ピースアー 繕われた真実

ukon osumi

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第2章 香りの記憶

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 二日後の午後、雨は上がっていた。
 舗道の水は薄く、風の通る筋だけ乾いている。
 梨紗は「ピースアー」の扉を押した。鈴が一度だけ鳴り、店内の空気が外の湿気を押し返した。
 カウンターの奥で、マニラーが薄青のカーディガンを広げていた。
 光が繊維の上を滑り、肩の縫い目に沿って細い影を作っている。
 彼女は布を整え、指先で襟を軽く押さえた。
「お待たせしました」
 マニラーは穏やかに言い、布を台に置いた。
「乾きました。もう湿りません」
 梨紗はカウンターの縁に指を添え、布を見つめた。
 色は前よりも淡く、青が白に近づいている。
 手を伸ばすと、香りが先に届いた。桂皮の甘さ、白檀の静かな線。
「……香りが違いますね」
「ええ。霊衣の洗いでは、香りが“戻る”んです。
 落ちるのではなく、形を変える」
 マニラーは机の端の小皿を示した。
 底には乾いた粉の跡が薄く残っている。
「桂皮と白檀。今回も同じです」
「ありがとうございます」
 梨紗は深く息を吸った。
 香りは空気よりも軽く、胸の奥にまっすぐ入ってきた。
「窓は、半分で」
 マニラーは布の包みを渡しながら言った。
「風が勝つと、布が負けます」
 梨紗は一瞬、意味を測りかねた。
 けれど、その声の調子には冗談の色がなかった。
 包みを受け取りながら、梨紗は思う。
 “風が勝つ”――霊衣を洗う人の言葉だ。
 たぶん、風とは風そのものではなく、亡くなった人の気配のことなのだろう。
 強く吹けば、布の中に残った温度や香りが全部さらわれてしまう。
 残された人が触れるためのものが、跡形もなくなる。
 だから“布が負ける”。
 つまり――形ある記憶が、形のないものに負けるということだ。
 マニラーは麻紐を結びながら、ふと指を止めた。
 結び目の上で、白い指先が一瞬だけ揺れた。
 包みの上に落ちる光がその爪に反射し、短い線を描いて消える。
「残り方が変わっています。……時間が経つほど、意味が出る香りです」
 梨紗は顔を上げた。
 マニラーはそのまま視線を落とし、声を整えるように続けた。
「霊衣は、香りが“消える”んじゃないんです。
 着ていた人の体温が、少しずつ別の形に変わる。
 それが香りとして戻るんです。
 だから、残り方で気配が変わる」
 麻紐をもう一度軽く引く。
 結び目がわずかに沈み、音がした。
 細く、乾いた糸が擦れる音――それが最後の合図のようだった。
 マニラーは結びを確かめるように一呼吸置き、掌をそっと包みの上に乗せた。
 布の温度を測る手つきだった。
 その指先がほんのわずか動き、空気が沈む。
 香りが一度、濃くなり、それから静かに遠のく。
 包みは完成していた。
 それは洗い終えた布というより、言葉を閉じた記録のように見えた。
 梨紗は包みの上に視線を落とした。
「受け取ってから……どのくらいで、この香りは消えますか?」
 マニラーは少し間を置いて答えた。
「消えるというより、変わっていきます。
 香りは、布の中で形を変えながら残るんです」」
 マニラーは包みを梨紗に差し出した。
「では、また」
「はい。ありがとうございました」
 紙が衣服に擦れ、乾いた音を立てた。
 扉を押すと、光が差し込んだ。
 外の空気は冷たく、風が袖口を通り抜けた。
 梨紗は包みを受け取り、部屋に戻る。
 薄青の布から漂う香りが、心をざわめかせた。
 微かに、あの夜の風景が浮かぶ。
 机の上、照明の光、開かれる引き出し――。
 彼の手が紙の束を取り出す一瞬を、まざまざと見た気がした。
 瞬きすると、像は消えた。
 残ったのは、香りと、胸の奥のざわめき。
 指先の感覚が、まだあの夜の空気を覚えている。
 ダイニングテーブルの椅子に座ると、
 悠真がLPレコードをセットしているところだった。
 ターンテーブルが一度だけ鳴り、リストの「愛の夢第3番」が流れ出す。
 ピアノの旋律が、ゆっくりと空気を撫でる。
 悠真の横顔が、光の中に浮かぶ。
 いつものように、少し照れたような笑みだった。
「ねぇ?」
 梨紗は覗き込むように言った。
「お酒は、好きじゃなかったのよね」
 悠真は微笑んだ。
 その笑みが波のように歪み、音が遠のく。
 世界がぐにゃりとねじれ、光の粒だけが残る。
「お酒は好きじゃなかったのに」
 声が、どこかから戻ってきた。
 だがもう、そこには誰もいなかった。
 梨紗は両手で顔を覆った。
 涙がこぼれ、頬を伝い、テーブルの木目を濡らした。
「死ぬはずない……死ぬはずなんかなかったのに……」
 嗚咽の合間にも、ピアノの旋律だけが途切れずに流れ続けていた。
  梨紗は紙を折り、引き出しにしまった。
 閉じるとき、指先がわずかに震えた。
 彼が酒を口にする姿を、一度も見たことがない。
 仕事の打ち上げでも、ペットボトルの水を最後まで持っていた。
 その記憶が、香りの中でゆっくり浮かび上がる。
 カーディガンから流れる桂皮の甘さと白檀の線が、部屋の温度を変えていく。
 吸い込むたびに、胸の奥がわずかに痛んだ。
 指先を布の端に置くと、そこに熱があった。
 彼が着ていたときの温度が、まだ抜けきらないまま残っているようだった。
 なにかが違う――。
 その違いが、香りとともに静かに濃くなっていく。
 そして、言葉にならない形で、梨紗の中に沈んでいった。
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