙の上にすばやく文字を書き、店名のスタンプを押す。
 青い蝶のマークが彫られたゴム版だ。
「これがうちの印です。〈ピースアー〉の蝶――お渡しの控えになります。明後日の午後三時以降にお越しください」
 梨紗は頷き、控えを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「はい。」
 マニラーは包みを丁寧に抱え、奥へ運んでいった。

 カウンターの端で、若い男性が順番を待っていた。肩に汗の輪が二つ。彼はスマートフォンの画面を下向きに持ち、視線を動かしていた。マニラーは「少しお待ちください」と指を一本立てて合図し、すぐに視線を梨紗へ戻した。
「ほかに、お困りのことはありますか」
「いえ。今日はそれだけで大丈夫です」
「承知しました。明後日の午後」
 会釈を交わし、梨紗は戸口へ向かった。鈴が鳴り、外の熱が一気に流れ込んだ。庇の青い蝶が風に合わせて上下する。額の汗を右手の甲で一度拭い、歩道へ出る。アスファルトの照り返しが強く、影が短い。商店街の音が流れる。かき氷機の音、段ボールを折る音、自転車のベル。歩幅は一定。ポケットの中で控えの紙がスマートフォンの端に触れ、薄い擦れる音がした。
 横断歩道の信号は赤で、数字は点灯していない。彼女は白線の手前で止まり、呼吸を整えた。右の掌を見た。さっきビニール越しに押さえた場所の温度はもう感じられなかったが、指先にはわずかな圧の記憶が残っていた。信号が青に変わり、歩行者が一斉に進み出す。梨紗も歩いた。足元の白線が等間隔で過ぎ、影がまた短くなった。
 家に戻ると、居間の受話器の位置はさっきと同じで、コードが小さくよれていた。彼女はコードのよれを左手の指で一度だけ伸ばし、止めた。時計の秒針は一定に進む。テーブルの上のコップの水面は静かだった。彼女は椅子に腰を下ろし、控えの紙を机の端にまっすぐに置いた。紙の角が机の縁と平行になるまで位置を調整し、手を離した。空調の音は弱い。八月の熱は変わらない。彼女は目を閉じずに、まばたきの間隔を整えた。呼吸はゆっくりと一定になった。机の端に差した光は白く、幅が細かった。
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