ピースアー 繕われた真実

ukon osumi

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第五章「壊れた公式」

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 展示ホールの空気は、いつもよりも張りつめていた。天井から下がる横断幕には「ハイドリック DOT5.α 新製品発表会」と大きく刷られ、受付にはプレスパスと社内資料が整然と並ぶ。社員席と報道席のロープの向こう側で、カメラの三脚が直線を作っていた。壇上のスクリーンは黒い矩形のまま、いまや発表の時を待っている。
 高瀬梨紗は端の列に座り、膝の上で封筒を押さえていた。封筒の角は擦れており、指で押すと紙がわずかに沈む。壇上には社長、製造本部長の祐奈、協力者の草薙智久が並んでいる。左端の列には後藤猛、品質管理の平田浩二が並び、二人の肩はぎこちなく張っていた。祐奈の目だけは、やや血走っているようにも見えた。
 社長が立ち、挨拶を放った。「本日はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。我が社の新製品、ハイドリックDOT5.αを発表いたします」スライドが切り替わり、製品のロゴと仕様が白い文字で浮かんだ。記者のペン先が走り、カメラのレンズが光を拾う。
 祐奈が手を上げた。社長が一瞬視線を返す。祐奈はマイクを受け取り、声を落とした。「本日は発表にあたり、併せて品質に関わる重要な資料も提示いたします」会場がざわめく。壇上の草薙が盤のつまみを軽く操作すると、スクリーンの端に細い光の帯が走った。正面からはほとんど目立たないが、左端の席に寄った視線では、そこに淡い紙の繊維のような模様が浮かぶ。
 テーブルの隅で、ふっと小さな点が光った。点が紙の繊維に沿って滑るように走り、やがて縁から縁へと線を描く。平田が目を凝らし、身を乗り出す。後藤も眉を寄せて覗き込む。会場の多くはスライドに視線を戻しており、ざわめきの向こうで誰一人その小さな現象に気づいていない。
 光が膨らみ、黒い焔のような塊がゆっくり立ち上がる。揺らめきが布のように垂れ、厚みを増して人の輪郭を取っていった。輪郭の中に、白石悠真のような顔の影が浮かぶ。影は口を動かし、唇が言葉を形作る。
「……平田君……」
 声が、耳の奥を掠めるように落ちた。小さく、しかし確かな呼びかけだった。平田の肩が跳ね、後藤が顔を向ける。二人だけが、そこにあるものを見ている――梨紗には、その孤独が瞬時に分かった。彼らは周囲と時間軸を共有していない。壇上にも、報道席にも、ほかの誰にもその像は見えないらしい。
 後藤が小声で言った。「お、おい……誰も見えないのかよ……」
 平田は短く息を呑み、唇を震わせながら頷いた。「見えてますよ」
 黒い影の口元が再び動き、焔の端から数字の列が絹の糸のように吐き出される。指先がその数字列をなぞるように揺れ、紙面の数値と重なる。影の目がじっと二人を見据え、声が低く、だがはっきりと響いた。
「お前たちが、俺を殺したんだよな……」
 その言葉が二人の胸を打つと同時に、平田の顔の色が抜ける。彼の手がテーブルの紙の縁を強く握りしめ、爪が白くなる。後藤の指が名札の角を押し込み、唇を噛んで額の汗を拭った。二人の視線は映像と現実のあわいにあり、言葉を出すための最後の抵抗が崩れていくのが分かる。
 祐奈は淡々とスライドを送る。壇上では外部の鑑定書の表紙が表示され、赤字で「検出:エンジン油由来成分」と表示された。スクリーンに映る数字と、テーブルの隅で揺れ動く数字の列が、平田の中で繋がった瞬間が来た。
 平田の手がさらに力をこめ、声が震えて出る。「……試料を入れ替えた。間違いない」録音機のマイクが確実にその声を拾い、会場の空気が一瞬止まる。後藤の顔から血の気が引き、嗚咽を堪えるように両手で膝を押さえる。
 だが、その告白はまだ小さかった。映像はさらに顔の輪郭を明確にし、声がもう一度だけ二人に降りかかる。多少の強さを増したその囁きは、二人の心の奥にある罪の記憶をかき鳴らした。
「商品もDOT5と表記しているが、実際はDOT4だろう。数値を合わせたんだろう……」
 後藤の呼吸が荒くなり、椅子から立ち上がろうとする。壇上に向けて立ち上がった瞬間、周囲の視線が彼に向かった。カメラのレンズが一斉に収束する。後藤は空気の中に震える声を放った。
「……俺がやった。出荷リストを改ざんした。数字を加工して出荷したんだ」言葉は会場に落ち、驚きが波紋のように広がる。記者がマイクを突き出し、カメラがズームする。彼の顔は引きつり、言葉は続いた。「社長の意向があった。契約が切れると大口を失う、そう言われて、圧力に屈したんだ」
 社長の手が机を押さえ、指先が震える。壇上の祐奈の顔にだけ、冷たい光が走る。社長は短く息をつき、顔色を変えながら立ち上がる。彼の視線は床の一点に落ち、言葉を探す素振りを見せる。
 だがそのとき、会場の片隅で、後藤の言葉をきっかけにして平田が嗚咽を抑えきれなくなり、声を上げる。「振込も、受け取った。ファイル操作も、俺が保存した」声はかすれている。録音機のランプが激しく点滅し、誰かがスマートフォンで音声を拾い上げる。公開は瞬時だった。報道陣のマイクが次々と差し出され、後藤と平田は報道のど真ん中で、のたうち回るような形で自白を積み重ねた。
 社長は椅子の背に両手をかけ、顔を顰めると低く呟いた。「私も、結果として黙認した。指示までは……はっきりとは言っていない。だが、経営判断としての圧力をかけた事実はある」彼の声は嗄れている。カメラが彼の顔を追い、その表情は容赦なく世界へと伝わる。
 会場は瞬時に報道現場へと化した。マイクが乱立し、記者の質問が飛び交う。祐奈は壇上に立ち、微動だにせずマイクに向かって言葉を置いた。「ここで示したことは事実であり、我々は被害者のために真相を明らかにします」その声は揺れていないが、壇上の光景はもう発表会の場ではなかった。
 梨紗は膝の封筒を握りしめ、掌に残る紙の角を押す。胸の鼓動が速くなるのを感じるが、顔は動かさない。目の前で起きていることが真実ならば、それは救済でもあり、重い代償でもある。スクリーンの隅で揺れていた黒い影は、やがて薄れていった。だがその残像に依存していたのは、もはや映像ではなく、目の前で発せられた言葉だった。
 会場の外ではすでに配信の音が鳴り、スマートフォンの通知音が次々と重なった。誰かが法務に指示し、録音記録を確保する動きが見える。壇上のスクリーンには、提示された証拠のリストが静かに並んでいる。発表会は終わりを告げ、代わりに手続きと報道が始まった。
 梨紗は封筒を鞄に押し込み、立ち上がる。祐奈が小さく俯いて彼女に一瞥をくれ、梨紗は頷いた。会場の光が廊下へと伸び、外の空気が差し込む。何かが終わり、何かが始まる音がしていた。壇上のスクリーンの端に、草薙が淡く手を動かすのが見えた。だがその動きは既に重要ではなかった。会場には、人の言葉が確かに残っていた。
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