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第9章『雲は西へ、風は城下へ』
第八十九話『ねね様の大演説──“一番長く隣にいた女”として』
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墨俣視察三日目。
城内の広間には、各地からの視察団が所狭しと並んでいた。
京の商人、伊勢の代官、美濃の寺社勢力の代表、越前の豪族娘……
いずれも政や軍事の話だけではない。
皆が“藤吉郎秀吉という人物”そのものを観察していた。
そして、その午後──
「本日は、墨俣の政と民の在り方をお伝えする最終行程といたしまして……」
案内役の女中が紹介した次の“見学対象”に、会場がざわめいた。
「殿下の女房、ねね様よりお話がございます」
「……え?」
秀吉が思わず振り返ると、そこには少し緊張した面持ちのねねの姿があった。
「な、なんや。聞いてへんで、そんなの」
「急遽です」
女中たちはにやにやしながら頷く。
「……ねね、大丈夫なんか?」
「……任しとき」
ねねは深く息を吸い、前へ進み出た。
広間の中央。
百を超える視線が彼女に注がれる。
ねねは一礼し、口を開いた。
「本日は、よう墨俣までお越しくださいました。
あんたらみたいな偉い人らの前で話すの、初めてやけど……少しだけ、うちの話を聞いてください」
視線は、秀吉には向けず、まっすぐ前を見ていた。
「うち、木下藤吉郎のそばにいて、もうだいぶ経ちます。
昔は、草履持って、泥んこになって、田んぼで転んでばっかりで……
なんでこんなやつに惚れたんやろって、思ったこともありました」
視察団が微笑する。
ねねは小さく笑い、続ける。
「でも、ひとつだけ、ずっと変わらんことがあるんです。
──この人、どこまで行っても“草履の音”が似合う男なんです」
秀吉が目を瞬かせる。
「偉くなっても、人気出ても、肩書きが増えても……
田んぼ道を、民と一緒に歩いて、汗かいて、泥にまみれても、笑ってられる。
そやから、墨俣が元気なんやと、うちは思てます」
ねねの声が、ほんの少し震えた。
「うち、特別な家の出でもないし、学もないけど……
ずっと、隣で見てきました。
そやから、胸を張って言えます」
──この男に、政を任せてください。
──この男は、誰よりも“人”を見て動ける人です。
「……そして、もし墨俣が今、どこよりも笑ってるなら──
それはこの人が、“変わらん人”やからやと思うんです」
ねねは、深く頭を下げた。
静まり返っていた広間に、最初の拍手が起こる。
それはやがて波のように広がり、やがて一斉の拍手へと変わった。
「“この女房ありてこの男あり”やな……」
「いやはや、たいした奥方や……」
誰かがそう呟き、秀吉はただただ、唖然としていた。
◆ ◆ ◆
その夜。
縁側で涼むふたり。
「……あれは、あかんわ」
「ん?」
「泣きそうなった」
「泣けばよかったやん」
「うちがあんたの前で泣いたら、明日雨や」
「晴れでもええやん」
「……あほ」
並んで見上げた空は、視察を終えた墨俣に、静かな星を落としていた。
そして。
ねねという“芯”がある限り、藤吉郎はどこへでも進める。
そんな確信が、民だけでなく、城の者たちの胸にも──静かに根を張っていた。
城内の広間には、各地からの視察団が所狭しと並んでいた。
京の商人、伊勢の代官、美濃の寺社勢力の代表、越前の豪族娘……
いずれも政や軍事の話だけではない。
皆が“藤吉郎秀吉という人物”そのものを観察していた。
そして、その午後──
「本日は、墨俣の政と民の在り方をお伝えする最終行程といたしまして……」
案内役の女中が紹介した次の“見学対象”に、会場がざわめいた。
「殿下の女房、ねね様よりお話がございます」
「……え?」
秀吉が思わず振り返ると、そこには少し緊張した面持ちのねねの姿があった。
「な、なんや。聞いてへんで、そんなの」
「急遽です」
女中たちはにやにやしながら頷く。
「……ねね、大丈夫なんか?」
「……任しとき」
ねねは深く息を吸い、前へ進み出た。
広間の中央。
百を超える視線が彼女に注がれる。
ねねは一礼し、口を開いた。
「本日は、よう墨俣までお越しくださいました。
あんたらみたいな偉い人らの前で話すの、初めてやけど……少しだけ、うちの話を聞いてください」
視線は、秀吉には向けず、まっすぐ前を見ていた。
「うち、木下藤吉郎のそばにいて、もうだいぶ経ちます。
昔は、草履持って、泥んこになって、田んぼで転んでばっかりで……
なんでこんなやつに惚れたんやろって、思ったこともありました」
視察団が微笑する。
ねねは小さく笑い、続ける。
「でも、ひとつだけ、ずっと変わらんことがあるんです。
──この人、どこまで行っても“草履の音”が似合う男なんです」
秀吉が目を瞬かせる。
「偉くなっても、人気出ても、肩書きが増えても……
田んぼ道を、民と一緒に歩いて、汗かいて、泥にまみれても、笑ってられる。
そやから、墨俣が元気なんやと、うちは思てます」
ねねの声が、ほんの少し震えた。
「うち、特別な家の出でもないし、学もないけど……
ずっと、隣で見てきました。
そやから、胸を張って言えます」
──この男に、政を任せてください。
──この男は、誰よりも“人”を見て動ける人です。
「……そして、もし墨俣が今、どこよりも笑ってるなら──
それはこの人が、“変わらん人”やからやと思うんです」
ねねは、深く頭を下げた。
静まり返っていた広間に、最初の拍手が起こる。
それはやがて波のように広がり、やがて一斉の拍手へと変わった。
「“この女房ありてこの男あり”やな……」
「いやはや、たいした奥方や……」
誰かがそう呟き、秀吉はただただ、唖然としていた。
◆ ◆ ◆
その夜。
縁側で涼むふたり。
「……あれは、あかんわ」
「ん?」
「泣きそうなった」
「泣けばよかったやん」
「うちがあんたの前で泣いたら、明日雨や」
「晴れでもええやん」
「……あほ」
並んで見上げた空は、視察を終えた墨俣に、静かな星を落としていた。
そして。
ねねという“芯”がある限り、藤吉郎はどこへでも進める。
そんな確信が、民だけでなく、城の者たちの胸にも──静かに根を張っていた。
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