58 / 59
絶海の人魚
絶海の人魚
しおりを挟む数時間後、六角形の大岩の正面。
「あれ……。これってもしかして……? 落としたのに気付かないで帰ってしまったのかな」
平たい岩の上に置かれたブローチに手を伸ばしたのは、淡い黄緑色の鱗を持つ人魚でした。彼は背後の大岩と同じ形をした落とし物を見つけ、すぐにその持ち主に思い当たったのです。
「今度会ったら渡してあげないと」
公務の間に空き時間ができた彼は、彼女と会えるかもしれないと期待して、待ち合わせ場所まで急いでやってきました。彼女の姿はありませんでしたが、残された落とし物は彼女が最近ここを訪れたという事を示しています。申し訳なく思うと同時に、会いたいと思ってくれた彼女への愛しさが込み上げてきた彼は、口元に微笑を浮かべました。
「でも、海の中で保管しておくのはまずいか。防水技術もまだまだ発展途上だし。毛嫌いしてないで、海の上の技術を参考にすればいいのに……。って、いまはそんなことより、この忘れ物をどうするかだった。持ち帰るのはなしとして」
彼は独り言の多いほうではありませんが、ここにいるときは彼女がいるかのように話すのが習慣になっていました。傍から見れば不審だとしても一向に構わなかった彼は、普段の声量で明朗に語ります。
「かといって、ここに置いたまま何日も経ったとしたら? 光り物が好きな鳥に持っていかれてしまうかな。…………さすがにそうなる前に気付くか。『おばあちゃん』からの大切な贈り物だ」
彼は元あった位置にブローチを戻しました。同時に、それを着けている彼女の姿を思い浮かべます。簡素で動きやすい服装を好んでいる彼女ですが、華美な装いも嫌味なく着こなす事ができるだろうと彼は常々思っていました。彼女は容姿にコンプレックスを持っているようでしたが、ひたむきな美しさは他の追随を許しません。
「ドレスを着たところも見てみたいな。なんて、本人がいないのに言ってもね。今度、お願いしてみてもいいかもしれないな」
人間と違って着飾るのが難しい彼は、彼女のセンスをとやかく言うつもりはありませんでしたが、声に出してしまえば、おめかしをした愛しい人をひと目見てみたいという気持ちがますます募っていきます。
「君がいちばん好きって言ってた紫色のドレスがいい。そしたら、形だけでも結婚式が……。いや、動きにくい恰好でここまで来させるのも悪いか。なにを着ていたって君の美しさは変わらないし。いまでも会ってくれてる事に感謝しないと」
『結婚』というワードを口にすると切なさが襲って、思い出したくもない取り決めに対する恨み言を垂れてしまいます。
「国に貢献することで、無理矢理結婚させられずに済んだはいいけど……交換条件が『他の誰とも婚姻を結ばない事』だなんてね。そんなに僕が気に入らないか……。持ち上げるだけ持ち上げておいて、国交正常化を掲げた途端に異分子扱いされるとは思っていなかったよ。姉さん……じゃない、現国王は理解してくれているし、尽力してくれてもいるけど、頭の固い人魚が多くて困る」
彼は生まれ育った故郷を愛していましたが、中枢に蔓延る旧時代的な価値観に縛られたままの者たちを疎ましく思う気持ちがあったのも事実です。何度説得を試みても手応えなどまるでなく、彼らがいなくなるのが隣国との国交正常化への最短距離なのではないかと思い詰めるほどに。
「いつまで無意味な対立を続けるつもりなんだ。すぐに仲良くというわけにはいかないとしても、和解を望む国民も増えてきたのに。私は王にだってならなかった。これ以上なにを差し出せば、自由が手に入る? …………無理か。王族に生まれた時点で、そんなものを切望するのもおかしいのかな」
人魚は募る苛立ちから爪のあいだに挟んだ鱗を引き抜きます。彼はストレスで自身の鱗を剥がしてしまう事がありました。目を凝らすと、彼女に見えにくい裏側ばかりがところどころ抜けているのです。
「痛っ……。君に噛み付かれるのは痛くなかったのに」
肩の肉を齧り取られたときですら、そうでした。それどころか、種族の違いから生殖行為に準ずる愛情表現を避けていた彼にとって、自身の体の一部を彼女が受け入れる事になったあの事故は、いたく甘美なものだったのです。
「僕は君と結婚したいだけだ。愛するひとと添い遂げたいだけなのに。捨てていいなら、立場もこの体も……命だって惜しくないのに。君と一緒になれるなら。これ何回も聞かせちゃったな。……でも、言うたびに怒ってくれるから、投げ出すわけにもいかないね。なんて、夢を捨てられない男の言い訳かな。僕は君に甘えてばかりだ」
彼女はいつも言っていました。『お互い、大切なものが他にもある。その事がたまに寂しくもなるけど、どれも切り捨てないあなたを……世界ごとわたしを愛してくれるあなたを愛してる』と。その台詞を疑った事はありませんが、寂しくさせてしまっている自覚はありました。
「できるだけ早く会えるといいけれど、僕たちにはまだまだ時間がある。生活が落ち着いたら、また会おうね」
淡い黄緑色の鱗を持つ孤独な人魚は力強く言いました。永遠に訪れることのない一方的な約束は、波間に消えていきます。
「…………ごめんね、人間の男じゃなくて」
と、消え入りそうな声で呟いた彼は、遠く離れた故郷へと帰っていきます。夕陽も、彼女も、深い深い海に沈んだあとのことでした。
END
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる