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第9話 王妃の遺言状

 夜の屋敷に、馬車の音が近づいてきた。

 王宮の馬車ではない。

 女官長マルタが使う、目立たない小型の馬車だった。

 祖母の旧邸の門前で車輪が止まると、ほどなくして玄関扉が叩かれた。アニーが急いで迎えに出る。廊下の奥まで、冷たい夜気と外套の布擦れの音が流れ込んできた。

 エレノアは応接室の中央に立ったまま、扉の方を見ていた。

 暖炉には火が入っている。

 けれど、部屋の空気は少しも温まらない。

 机の上には、黒封蝋の封筒が置かれている。

 月桂樹と百合。

 亡き王妃エレオノーラの個人紋章。

 その封筒がそこにあるだけで、古い応接室は王宮の裁定室よりも重い場所になっていた。

 王弟カインは、窓際に立っていた。

 腕を組むでもなく、椅子に腰を下ろすでもなく、ただ静かに佇んでいる。彼の秘書官オスカーは、机の端に記録用の紙と筆記具を整えていた。

 無駄な動きはない。

 誰も声を荒げない。

 それなのに、部屋には張り詰めた糸のような緊張があった。

「エレノア様」

 扉が開き、マルタが入ってきた。

 王宮の女官服の上に、濃い灰色の外套を羽織っている。急いで来たのだろう。頬は少し赤く、息もわずかに乱れていた。

 しかし、彼女は部屋へ入った瞬間、机の上の封筒を見て、すぐに表情を引き締めた。

「……王妃陛下の封蝋でございますね」

「はい」

 エレノアは頷いた。

「王妃様が、私に託してくださいました」

 マルタは数秒、封筒から目を離さなかった。

 その顔には、驚きよりも深い納得があった。

「やはり、何かを残しておられたのですね」

「ご存じだったのですか」

「いいえ。ですが、王妃陛下は亡くなられる前、何度か仰っておられました」

 マルタは静かに言った。

「『私は間に合わないかもしれない。でも、あの子がいる』と」

 あの子。

 それが自分を指しているのだと理解した瞬間、エレノアは胸の奥が痛んだ。

 王妃は、自分を見ていた。

 見ていてくれた。

 けれど、その信頼は優しいだけのものではない。

 これから開かれる封筒には、きっとその重さが入っている。

 カインが口を開いた。

「マルタ。あなたを証人として呼んだ。王妃の最期に立ち会った女官長として、この遺言状の開封に同席してもらう」

「承知いたしました」

 マルタは深く頭を下げた。

「記録はオスカーが取る。開封者はエレノア嬢。封蝋の確認は私とマルタで行う」

「かしこまりました」

 オスカーが筆を取る。

 紙の上に、さらさらと日付と場所が記されていく。

 王都外れ、旧ヴァレンシュタイン別邸。
 亡き王妃エレオノーラ陛下個人封蝋文書、開封記録。
 同席者、王弟カイン・レオ・グランベルク。
 エレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。
 王宮女官長マルタ。
 王弟秘書官オスカー。

 その文字を見て、エレノアは改めて思った。

 これはもう、家族の問題ではない。

 婚約破棄された令嬢の私的な悲しみでもない。

 王妃が遺した文書を、王弟と女官長の証言のもとで開く。

 その瞬間から、エレノアはただの被害者ではなくなる。

 証人になる。

「封蝋を確認する」

 カインが机に近づいた。

 エレノアは封筒を持ち上げ、彼に差し出す。

 カインは封蝋を見た。

「王妃個人紋章。月桂樹と百合。破損なし。外部からの開封痕なし」

 マルタも続けて確認する。

「王妃陛下が私的文書にお使いだった黒封蝋に相違ございません。紋章の欠けもなく、封は完全でございます」

 オスカーが記録する。

 エレノアは、封筒を再び受け取った。

 手の中で、紙がかすかに鳴る。

 その音だけで、胸が詰まった。

 王妃の手が、最後にこれを閉じたのだ。

 病に痩せ、息をするのも苦しかったはずの手で。

 何を思って。

 誰を思って。

 何を守ろうとして。

 この封を押したのだろう。

「エレノア嬢」

 カインの声がした。

「今なら、まだ開けずに保管する選択もある」

 エレノアは顔を上げた。

「それで、王宮は保ちますか」

「保たない」

 即答だった。

「なら、開けます」

「怖くはないか」

「怖いです」

 エレノアは素直に答えた。

「ですが、王妃様が私に託したものを、怖いからと閉じたままにはできません」

 カインは小さく頷いた。

 エレノアは、封蝋に薄い開封ナイフを当てた。

 黒い蝋に刃が入る。

 ぱきり、と小さな音がした。

 それは、ひどく静かな音だった。

 しかし、その音がした瞬間、エレノアには王宮のどこかで大きな扉が開いたように感じられた。

 封筒の中には、三枚の紙が入っていた。

 一枚目は、正式な遺言状。

 二枚目は、王妃の私的な覚え書き。

 三枚目は、細く折られた別紙。

 そして、一番奥に、小さな銀の鍵が入っていた。

 エレノアは息を止めた。

「鍵……」

 マルタが小さく呟く。

 カインの目が細くなった。

「どこの鍵だ」

 エレノアは銀の鍵を手のひらに乗せた。

 王宮の標準鍵ではない。文書庫の鍵とも形が違う。持ち手には、百合ではなく小さな星の紋が刻まれていた。

 マルタが身を乗り出す。

「これは……王妃陛下の私的金庫の副鍵かもしれません」

「王妃私室の金庫は確認したはずです」

「いいえ、エレノア様。王妃陛下には、表の金庫とは別に、王宮礼拝堂の奥に古い祈祷箱をお持ちでした。私も中身は存じません。鍵は陛下ご自身が管理しておられました」

 王宮礼拝堂の奥。

 祈祷箱。

 エレノアは、それを聞いた瞬間、王妃が晩年、何度か礼拝堂で一人になりたがったことを思い出した。

 祈りのためだと思っていた。

 だが、その場所に何かを隠していたのだとしたら。

「まず遺言状を」

 カインが言った。

 エレノアは一枚目の紙を広げた。

 王妃エレオノーラの筆跡だった。

 細く、気品があり、それでいて最後まで力を失っていない文字。

 エレノアは、最初の一行を見ただけで、喉が詰まりそうになった。

 我が死後、この文書を開く者へ。
 この文書は、王妃エレオノーラ・グランベルクの意思として記す。

 声に出して読むべきだ。

 記録のためにも。

 証人のためにも。

 だが、最初の数文字を見ただけで、涙が込み上げそうになる。

 エレノアは一度、目を閉じた。

 泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい。

 王妃の声が蘇る。

 エレノアは目を開けた。

 そして、読み上げた。

「我が死後、この文書を開く者へ。この文書は、王妃エレオノーラ・グランベルクの意思として記す」

 部屋の中で、オスカーの筆が走る音だけがした。

「第一。王妃基金の監査権を、エレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢に委任する」

 マルタが息を呑んだ。

 エレノア自身も、一瞬、声が止まりそうになった。

 王妃基金の監査権。

 それは、王宮財務官でさえ単独では持てない強い権限だった。

 王妃の名で運営される慈善基金は、王家、財務局、後援貴族、教会関係者、複数の支援団体が絡む。監査権を持つ者は、その支出記録、担保品、寄付証明、関係商会の帳簿まで閲覧できる。

 それを、エレノアに。

 婚約破棄された公爵令嬢に。

 いや、王妃は婚約破棄される前から、そう決めていたのだ。

 エレノアは唇を引き結び、続きを読んだ。

「第二。王太子ユリウス・グランベルクの王位継承適性について、再審査を求める」

 今度こそ、部屋の空気が凍った。

 王太子の王位継承適性。

 再審査。

 それは、王族にとって極めて重い言葉だった。

 廃嫡とまでは言わない。

 だが、王妃が正式な遺言状でこれを求めた以上、国王も重臣会議も無視できない。

 カインは表情を変えなかった。

 だが、その目は深く沈んでいた。

 マルタは両手を胸の前で握っている。

 エレノアは、自分の鼓動が耳の奥で鳴るのを感じた。

 王妃は、ユリウスを見限っていたのだろうか。

 それとも、まだ間に合うと信じていたのだろうか。

 文面は、それを教えてくれない。

 ただ、王妃は再審査を求めている。

 それだけが事実だった。

 エレノアは、さらに続ける。

「第三。王宮文書管理、王妃教育関連記録、ならびに王妃基金関連資料の閲覧権を、エレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢へ一時的に付与する。必要に応じて、王弟カイン・レオ・グランベルクの保護下に置くこと」

 カインの名。

 エレノアは、そこで初めて彼を見た。

 カインは静かに頷いた。

 まるで、その一文を予想していたかのように。

「知っておられたのですか」

「王妃から一部は聞いていた」

「一部」

「ああ。だが、正式文書でここまで明記されているとは思わなかった」

 エレノアは遺言状に視線を戻した。

 続きがある。

「なお、上記の権限付与は、エレノア嬢が王太子妃候補であることを条件としない。婚約の有無、公爵家内での地位、王太子の意思に左右されないものとする」

 エレノアは、声を失いかけた。

 王妃は、そこまで見越していた。

 自分が王太子妃候補でなくなることを。

 公爵家での立場を失うことを。

 王太子の意思で、王宮から遠ざけられることを。

 すべて、想定していた。

 だから、条件から外した。

 エレノアという人間の価値を、婚約者という立場から切り離してくれた。

 それが、あまりにも遅く届いた救いのようで、苦しかった。

「読み続けられるか」

 カインが尋ねた。

 エレノアは頷いた。

「はい」

 声は少し震えていた。

 だが、止まらなかった。

「王宮において、エレノア嬢の判断と記録を軽んじることは、王妃エレオノーラの意思を軽んじることと同義である。彼女を道具として扱うな。彼女の証言を、正式な記録として扱え」

 マルタが、顔を伏せた。

 肩がわずかに震えている。

 エレノアは、もう一度息を整えた。

 最後の一文が、そこにあった。

「私は、この国で最後に信じた令嬢として、エレノア・ヴァレンシュタインの名をここに記す」

 部屋の中は、しばらく完全な沈黙に包まれた。

 薪が暖炉で小さく爆ぜる音だけがした。

 エレノアは遺言状を机に置いた。

 指先が震えていた。

 自分が王妃に信じられていたことは知っていたつもりだった。

 だが、これは違う。

 これは、信頼ではなく託命に近い。

 王妃は、自分の死後の王宮を、エレノアに見せようとしている。

 その腐食を。

 その嘘を。

 その後始末を。

 そして、それでも逃げずに記録を見る力を信じている。

「王妃様は……なぜ」

 エレノアの声は小さかった。

「なぜ、私にここまで」

 カインは答えなかった。

 代わりに、マルタが震える声で言った。

「王妃陛下は、よく仰っておられました。エレノア様は、痛みを見落とさない方だと」

「私は……」

「いいえ」

 マルタは顔を上げた。

 その目は潤んでいた。

「エレノア様は、ご自分ではお気づきでなかったかもしれません。けれど、王妃陛下はご存じでした。あなたが、ただ規則を守っていたのではないことを」

 エレノアは、何も言えなかった。

 規則。

 手続き。

 記録。

 それらは、冷たいものだと思われてきた。

 だが、エレノアにとっては違った。

 規則は、声の大きい者が弱い者を踏みにじらないためにある。

 手続きは、泣いた者だけが許される世界にしないためにある。

 記録は、誰かの痛みをなかったことにしないためにある。

 それを、王妃だけは分かってくれていた。

「二枚目を」

 カインの声で、エレノアは現実へ戻った。

 一枚目の遺言状だけでも十分重かった。

 だが、まだ二枚目と三枚目がある。

 エレノアは二枚目を取った。

 それは、正式な遺言状よりも私的な筆致だった。

 ところどころ、文字がかすれている。

 病床で書いたものだろう。

 エレノアは読み始めた。

「エレノアへ」

 自分の名が最初にあった。

 それだけで、胸が締めつけられる。

「あなたがこれを読んでいるなら、私はもうあなたの前にいないのでしょう。そして、おそらく王宮は、あなたを一度手放したのでしょう」

 エレノアの喉が詰まった。

 マルタがそっと目元を押さえる。

「私は、あなたに謝らなければなりません。あなたに多くを任せすぎました。あなたが優秀だったからではありません。あなたなら、他の誰かの痛みを踏みにじらずに済ませられると、私が甘えたからです」

 甘えた。

 王妃までが、その言葉を使った。

 エレノアは紙を握る手に力を込める。

「あなたは冷たい子ではありません。冷たいふりを覚えなければ、生きられなかった子です。だから、どうか忘れないで。あなたが泣けないのは、心がないからではありません。泣く暇も、泣く場所も、与えられなかったからです」

 もう駄目だった。

 エレノアの視界が滲む。

 涙は落ちない。

 けれど、字が歪む。

 彼女は一度、読み上げるのを止めた。

 カインは急かさなかった。

 マルタも何も言わなかった。

 オスカーの筆も止まっている。

 部屋中が、エレノアが呼吸を取り戻すのを待っていた。

「……続けます」

 エレノアは、かすれた声で言った。

「私は王妃として、そして一人の女として、あなたに願います。王宮に戻るなら、誰かの影として戻ってはなりません。ユリウスの婚約者としてでも、ヴァレンシュタイン公爵家の娘としてでもなく、あなた自身の名で戻りなさい」

 その言葉は、先ほどカインが言ったことと重なった。

 あなた自身の名で。

 エレノアは、唇を噛んだ。

「カインを頼りなさい。彼は優しい言葉を知らない男ですが、少なくとも人を飾りとして扱うことはありません。あなたに椅子を与えるなら、それに見合う権限も与えるでしょう」

 カインが、わずかに眉を動かした。

 オスカーが筆を持ったまま、少しだけ口元を引き締める。

 笑いを堪えたのかもしれない。

 エレノアも、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔のまま息を漏らした。

 王妃らしい言葉だった。

 厳しくて、鋭くて、それでいて少しだけ茶目っ気がある。

 続きを読む。

「王妃基金を調べなさい。特に薬草園、孤児院修繕費、戦没騎士遺児支援金、そしてサルヴィ商会。あなたが感じていた違和感は、間違いではありません」

 エレノアは、そこで手を止めた。

 サルヴィ商会。

 やはり、王妃は知っていた。

「王妃様は……ご存じだった」

「続けてくれ」

 カインの声は低かった。

 エレノアは頷く。

「私の病は、ただの病かもしれません。けれど、私に届く薬の記録には、いくつかの矛盾があります。疑うには証拠が足りません。ですが、疑わずに眠るには、あまりに数字が合いません」

 部屋の空気が変わった。

 薬。

 王妃の病。

 数字が合わない。

 マルタの顔から血の気が引いていく。

「三枚目を……」

 エレノアは、二枚目を読み終える前に、机の上の細い別紙を見た。

 それが何なのか、もう分かり始めていた。

 読みたくない。

 だが、読まなければならない。

 二枚目の最後には、こう書かれていた。

「別紙には、私が最後に確認した薬の記録と、関係者の名を記します。エレノア、もし私の死に不自然な影があるのなら、私のために泣かなくてよい。記録を見なさい。あなたにしか見えないものが、必ずあります」

 エレノアは、震える手で三枚目を開いた。

 そこには、日付が並んでいた。

 王妃の服薬記録。

 薬草名。

 納入商会。

 処方医師。

 支出承認者。

 補助署名者。

 はじめの数行は、見慣れたものだった。

 王妃の療養薬。

 高地薬草。

 鎮痛用の薄荷草。

 睡眠を助ける月花根。

 だが、途中から成分が変わっている。

 高地薬草の量が減り、鎮静作用の強い黒眠草が増えている。

 黒眠草は毒ではない。

 だが、病で弱った者に長く使えば、意識を鈍らせ、食欲を奪い、回復力を削る。

 エレノアは、その名を知っていた。

 王妃の薬棚で、何度か見かけたからだ。

 その時は、医師の判断だと思っていた。

 だが、記録上の処方量と、実際に届いた量が違う。

 誰かが増やしている。

 あるいは、別の薬と入れ替えている。

「……支出承認者」

 エレノアは、かすれた声で読み上げた。

「王宮財務官、ベルトラム・ゼルク」

 財務官。

 遺産目録を内々に処理しようとした男。

「納入商会、サルヴィ商会」

 サルヴィ商会。

 王妃基金の支出先。

 父グレゴール公爵の後援を受ける商会。

「薬商紹介者……」

 そこで、エレノアの声が止まった。

 見たくなかった。

 だが、文字はそこにある。

 王妃の筆跡で。

 はっきりと。

「グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵」

 父の名だった。

 マルタが口元を押さえた。

 オスカーの筆が止まる。

 カインの目が、深く冷える。

 エレノアは、しばらく文字を見つめていた。

 父が。

 薬商を紹介した。

 王妃の薬に不審がある時期に。

 王妃基金の支出先でもある商会を。

 偶然かもしれない。

 まだ、そう言える。

 証拠は足りない。

 エレノアは、そう考えようとした。

 だが、別紙の下に、さらに小さな追記があった。

「私に万一のことがあれば、薬を疑いなさい。だが、急いではなりません。私の死を利用して争う者が必ず出ます。証拠を揃え、記録で裁きなさい」

 エレノアの手から、紙が落ちそうになった。

 カインがそっと手を伸ばし、紙の端を支えた。

 彼の手は、エレノアの手に触れなかった。

 紙だけを支えた。

 その距離の取り方が、今はありがたかった。

「王妃様は……」

 エレノアはようやく声を出した。

 自分の声ではないようだった。

「王妃様は、ご自分が殺されるかもしれないと、知っておられたのですか」

 誰もすぐには答えなかった。

 暖炉の火が小さく揺れる。

 屋敷の外で、風が窓を鳴らす。

 マルタは泣いていた。

 声を出さず、ただ涙を落としていた。

 オスカーは、蒼白な顔で記録を再開した。

 カインは、別紙を見つめたまま、低く言った。

「少なくとも、疑っていた」

「私は……気づけませんでした」

「違う」

 カインは即座に否定した。

「あなたは気づいていた。だから記録を残した。王妃も、それを知っていた」

「でも、止められませんでした」

「王妃自身が、証拠が足りないと書いている。止めるには、あなた一人では足りなかった」

 エレノアは首を横に振った。

 理屈では分かる。

 それでも、胸が痛い。

 王妃は病の中で、薬を疑っていた。

 自分の死を予感していた。

 それなのに、エレノアは隣にいながら救えなかった。

 毎日、体調を記録していた。

 薬の支出も見ていた。

 王妃の食欲が落ちた日も、眠る時間が長くなった日も、すべて帳簿に残していた。

 それでも、最後の線を引けなかった。

「エレノア」

 カインが、初めて彼女を敬称なしで呼んだ。

 その声は静かだった。

「今ここで自分を責めるな。王妃があなたに望んだのは、罪悪感ではない」

 エレノアは顔を上げた。

「記録を見ろ」

 その言葉は、王妃の言葉と重なった。

 泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい。

 エレノアは、震える息を吐いた。

「……はい」

 そして、涙を拭わずに紙を見た。

 涙で滲んでも、文字はそこにある。

 王妃が残した記録。

 名前。

 日付。

 薬。

 金。

 商会。

 父。

 財務官。

 全てが一本の線になり始めている。

「殿下」

「何だ」

「この遺言状と別紙は、正式な記録として保護してください」

「当然だ」

「写しを作る場合、原本はこの屋敷に置かず、王弟殿下の封印下で保管を」

「そうする」

「マルタ、王妃様の薬棚はまだ封鎖されていませんか」

 マルタは涙を拭い、すぐに顔を上げた。

「表向きは整理中でございます。ですが、財務官側の者が触れようとする可能性があります」

「封鎖してください。女官長権限で足りないなら、殿下の命令書を」

「出す」

 カインが言った。

「オスカー、今すぐ命令書を作れ。王妃私室、薬棚、祈祷箱、薬草納入記録、財務局内の王妃基金関連台帳を封鎖。無断移動は証拠隠滅として扱う」

「かしこまりました」

 部屋の空気が変わった。

 悲しみから、行動へ。

 王妃の死の疑念は、あまりに重い。

 だが、立ち止まって泣くだけでは、王妃の言葉に背く。

 エレノアは銀の鍵を見た。

「この鍵は、王宮礼拝堂奥の祈祷箱のものかもしれません」

 マルタが頷く。

「私がご案内できます」

「祈祷箱の確認は、王宮に戻ってからですね」

 エレノアがそう言うと、カインが静かに返した。

「戻るかどうかは、あなたが決めると言った」

「はい」

 エレノアはカインを見た。

「戻ります」

 マルタが目を見開く。

 カインは動かなかった。

「理由は」

「王妃様の記録が王宮に残っています。薬棚も、祈祷箱も、基金台帳も。私が見なければ、見落とすものがあるかもしれません」

「危険だ」

「承知しています」

「あなたの父の名も出ている」

「承知しています」

「王太子も、リリアナ嬢も、あなたを歓迎しないだろう」

「期待していません」

 エレノアの声は、もう震えていなかった。

「私は、王太子殿下の婚約者として戻るのではありません。公爵家の娘として戻るのでもありません。王妃陛下の証人として戻ります」

 カインの目が、わずかに鋭さを増した。

「その言葉を記録していいか」

「はい」

 オスカーの筆が走る。

 王妃陛下の証人として戻る。

 エレノアは、自分の言葉が紙に残るのを見た。

 それは、以前の自分なら恐れたかもしれない言葉だった。

 だが今は、逃げる気がなかった。

「ただし」

 エレノアは続けた。

「条件があります」

「言え」

「正式な権限をください。王妃基金監査権、王宮文書管理関連資料の閲覧権、王妃私室および礼拝堂祈祷箱への立ち入り許可。王太子殿下や公爵家の命令で妨げられない保護も必要です」

 カインの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 満足したように。

「それでいい」

「よろしいのですか」

「むしろ、それを言わなければ連れて行かなかった」

 エレノアは、少しだけ息を止めた。

 彼は本気だった。

 便利な女を呼び戻しに来たのではない。

 権限を持つ証人として迎えるために来た。

 その違いが、胸の奥に静かに染みていく。

「任命書を用意する」

 カインは言った。

「明朝、あなたを王弟直属の臨時監査補佐官として王宮へ迎える。王妃遺言状に基づく暫定権限を付与する。国王への正式裁可は私が取る」

「ありがとうございます」

「礼は不要だ。これは王宮に必要な手続きだ」

 その返しに、エレノアはわずかに目を伏せた。

 手続き。

 責任。

 権限。

 ずっと冷たいと言われてきた言葉が、今は彼女を守る壁になろうとしている。

 王妃は、それを知っていたのだ。

 夜が深くなっていく。

 黒封蝋は破られた。

 遺言状は開かれた。

 王妃の死に、毒の影が差した。

 そして、エレノアはもう、追放された令嬢ではなくなった。

 王妃が最後に信じた証人。

 証拠で王宮を裁くための、最初の一歩を踏み出した者になった。

 エレノアは、机の上の遺言状へ深く一礼した。

「王妃様」

 声は静かだった。

「今度こそ、最後まで見届けます」

 カインは何も言わず、その隣に立った。

 マルタは涙を拭い、背筋を伸ばした。

 オスカーは記録紙の最後に、開封終了時刻を記した。

 その夜、王宮はまだ知らなかった。

 自分たちが切り捨てた令嬢が、王妃の遺言状を開いたことを。

 そして翌朝、その令嬢が王太子の隣ではなく、冷徹宰相と呼ばれる王弟の隣に立って戻ってくることを。
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