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異世界で、二人乗り 第一部
異世界で、二人乗り 第一部 第5話 「生きる準備」
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異世界で、二人乗り 第一部 第5話
「生きる準備」
結論を出すまでに、上杉は時間を使った。 使ったというより、時間に使われた。
森は、森だった。 境界がなく、管理されていない広がりがある。道は道として続いているようで、少し外れると草と土に飲まれる。
足元は柔らかいところと固いところが混在し、同じ速度で進めない。自分の知っている道では無い。明らかに人の手が入っていない。そしてその事が、精神を削る。
夜は長かった。 星が多い空の下で、上杉は眠るべきか、動くべきかを何度も迷った。迷って、動いて、戻って、また迷った。判断しないまま判断する癖だけが残る。
朝になっても、状況は改善しない。 見えるものが増えただけだ。見えるものが増えれば、希望が増えるはずだった。現実には、見えるものが増えるほど「知らない」が増えた。
森の匂い。草の匂い。湿った土。 そのどれもが、知っているようで違う。 上杉は自分の感覚が信用できなくなりかけて、やめた。信用できないと思い始めると、足元の石ころひとつにも躓く。
スマートフォンは役に立たなかった。 圏外のまま。GPSは掴まない。地図は白い。カメラは動くが、撮ったところで何にもならない。
ライトは夜の間に何度も使い、バッテリーは削れていった。数字が減るのが早い。数字が減るたび、心が落ちる。
ジュリオの燃料も同じだ。 ガソリン残量は、駅から自宅までの往復を前提にしている。最後に入れたのは先週の木曜だ。いつもなら、そろそろガソリン入れるか、と考える頃合いだ。
いまの世界で、どれだけ走れるかはわからない。走れば走るほど、帰還の可能性は落ちる。もっとも、そもそも帰還の道がない。
上杉は、自分が何度も同じところを回っていることに気づいた。 木の形。苔のつき方。岩の割れ目。 目印になるものを探し、記憶し、それを頼りに戻る。戻って、また違う方向へ行く。それを繰り返すうちに、森の中に「拠点」が必要だという結論が浮かび上がった。
結論は感情から出したものではない。上杉が普段やっているのと同じだ。 資源が限られている状況で、最も致命的なのは「移動の浪費」だ。移動は体力を削り、危険を増やし、判断を鈍らせる。
判断が鈍れば、さらに危険が増える。悪循環は止めなければならない。
まず、生活を成立させる。 脱出策は、出てきてから探す。探すためには、今日を生き延びなければならない。
上杉は、それを「最適解」と呼んだ。 胸を張れる言葉ではない。だが、これ以上悪くしないための言葉だ。
水が必要だった。 水がある場所は、人も動物も寄る。危険も増えるが、利点の方が大きい。上杉は森を進み、耳を澄ませ、流れの音を探した。
時間がかかった。歩いている間、喉が乾き、頭がぼんやりする。乾きは判断を狂わせる。上杉は自分に何度も言い聞かせた。焦るな。急ぐな。最悪の判断を避けろ。
やがて、かすかな音がした。 水が石に当たる音。音は遠くでも嘘をつかない。
草を分け、低い斜面を下ると、小川があった。 幅は狭いが、流れは途切れていない。水は透明で、底の小石が見える。東京の川よりずっと小さいのに、ずっと「川らしい」。人工の輪郭がない。
上杉はしゃがみ、手を伸ばした。冷たい。飲みたくなる。 だが、飲んではいけない。細菌、寄生虫、何がいるかわからない。飲めば終わる可能性がある。
上杉はジュリオのメットインを開け、持ち物を確認した。 財布。鍵。社員証。役に立たないものが、きちんと役に立たない形で揃っている。 ペットボトルはない。水筒もない。
上杉は考えた。 熱源がない。火がない。沸かせない。なら、火を作る必要がある。だが火を作る道具がない。
今日この瞬間に、火を作ることは難しい。 難しいものは後回しにする。管理職の癖だ。癖はこういう時、助けになる。
上杉はまず、小川の近くに休める場所を探した。 地面が乾いているところ。風が強すぎないところ。視界が広いところ。背後を取られにくいところ。 いくつか条件を並べ、歩いて確認した。
小川の少し上流に、平らな場所があった。 大きな木が一本、傘のように葉を広げている。根元は少し盛り上がり、背中を預けられる。真上からの雨は防げないが、夜露は多少しのげそうだ。 何より、小川が見える。音が聞こえる。水の存在は安心に直結する。安心が必要だ。安心がないと、眠れない。
上杉はそこを「拠点」と決めた。決めた瞬間、心が少し軽くなる。 場所に名前を付けたわけではない。それでも「ここ」と言えるものができた。
ジュリオを近くに停め、メットインの中身をもう一度覗く。 何か役に立つものがないか。
ない。あるのはいつものものだけだ。
上杉は森の中を歩き、落ち葉を集めた。 乾いた枝も拾った。 焚き火の準備だけはしておく。火がないなら、準備で差をつける。
他社との競合は、こういう事を出来るか出来ないか、勝敗の分かれ目になることがある。
差をつけるという言い方が、ここでは滑稽だが、考え方は変えられない。
腹が減った。昨日の夜からまともに食べていない。 上杉は空腹を「問題」として扱った。問題は、切り分けて解く。感情にしない。
食料。 この森に何があるか、知らない。知らないものは、危険だ。
上杉は周囲を歩き、目についた実を探した。 何も考えずに口に入れるのは論外だ。だが、何も食べなければ体が持たない。
しばらく歩くと、低い木に果実が木に生っているのを見つけた。 赤と黄の間の色。りんごくらいの大きさ。表面はつやがある。香りが強いわけではない。 危険そうな色ではない、という判断は、経験に頼りすぎだ。だが頼れるものが少ない。
上杉は一つもいだ。 手の中で重みを確かめる。皮を指で擦り、傷がつくかを見る。 つく。柔らかすぎない。固すぎない。
口に入れる前に、少しだけ舌で触れた。苦味がない。刺激がない。 それでもまだ不安は消えない。
上杉は息を吐き、ほんの小さくかじった。 果肉が割れ、汁が滲む。甘酸っぱかった。 思ったより甘い。酸味がきちんとある。 そして――美味しい。
美味しい、と感じた瞬間、身体が反応した。 空腹は理屈ではない。食べ物が入ると、体が先に「生きる」と言う。
上杉は慎重に、少しずつ食べた。 異常が出ないか、喉が痛くならないか、腹が捻れないか、確かめながら。 問題は起きない。果実は、ただ美味しかった。
拠点に戻り、小川の水を見た。飲みたい。だが飲めない。 上杉は手を洗い、口をゆすぐ程度に留めた。喉の乾きは残る。残るが、耐えるしかない。
日が傾く頃には、スマートフォンのバッテリーが目に見えて減っていた。 数字が赤に近づく。 上杉は電源を落とした。 使わないことで守る。守っても、いつか尽きる。尽きる前提で動くしかない。
夜が来る。 森の夜は早い。暗くなると、危険が増える。
火が欲しかった。 暖かさのためではない。 光のためだ。動物避けのためだ。心を保つためだ。 火は、原始的な安心だ。
上杉は、火をつける道具がない現実を思い出し、歯を噛んだ。 ない。 ないのに、欲しい。 欲しいと思った瞬間、頭のどこかが、変な方向に動いた。
――ある気がする。
上杉は一度、その感覚を否定した。 疲れている。空腹だ。森だ。 現実逃避で都合のいい妄想が出ただけだ。
それでも感覚は消えない。
――ある気がする。 ――ジュリオのメットインに。 ――オイルライター。
馬鹿げている、と上杉は思った。 タバコは吸わない。自宅にあるのかも怪しい。 オイルライターを持ち歩く理由がない。 そもそも、ジュリオに入れた覚えがない。
覚えがない。 それなのに、ある気がする。
上杉は立ち上がり、ジュリオのメットインを開けた。 暗いので、スマートフォンのライトを一瞬だけ点ける。 光がメットインの中を照らす。
そこに、オイルライターがあった。
上杉は手を止めた。 見たことがない。 自分のものではない。 けれど、そこにあることが「当然」のように感じる。
指先で持ち上げると、ずしりと重い。 金属の冷たさ。蓋を開ける感触。火を点ける音。
上杉は、息を止めたまま、火を点けた。 橙色の炎が小さく揺れる。
炎が揺れた瞬間、現実が一段はっきりした。 火は、嘘をつかない。 燃えるものがあって、酸素があって、熱があれば燃える。 世界が変わっても、燃焼の理屈は変わらない――はずだ。
上杉は準備していた落ち葉や枝に火をる。小さな焚き火が出来上がった。
準備で差をつける。相手はいないけど、勝った気がした。
焚き火の火が安定して来た。胸の奥が緩む。緩むことが、怖くない。今は緩んでいい。
そして上杉は、もう一つの違和感に気づいた。 オイルライターの隣に、小さな鍋がある。
キャンプ用の、取っ手の折りたためる小鍋。 見覚えがある。 確かに自宅にあった。 だが、ジュリオに入れた覚えはない。入れたとしても、入れっぱなしにするような物ではない。
上杉は鍋を持ち上げた。 軽い。 煤の跡もない。新品に近い。
喉が渇いている。 水を沸かせる。
上杉は小川へ行き、鍋に水を汲んだ。 焚き火の上に石で鍋を置けるようにする。 炎が鍋を舐め、やがて水面が揺れ始める。 泡が立つ。湯気が上がる。
上杉は湯気を見つめた。 湯気は都市でも見る。 だが森で見る湯気は、生活そのものに見える。
沸いた湯を少し冷まし、口に含む。 熱い。それが良い。 胃の奥に落ちていく感覚が、生きている実感に直結する。
上杉は、りんごのような甘酸っぱい果実を取り出し、焚き火のそばで食べた。 湯を飲み、果実を食べる。 それだけで、身体が保たれる。
豊かではない。 だが、最低限の生活は成立する。
上杉は焚き火を見つめながら、結論をまとめた。 最適解はこれだ。 脱出方法が見つかるまで、ここで生活を組み立てる。 動き回るのは危険だ。燃料も電池も尽きる。 だが拠点があれば、探索は計画的にできる。 計画的なら、判断を誤りにくい。
会社で「暫定対応」と呼んでいたものに似ている。 暫定は、永遠になり得る。永遠にしたくはない。 けれど、今日を越えるためには暫定が必要だ。
火が揺れる。 森の音が少しだけ遠のく。 上杉は背中を木に預け、目を閉じた。
眠りは浅かった。夜の間に何度も目が覚める。 獣の気配がした気がして、耳を澄ます。 風が枝を揺らしただけだとわかっても、胸の鼓動はしばらく戻らない。
「生きる準備」
結論を出すまでに、上杉は時間を使った。 使ったというより、時間に使われた。
森は、森だった。 境界がなく、管理されていない広がりがある。道は道として続いているようで、少し外れると草と土に飲まれる。
足元は柔らかいところと固いところが混在し、同じ速度で進めない。自分の知っている道では無い。明らかに人の手が入っていない。そしてその事が、精神を削る。
夜は長かった。 星が多い空の下で、上杉は眠るべきか、動くべきかを何度も迷った。迷って、動いて、戻って、また迷った。判断しないまま判断する癖だけが残る。
朝になっても、状況は改善しない。 見えるものが増えただけだ。見えるものが増えれば、希望が増えるはずだった。現実には、見えるものが増えるほど「知らない」が増えた。
森の匂い。草の匂い。湿った土。 そのどれもが、知っているようで違う。 上杉は自分の感覚が信用できなくなりかけて、やめた。信用できないと思い始めると、足元の石ころひとつにも躓く。
スマートフォンは役に立たなかった。 圏外のまま。GPSは掴まない。地図は白い。カメラは動くが、撮ったところで何にもならない。
ライトは夜の間に何度も使い、バッテリーは削れていった。数字が減るのが早い。数字が減るたび、心が落ちる。
ジュリオの燃料も同じだ。 ガソリン残量は、駅から自宅までの往復を前提にしている。最後に入れたのは先週の木曜だ。いつもなら、そろそろガソリン入れるか、と考える頃合いだ。
いまの世界で、どれだけ走れるかはわからない。走れば走るほど、帰還の可能性は落ちる。もっとも、そもそも帰還の道がない。
上杉は、自分が何度も同じところを回っていることに気づいた。 木の形。苔のつき方。岩の割れ目。 目印になるものを探し、記憶し、それを頼りに戻る。戻って、また違う方向へ行く。それを繰り返すうちに、森の中に「拠点」が必要だという結論が浮かび上がった。
結論は感情から出したものではない。上杉が普段やっているのと同じだ。 資源が限られている状況で、最も致命的なのは「移動の浪費」だ。移動は体力を削り、危険を増やし、判断を鈍らせる。
判断が鈍れば、さらに危険が増える。悪循環は止めなければならない。
まず、生活を成立させる。 脱出策は、出てきてから探す。探すためには、今日を生き延びなければならない。
上杉は、それを「最適解」と呼んだ。 胸を張れる言葉ではない。だが、これ以上悪くしないための言葉だ。
水が必要だった。 水がある場所は、人も動物も寄る。危険も増えるが、利点の方が大きい。上杉は森を進み、耳を澄ませ、流れの音を探した。
時間がかかった。歩いている間、喉が乾き、頭がぼんやりする。乾きは判断を狂わせる。上杉は自分に何度も言い聞かせた。焦るな。急ぐな。最悪の判断を避けろ。
やがて、かすかな音がした。 水が石に当たる音。音は遠くでも嘘をつかない。
草を分け、低い斜面を下ると、小川があった。 幅は狭いが、流れは途切れていない。水は透明で、底の小石が見える。東京の川よりずっと小さいのに、ずっと「川らしい」。人工の輪郭がない。
上杉はしゃがみ、手を伸ばした。冷たい。飲みたくなる。 だが、飲んではいけない。細菌、寄生虫、何がいるかわからない。飲めば終わる可能性がある。
上杉はジュリオのメットインを開け、持ち物を確認した。 財布。鍵。社員証。役に立たないものが、きちんと役に立たない形で揃っている。 ペットボトルはない。水筒もない。
上杉は考えた。 熱源がない。火がない。沸かせない。なら、火を作る必要がある。だが火を作る道具がない。
今日この瞬間に、火を作ることは難しい。 難しいものは後回しにする。管理職の癖だ。癖はこういう時、助けになる。
上杉はまず、小川の近くに休める場所を探した。 地面が乾いているところ。風が強すぎないところ。視界が広いところ。背後を取られにくいところ。 いくつか条件を並べ、歩いて確認した。
小川の少し上流に、平らな場所があった。 大きな木が一本、傘のように葉を広げている。根元は少し盛り上がり、背中を預けられる。真上からの雨は防げないが、夜露は多少しのげそうだ。 何より、小川が見える。音が聞こえる。水の存在は安心に直結する。安心が必要だ。安心がないと、眠れない。
上杉はそこを「拠点」と決めた。決めた瞬間、心が少し軽くなる。 場所に名前を付けたわけではない。それでも「ここ」と言えるものができた。
ジュリオを近くに停め、メットインの中身をもう一度覗く。 何か役に立つものがないか。
ない。あるのはいつものものだけだ。
上杉は森の中を歩き、落ち葉を集めた。 乾いた枝も拾った。 焚き火の準備だけはしておく。火がないなら、準備で差をつける。
他社との競合は、こういう事を出来るか出来ないか、勝敗の分かれ目になることがある。
差をつけるという言い方が、ここでは滑稽だが、考え方は変えられない。
腹が減った。昨日の夜からまともに食べていない。 上杉は空腹を「問題」として扱った。問題は、切り分けて解く。感情にしない。
食料。 この森に何があるか、知らない。知らないものは、危険だ。
上杉は周囲を歩き、目についた実を探した。 何も考えずに口に入れるのは論外だ。だが、何も食べなければ体が持たない。
しばらく歩くと、低い木に果実が木に生っているのを見つけた。 赤と黄の間の色。りんごくらいの大きさ。表面はつやがある。香りが強いわけではない。 危険そうな色ではない、という判断は、経験に頼りすぎだ。だが頼れるものが少ない。
上杉は一つもいだ。 手の中で重みを確かめる。皮を指で擦り、傷がつくかを見る。 つく。柔らかすぎない。固すぎない。
口に入れる前に、少しだけ舌で触れた。苦味がない。刺激がない。 それでもまだ不安は消えない。
上杉は息を吐き、ほんの小さくかじった。 果肉が割れ、汁が滲む。甘酸っぱかった。 思ったより甘い。酸味がきちんとある。 そして――美味しい。
美味しい、と感じた瞬間、身体が反応した。 空腹は理屈ではない。食べ物が入ると、体が先に「生きる」と言う。
上杉は慎重に、少しずつ食べた。 異常が出ないか、喉が痛くならないか、腹が捻れないか、確かめながら。 問題は起きない。果実は、ただ美味しかった。
拠点に戻り、小川の水を見た。飲みたい。だが飲めない。 上杉は手を洗い、口をゆすぐ程度に留めた。喉の乾きは残る。残るが、耐えるしかない。
日が傾く頃には、スマートフォンのバッテリーが目に見えて減っていた。 数字が赤に近づく。 上杉は電源を落とした。 使わないことで守る。守っても、いつか尽きる。尽きる前提で動くしかない。
夜が来る。 森の夜は早い。暗くなると、危険が増える。
火が欲しかった。 暖かさのためではない。 光のためだ。動物避けのためだ。心を保つためだ。 火は、原始的な安心だ。
上杉は、火をつける道具がない現実を思い出し、歯を噛んだ。 ない。 ないのに、欲しい。 欲しいと思った瞬間、頭のどこかが、変な方向に動いた。
――ある気がする。
上杉は一度、その感覚を否定した。 疲れている。空腹だ。森だ。 現実逃避で都合のいい妄想が出ただけだ。
それでも感覚は消えない。
――ある気がする。 ――ジュリオのメットインに。 ――オイルライター。
馬鹿げている、と上杉は思った。 タバコは吸わない。自宅にあるのかも怪しい。 オイルライターを持ち歩く理由がない。 そもそも、ジュリオに入れた覚えがない。
覚えがない。 それなのに、ある気がする。
上杉は立ち上がり、ジュリオのメットインを開けた。 暗いので、スマートフォンのライトを一瞬だけ点ける。 光がメットインの中を照らす。
そこに、オイルライターがあった。
上杉は手を止めた。 見たことがない。 自分のものではない。 けれど、そこにあることが「当然」のように感じる。
指先で持ち上げると、ずしりと重い。 金属の冷たさ。蓋を開ける感触。火を点ける音。
上杉は、息を止めたまま、火を点けた。 橙色の炎が小さく揺れる。
炎が揺れた瞬間、現実が一段はっきりした。 火は、嘘をつかない。 燃えるものがあって、酸素があって、熱があれば燃える。 世界が変わっても、燃焼の理屈は変わらない――はずだ。
上杉は準備していた落ち葉や枝に火をる。小さな焚き火が出来上がった。
準備で差をつける。相手はいないけど、勝った気がした。
焚き火の火が安定して来た。胸の奥が緩む。緩むことが、怖くない。今は緩んでいい。
そして上杉は、もう一つの違和感に気づいた。 オイルライターの隣に、小さな鍋がある。
キャンプ用の、取っ手の折りたためる小鍋。 見覚えがある。 確かに自宅にあった。 だが、ジュリオに入れた覚えはない。入れたとしても、入れっぱなしにするような物ではない。
上杉は鍋を持ち上げた。 軽い。 煤の跡もない。新品に近い。
喉が渇いている。 水を沸かせる。
上杉は小川へ行き、鍋に水を汲んだ。 焚き火の上に石で鍋を置けるようにする。 炎が鍋を舐め、やがて水面が揺れ始める。 泡が立つ。湯気が上がる。
上杉は湯気を見つめた。 湯気は都市でも見る。 だが森で見る湯気は、生活そのものに見える。
沸いた湯を少し冷まし、口に含む。 熱い。それが良い。 胃の奥に落ちていく感覚が、生きている実感に直結する。
上杉は、りんごのような甘酸っぱい果実を取り出し、焚き火のそばで食べた。 湯を飲み、果実を食べる。 それだけで、身体が保たれる。
豊かではない。 だが、最低限の生活は成立する。
上杉は焚き火を見つめながら、結論をまとめた。 最適解はこれだ。 脱出方法が見つかるまで、ここで生活を組み立てる。 動き回るのは危険だ。燃料も電池も尽きる。 だが拠点があれば、探索は計画的にできる。 計画的なら、判断を誤りにくい。
会社で「暫定対応」と呼んでいたものに似ている。 暫定は、永遠になり得る。永遠にしたくはない。 けれど、今日を越えるためには暫定が必要だ。
火が揺れる。 森の音が少しだけ遠のく。 上杉は背中を木に預け、目を閉じた。
眠りは浅かった。夜の間に何度も目が覚める。 獣の気配がした気がして、耳を澄ます。 風が枝を揺らしただけだとわかっても、胸の鼓動はしばらく戻らない。
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※表紙は現在の主人公のイメージ図です。もしまた別の国へ行く場合、彼女の装いも変化するかもしれません。
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