うつろな夜に

片喰 一歌

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絶海の人魚

絶海の人魚

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 数時間後、六角形の大岩の正面。
 
「あれ……。これってもしかして……? 落としたのに気付かないで帰ってしまったのかな」

 平たい岩の上に置かれたブローチに手を伸ばしたのは、淡い黄緑色の鱗を持つ人魚でした。彼は背後の大岩と同じ形をした落とし物を見つけ、すぐにその持ち主に思い当たったのです。

「今度会ったら渡してあげないと」

 公務の間に空き時間ができた彼は、彼女と会えるかもしれないと期待して、待ち合わせ場所まで急いでやってきました。彼女の姿はありませんでしたが、残された落とし物は彼女が最近ここを訪れたという事を示しています。申し訳なく思うと同時に、会いたいと思ってくれた彼女への愛しさが込み上げてきた彼は、口元に微笑を浮かべました。

「でも、海の中で保管しておくのはまずいか。防水技術もまだまだ発展途上だし。毛嫌いしてないで、海の上の技術を参考にすればいいのに……。って、いまはそんなことより、この忘れ物をどうするかだった。持ち帰るのはなしとして」

 彼は独り言の多いほうではありませんが、ここにいるときは彼女がいるかのように話すのが習慣になっていました。傍から見れば不審だとしても一向に構わなかった彼は、普段の声量で明朗に語ります。

「かといって、ここに置いたまま何日も経ったとしたら? 光り物が好きな鳥に持っていかれてしまうかな。…………さすがにそうなる前に気付くか。『おばあちゃん』からの大切な贈り物だ」

 彼は元あった位置にブローチを戻しました。同時に、それを着けている彼女の姿を思い浮かべます。簡素で動きやすい服装を好んでいる彼女ですが、華美な装いも嫌味なく着こなす事ができるだろうと彼は常々思っていました。彼女は容姿にコンプレックスを持っているようでしたが、ひたむきな美しさは他の追随を許しません。

「ドレスを着たところも見てみたいな。なんて、本人がいないのに言ってもね。今度、お願いしてみてもいいかもしれないな」

 人間と違って着飾るのが難しい彼は、彼女のセンスをとやかく言うつもりはありませんでしたが、声に出してしまえば、おめかしをした愛しい人をひと目見てみたいという気持ちがますます募っていきます。

「君がいちばん好きって言ってた紫色のドレスがいい。そしたら、形だけでも結婚式が……。いや、動きにくい恰好でここまで来させるのも悪いか。なにを着ていたって君の美しさは変わらないし。いまでも会ってくれてる事に感謝しないと」

 『結婚』というワードを口にすると切なさが襲って、思い出したくもない取り決めに対する恨み言を垂れてしまいます。

「国に貢献することで、無理矢理結婚させられずに済んだはいいけど……交換条件が『他の誰とも婚姻を結ばない事』だなんてね。そんなに僕が気に入らないか……。持ち上げるだけ持ち上げておいて、国交正常化を掲げた途端に異分子扱いされるとは思っていなかったよ。姉さん……じゃない、現国王は理解してくれているし、尽力してくれてもいるけど、頭の固い人魚が多くて困る」

 彼は生まれ育った故郷を愛していましたが、中枢に蔓延る旧時代的な価値観に縛られたままの者たちを疎ましく思う気持ちがあったのも事実です。何度説得を試みても手応えなどまるでなく、彼らがいなくなるのが隣国との国交正常化への最短距離なのではないかと思い詰めるほどに。
 
「いつまで無意味な対立を続けるつもりなんだ。すぐに仲良くというわけにはいかないとしても、和解を望む国民も増えてきたのに。私は王にだってならなかった。これ以上なにを差し出せば、自由が手に入る? …………無理か。王族に生まれた時点で、そんなものを切望するのもおかしいのかな」

 人魚は募る苛立ちから爪のあいだに挟んだ鱗を引き抜きます。彼はストレスで自身の鱗を剥がしてしまう事がありました。目を凝らすと、彼女に見えにくい裏側ばかりがところどころ抜けているのです。

「痛っ……。君に噛み付かれるのは痛くなかったのに」

 肩の肉を齧り取られたときですら、そうでした。それどころか、種族の違いから生殖行為に準ずる愛情表現を避けていた彼にとって、自身の体の一部を彼女が受け入れる事になったあの事故は、いたく甘美なものだったのです。

「僕は君と結婚したいだけだ。愛するひとと添い遂げたいだけなのに。捨てていいなら、立場もこの体も……命だって惜しくないのに。君と一緒になれるなら。これ何回も聞かせちゃったな。……でも、言うたびに怒ってくれるから、投げ出すわけにもいかないね。なんて、夢を捨てられない男の言い訳かな。僕は君に甘えてばかりだ」

 彼女はいつも言っていました。『お互い、大切なものが他にもある。その事がたまに寂しくもなるけど、どれも切り捨てないあなたを……世界ごとわたしを愛してくれるあなたを愛してる』と。その台詞を疑った事はありませんが、寂しくさせてしまっている自覚はありました。
 
「できるだけ早く会えるといいけれど、僕たちにはまだまだ時間がある。生活が落ち着いたら、また会おうね」

 淡い黄緑色の鱗を持つ孤独な人魚は力強く言いました。永遠に訪れることのない一方的な約束は、波間に消えていきます。

「…………ごめんね、人間の男じゃなくて」

 と、消え入りそうな声で呟いた彼は、遠く離れた故郷へと帰っていきます。夕陽も、彼女も、深い深い海に沈んだあとのことでした。


 
 END

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