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第9章『雲は西へ、風は城下へ』
第九十話『夏の終わり、恋の兆し──“殿下、なんであのとき抱きしめんかったん?”』
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八月の終わり、蝉の声が遠のき、墨俣にも少しずつ秋の気配が近づいていた。
秀吉は城下を歩いていた。豪族たちの視察が終わり、祭り騒ぎも落ち着き、久しぶりに穏やかな午後だった。
空を見上げれば、茜色の雲がひと筋。
「ああ、夏が終わるんやな」
そう思ったとき、ふと目に入ったのは、城下の土手に腰を下ろすねねの姿だった。
「……殿下、やっと来たな」
「なに、待ってたんか?」
「ちょっとだけな」
ねねの隣に腰を下ろすと、すぐにおしのとお濃もやってきた。
「みんな、ここにおったんか」
「たまにはな。城の屋根の上より、土手の方が落ち着くやろ」おしのが微笑む。
「殿下、今年の夏、どうでしたか?」
お濃の問いに、秀吉は苦笑いした。
「よう走った。よう笑った。よう怒られた。よう転んだ」
「よう触った」ねねが即座にツッコむ。
「ちょっ、わしなにもしてへん!」
「ふふっ……冗談よ」
風が吹いた。
夏の名残を少しだけ連れてくる優しい風だった。
おしのがぽつりと語る。
「……今年の夏、殿下の隣で“女”を意識したん、うち、初めてかもしれへん」
「お、おしの……」
「いや、真面目な話やで?
政も、戦も、女中も全部見てきて、でも、やっぱり一番印象に残るのは、あの混浴の──」
「やめろやめろやめろーー!!!」
爆笑が起こる。
それでも、その後に流れた静けさは、心地よいものだった。
お濃が空を見上げて、呟く。
「……京の風も、夏の終わりにはこういう香りになるんです。
でも、墨俣の方が、ちょっとあたたかい」
「そら、あんたがようけ湯を沸かしたからや」
「それを言うなら、ねね様の怒気も、かなりの熱量でしたわ」
ねねが照れ隠しに頬を膨らませ、そして、そっと視線を落とす。
「……殿下」
「ん?」
「うち、ずっと、気になってたことあんねん」
「なにや?」
「……あのとき、なんで、抱きしめんかったん?」
風が止まった気がした。
「あのとき?」
「祭りの夜。湯殿のあと。うち、泣きそうになっとった。
あんた、そばにおって、手も伸ばして……でも、抱きしめんかった」
おしのも、お濃も黙っていた。
秀吉はしばらく口を閉ざし、それから、ぽつりと答えた。
「……怖かってん」
「……」
「抱きしめたら、たぶん、止まらへんと思った。
わしが“今まで通りのわし”やなくなる気がした」
ねねの目が揺れた。
「……変わるん、怖いん?」
「怖い。でもな」
秀吉は、ねねの手をそっと握った。
「今度は、ちゃんと答えるで」
「……ほんまやな?」
「今度こそ、ちゃんと、わしの手で伝える」
ねねは笑った。
おしのも、お濃も、その笑顔に微笑みを返した。
──夏が、終わる。
でも、恋は──これからだった。
秀吉は城下を歩いていた。豪族たちの視察が終わり、祭り騒ぎも落ち着き、久しぶりに穏やかな午後だった。
空を見上げれば、茜色の雲がひと筋。
「ああ、夏が終わるんやな」
そう思ったとき、ふと目に入ったのは、城下の土手に腰を下ろすねねの姿だった。
「……殿下、やっと来たな」
「なに、待ってたんか?」
「ちょっとだけな」
ねねの隣に腰を下ろすと、すぐにおしのとお濃もやってきた。
「みんな、ここにおったんか」
「たまにはな。城の屋根の上より、土手の方が落ち着くやろ」おしのが微笑む。
「殿下、今年の夏、どうでしたか?」
お濃の問いに、秀吉は苦笑いした。
「よう走った。よう笑った。よう怒られた。よう転んだ」
「よう触った」ねねが即座にツッコむ。
「ちょっ、わしなにもしてへん!」
「ふふっ……冗談よ」
風が吹いた。
夏の名残を少しだけ連れてくる優しい風だった。
おしのがぽつりと語る。
「……今年の夏、殿下の隣で“女”を意識したん、うち、初めてかもしれへん」
「お、おしの……」
「いや、真面目な話やで?
政も、戦も、女中も全部見てきて、でも、やっぱり一番印象に残るのは、あの混浴の──」
「やめろやめろやめろーー!!!」
爆笑が起こる。
それでも、その後に流れた静けさは、心地よいものだった。
お濃が空を見上げて、呟く。
「……京の風も、夏の終わりにはこういう香りになるんです。
でも、墨俣の方が、ちょっとあたたかい」
「そら、あんたがようけ湯を沸かしたからや」
「それを言うなら、ねね様の怒気も、かなりの熱量でしたわ」
ねねが照れ隠しに頬を膨らませ、そして、そっと視線を落とす。
「……殿下」
「ん?」
「うち、ずっと、気になってたことあんねん」
「なにや?」
「……あのとき、なんで、抱きしめんかったん?」
風が止まった気がした。
「あのとき?」
「祭りの夜。湯殿のあと。うち、泣きそうになっとった。
あんた、そばにおって、手も伸ばして……でも、抱きしめんかった」
おしのも、お濃も黙っていた。
秀吉はしばらく口を閉ざし、それから、ぽつりと答えた。
「……怖かってん」
「……」
「抱きしめたら、たぶん、止まらへんと思った。
わしが“今まで通りのわし”やなくなる気がした」
ねねの目が揺れた。
「……変わるん、怖いん?」
「怖い。でもな」
秀吉は、ねねの手をそっと握った。
「今度は、ちゃんと答えるで」
「……ほんまやな?」
「今度こそ、ちゃんと、わしの手で伝える」
ねねは笑った。
おしのも、お濃も、その笑顔に微笑みを返した。
──夏が、終わる。
でも、恋は──これからだった。
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