95 / 170
第10章『風は止まず、想い揺れる秋』
第九十四話『草履を脱いで、泥を踏む』
しおりを挟む
小牧の朝は、墨俣より少しだけひんやりしていた。
だが、その冷えた空気のなかに、少しずつあたたかさが差し込み始めていた。
「……ほんまに、田に入るんですか、殿下」
田植えを控えた村外れの田んぼ。
老いた農夫が、まだ湿りの残る泥を見つめながら問うた。
「そや」
「殿下は武家ですし、政の人でしょう」
「せやな。でも、百姓の子でもある」
秀吉は、にっこりと笑った。
そのまま足元に手を伸ばし、きちんと整えられた草履を脱いだ。
「わしの政は、草履から始まったんや」
そして、ざぶり、と足を踏み入れる。
泥の冷たさ。
踏みしめた足の下から、じんわりと力が返ってくるような感触。
「うわっ……やっぱ冷た!」
「殿下、慣れない足やろ、滑るで!」
「わし、田んぼ歩くの十年ぶりやからな!」
農夫たちの笑い声が起こる。
やがて、ねね・おしの・お濃・千鶴も駆けつける。
「なにやってんのあんた!」
「政の視察とは聞いてましたが、まさか泥んこ調査とは」
「……湯、沸かしておきます」
千鶴の言葉に、なぜか皆が笑った。
◆ ◆ ◆
それは、ほんの数分だった。
秀吉が泥に足を入れた。
ただそれだけで、農夫たちの目が変わった。
「わしらの田に、殿下が……」
「“わしらの”……やと」
「うん。“殿下の田”でも“役所の”でもない。
“わしらの田”って、初めて言えた気がする」
◆ ◆ ◆
その夜。
湯あがりの広間。
ねねがぽつりと呟いた。
「うち……考えてもうたわ」
「なにを?」
「“殿下にふさわしい女”って、なんなんやろう、って」
おしのも、うなずく。
「墨俣のときは、世話ができればええと思ってた。
でも、今日みたいな姿見てたら──あの人は、もっと遠く行く気がする」
「隣におるには、並ぶ覚悟が要るんやな」
お濃が、香を焚きながら呟いた。
「どの“距離”で支えるのが、一番“あの人の力”になるんやろうね」
千鶴は無言で、お茶を注ぎ、三人の前に置いた。
──答えはまだ出ない。
でも。
誰もが心のなかで、自分の“立ち位置”を見つめ始めていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
城下の広場には、こんな噂が飛び交っていた。
「殿下、泥に入って農具も直してくれたらしいで!」
「墨俣でも同じように“靴脱いで歩いた”ってよ!」
「そら、ほんまもんやな。あの人は」
“草履を脱いだ殿下”の姿は、たった一日のうちに小牧じゅうに広がり、
「この男は違う」という熱気が、民の胸にじんわりと根づき始めていた。
泥のぬくもりは、やがて政の信頼へ──
藤吉郎の歩む道が、またひとつ、確かに踏みしめられた瞬間だった。
だが、その冷えた空気のなかに、少しずつあたたかさが差し込み始めていた。
「……ほんまに、田に入るんですか、殿下」
田植えを控えた村外れの田んぼ。
老いた農夫が、まだ湿りの残る泥を見つめながら問うた。
「そや」
「殿下は武家ですし、政の人でしょう」
「せやな。でも、百姓の子でもある」
秀吉は、にっこりと笑った。
そのまま足元に手を伸ばし、きちんと整えられた草履を脱いだ。
「わしの政は、草履から始まったんや」
そして、ざぶり、と足を踏み入れる。
泥の冷たさ。
踏みしめた足の下から、じんわりと力が返ってくるような感触。
「うわっ……やっぱ冷た!」
「殿下、慣れない足やろ、滑るで!」
「わし、田んぼ歩くの十年ぶりやからな!」
農夫たちの笑い声が起こる。
やがて、ねね・おしの・お濃・千鶴も駆けつける。
「なにやってんのあんた!」
「政の視察とは聞いてましたが、まさか泥んこ調査とは」
「……湯、沸かしておきます」
千鶴の言葉に、なぜか皆が笑った。
◆ ◆ ◆
それは、ほんの数分だった。
秀吉が泥に足を入れた。
ただそれだけで、農夫たちの目が変わった。
「わしらの田に、殿下が……」
「“わしらの”……やと」
「うん。“殿下の田”でも“役所の”でもない。
“わしらの田”って、初めて言えた気がする」
◆ ◆ ◆
その夜。
湯あがりの広間。
ねねがぽつりと呟いた。
「うち……考えてもうたわ」
「なにを?」
「“殿下にふさわしい女”って、なんなんやろう、って」
おしのも、うなずく。
「墨俣のときは、世話ができればええと思ってた。
でも、今日みたいな姿見てたら──あの人は、もっと遠く行く気がする」
「隣におるには、並ぶ覚悟が要るんやな」
お濃が、香を焚きながら呟いた。
「どの“距離”で支えるのが、一番“あの人の力”になるんやろうね」
千鶴は無言で、お茶を注ぎ、三人の前に置いた。
──答えはまだ出ない。
でも。
誰もが心のなかで、自分の“立ち位置”を見つめ始めていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
城下の広場には、こんな噂が飛び交っていた。
「殿下、泥に入って農具も直してくれたらしいで!」
「墨俣でも同じように“靴脱いで歩いた”ってよ!」
「そら、ほんまもんやな。あの人は」
“草履を脱いだ殿下”の姿は、たった一日のうちに小牧じゅうに広がり、
「この男は違う」という熱気が、民の胸にじんわりと根づき始めていた。
泥のぬくもりは、やがて政の信頼へ──
藤吉郎の歩む道が、またひとつ、確かに踏みしめられた瞬間だった。
10
あなたにおすすめの小説
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
劉禅が勝つ三国志
みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。
蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。
私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。
ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。
ときは建安十二年(207年)。
蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。
第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。
第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。
第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。
第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。
女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』
コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ”
(全20話)の続編。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211
男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は?
そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。
格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる