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『落ちてきた自分』
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午前七時二十八分。
平日、駅の三番ホーム。
僕はいつもどおり、電車を待っていた。左耳にイヤホンを差し込み、右耳だけ空けてアナウンスを聞く。手にはコンビニで買った紙パックのコーヒーと、会社のIDカード入りの首掛けホルダー。ネイビーのジャケットにチノパン、黒いリュック。髪は昨夜ワックスで整えて寝たせいで、やや寝癖が残っていた。
──いつも通りだった。今日までは。
最初に、異変を感じたのは、
風の音が“途切れた”時だった。
ザワッと風が吹き抜けたあと、不自然なほどに空気が静まり返った。まるで、街全体が息をひそめて、何かを見守っているような──そんな気配だった。
「……え?」
目の端に、なにかが“落ちる”影が見えた。
思わず首をめぐらせると、視線の先──ホームの反対側の線路に、人が倒れていた。
だれかが「人が落ちた!」と叫んだ。
人が集まる。警笛が鳴る。駅員が駆ける。
そして。
僕は、その倒れた人を、見た。
──いや、“見てしまった”。
血を流して、顔を伏せたまま動かないその人は……
服も、髪型も、リュックも、靴の汚れまで──
完全に、“僕”だった。
◆
救急隊が来て、線路の下から遺体を引き上げた。駅員がスクリーンを立てて周囲を隠す。人々はざわめき、スマホを向け、あるいは目をそらす。
僕は、遠巻きにその様子を見ていた。
足がすくんで、呼吸が浅くなる。汗が首筋を伝う。
心臓が痛いほど脈打っていた。
「……あれ、俺、じゃないのか?」
自分で言っておいて、意味が分からなかった。
あれが“自分”なはずがない。ここに“僕”は立っている。なのに、倒れているその人間は──まったく同じ顔、髪型、服装、持ち物だった。
あり得ない。そんなこと。
双子? ドッペルゲンガー? イタズラ?
……いや、それ以前に、
あんな“自分の死体”を見たという事実が、常軌を逸していた。
◆
会社には遅刻を連絡し、とりあえず帰宅した。
電車には乗らなかった。乗れるわけがない。
部屋に着いて、玄関の鍵を三重に閉めた。
シャツを脱ぎ、鏡の前に立ち、髪を確認した。顔をまじまじと見つめた。リュックの中身も確認した。財布、ノートPC、タブレット……全部、自分のものだった。
スマホを握りしめ、ニュースを検索する。
「駅で男性が転落し死亡」
「通勤ラッシュ直撃、電車遅延」
……顔写真も名前も出ていない。
目撃者情報も、「男性」「30代くらい」程度。
つまり、警察も本人確認できていないということ。
じゃあ……あれは……やっぱり……
その時。
スマホが鳴った。
番号は非通知。
嫌な予感がして、出ようか迷った。だが、指が勝手に通話ボタンを押していた。
「──もしもし」
「……おまえさ、今、死んだだろ?」
鼓膜が痺れるような声だった。
自分の声に、似ていた。いや、むしろ……まったく同じだった。
◆
その日以降、世界の“歯車”が少しずつ狂い始めた。
エレベーターで隣人と会えば、
「……さっきもいましたよね?」と首を傾げられた。
会社の先輩には、
「お前、二人いる? さっきトイレで会ったばかりだぞ」と笑われた。
コンビニのレジでは、
「え? さっき、タバコ買ってませんでした?」と怪訝な顔。
気味が悪くてたまらなかった。
全部“僕”じゃない。“僕”は、ただ一人しかいない。
なのに、世界が少しずつ、“二人いる前提”で僕を扱い始めている。
その“もう一人の自分”が、まるで当然のように、日常に溶け込んでいる。
ある晩、マンションの外階段を上がろうとしたときだった。
上の階の踊り場で、なにかの“気配”を感じた。
電灯に照らされた廊下。
そこに、背中を向けて立つ男の姿があった。
──痩せた背中、黒いリュック、ネイビージャケット。
──左肩が少しだけ下がっている癖も、髪の分け目も……
それは、明らかに“僕自身”だった。
「……おい」と声をかけた。
その“僕”は、ゆっくりと振り向いた。
──顔は見えなかった。
──けれど、わかった。確信した。
あれは、“落ちて死んだ”はずの自分だ。
だけど、笑っていた。唇の端だけを吊り上げて。
◆
それからも、“もう一人の自分”は、
すべての場所に現れた。
駅のホームに、反対側のホームで。
オフィスビルのガラスに、すれ違う一瞬の姿で。
果ては、自宅マンションの窓の向こうに──自分が“こちら”を覗いている。
彼は何も語らない。何もしない。
ただ、じっと見つめている。
まるで、世界の裏側から「お前の居場所はもうない」と告げているかのように。
僕は、誰とも目を合わせなくなった。
誰とも言葉を交わさなくなった。
怖いのは、もう“他人の異変”じゃない。
怖いのは、自分が“もう一人の自分”を意識しているということ。
自分が、“二人である”ことに順応し始めているということだ。
昨日の自分の記憶が、少し曖昧だった。
寝る前、スマホのロック解除が一発で通らなかった。
PCのログイン履歴に、見覚えのない時間があった。
……じゃあ、そのとき僕はどこにいた?
誰が、何をしていた?
──“どっちの僕”だった?
◆
そして、ある朝。
玄関に置かれていたスニーカーが、
“左右で微妙にサイズが違っていた”。
僕は、固まった。
見たこともない靴じゃない。僕の靴だ。
でも、右だけが、少しだけ窮屈だった。
鏡の中の顔が、なんとなく違って見えた。
生え際の形? 瞳の色? いや、そんなものじゃない。
──これは、僕じゃない。
──“もう一人の僕”の方が、入ってきたんだ。
リビングの机の上には、
使った記憶のないマグカップと、
飲みかけのコーヒーが置かれていた。
その匂いを嗅いだ瞬間、
背筋が冷たくなった。
──あの紙パックコーヒー。
──駅のホームで、死んだ“あの日”の朝に買った、あれと同じ匂いだった。
僕は、咄嗟に玄関へ駆けた。
扉を開け、廊下を走る。
階段を駆け下り、マンションの外へ。
呼吸が荒い。肺が熱い。頭が混乱している。
でも、止まらなかった。
逃げなきゃ。自分から。自分を殺さなきゃ。
──そして、駅のホームへ。
あの日と同じ時間。
同じ場所に、僕は立った。
電車の風が吹き抜ける。
その時、背後から声がした。
「もう、お前じゃないだろ」
振り向く。
そこにいたのは、間違いなく“僕”だった。
もう一人の僕は、笑っていた。
いつものスーツ、整えた髪、リュック。
でも、その目は、“生きている者の目”だった。
逆に、僕の目の奥は──“死んでいた”。
「だからさ、そろそろ……落ちてくれよ」
目の前が、暗くなる。
足が宙を掴んだ。
そして、次の瞬間──
世界が、僕を受け入れなくなった。
平日、駅の三番ホーム。
僕はいつもどおり、電車を待っていた。左耳にイヤホンを差し込み、右耳だけ空けてアナウンスを聞く。手にはコンビニで買った紙パックのコーヒーと、会社のIDカード入りの首掛けホルダー。ネイビーのジャケットにチノパン、黒いリュック。髪は昨夜ワックスで整えて寝たせいで、やや寝癖が残っていた。
──いつも通りだった。今日までは。
最初に、異変を感じたのは、
風の音が“途切れた”時だった。
ザワッと風が吹き抜けたあと、不自然なほどに空気が静まり返った。まるで、街全体が息をひそめて、何かを見守っているような──そんな気配だった。
「……え?」
目の端に、なにかが“落ちる”影が見えた。
思わず首をめぐらせると、視線の先──ホームの反対側の線路に、人が倒れていた。
だれかが「人が落ちた!」と叫んだ。
人が集まる。警笛が鳴る。駅員が駆ける。
そして。
僕は、その倒れた人を、見た。
──いや、“見てしまった”。
血を流して、顔を伏せたまま動かないその人は……
服も、髪型も、リュックも、靴の汚れまで──
完全に、“僕”だった。
◆
救急隊が来て、線路の下から遺体を引き上げた。駅員がスクリーンを立てて周囲を隠す。人々はざわめき、スマホを向け、あるいは目をそらす。
僕は、遠巻きにその様子を見ていた。
足がすくんで、呼吸が浅くなる。汗が首筋を伝う。
心臓が痛いほど脈打っていた。
「……あれ、俺、じゃないのか?」
自分で言っておいて、意味が分からなかった。
あれが“自分”なはずがない。ここに“僕”は立っている。なのに、倒れているその人間は──まったく同じ顔、髪型、服装、持ち物だった。
あり得ない。そんなこと。
双子? ドッペルゲンガー? イタズラ?
……いや、それ以前に、
あんな“自分の死体”を見たという事実が、常軌を逸していた。
◆
会社には遅刻を連絡し、とりあえず帰宅した。
電車には乗らなかった。乗れるわけがない。
部屋に着いて、玄関の鍵を三重に閉めた。
シャツを脱ぎ、鏡の前に立ち、髪を確認した。顔をまじまじと見つめた。リュックの中身も確認した。財布、ノートPC、タブレット……全部、自分のものだった。
スマホを握りしめ、ニュースを検索する。
「駅で男性が転落し死亡」
「通勤ラッシュ直撃、電車遅延」
……顔写真も名前も出ていない。
目撃者情報も、「男性」「30代くらい」程度。
つまり、警察も本人確認できていないということ。
じゃあ……あれは……やっぱり……
その時。
スマホが鳴った。
番号は非通知。
嫌な予感がして、出ようか迷った。だが、指が勝手に通話ボタンを押していた。
「──もしもし」
「……おまえさ、今、死んだだろ?」
鼓膜が痺れるような声だった。
自分の声に、似ていた。いや、むしろ……まったく同じだった。
◆
その日以降、世界の“歯車”が少しずつ狂い始めた。
エレベーターで隣人と会えば、
「……さっきもいましたよね?」と首を傾げられた。
会社の先輩には、
「お前、二人いる? さっきトイレで会ったばかりだぞ」と笑われた。
コンビニのレジでは、
「え? さっき、タバコ買ってませんでした?」と怪訝な顔。
気味が悪くてたまらなかった。
全部“僕”じゃない。“僕”は、ただ一人しかいない。
なのに、世界が少しずつ、“二人いる前提”で僕を扱い始めている。
その“もう一人の自分”が、まるで当然のように、日常に溶け込んでいる。
ある晩、マンションの外階段を上がろうとしたときだった。
上の階の踊り場で、なにかの“気配”を感じた。
電灯に照らされた廊下。
そこに、背中を向けて立つ男の姿があった。
──痩せた背中、黒いリュック、ネイビージャケット。
──左肩が少しだけ下がっている癖も、髪の分け目も……
それは、明らかに“僕自身”だった。
「……おい」と声をかけた。
その“僕”は、ゆっくりと振り向いた。
──顔は見えなかった。
──けれど、わかった。確信した。
あれは、“落ちて死んだ”はずの自分だ。
だけど、笑っていた。唇の端だけを吊り上げて。
◆
それからも、“もう一人の自分”は、
すべての場所に現れた。
駅のホームに、反対側のホームで。
オフィスビルのガラスに、すれ違う一瞬の姿で。
果ては、自宅マンションの窓の向こうに──自分が“こちら”を覗いている。
彼は何も語らない。何もしない。
ただ、じっと見つめている。
まるで、世界の裏側から「お前の居場所はもうない」と告げているかのように。
僕は、誰とも目を合わせなくなった。
誰とも言葉を交わさなくなった。
怖いのは、もう“他人の異変”じゃない。
怖いのは、自分が“もう一人の自分”を意識しているということ。
自分が、“二人である”ことに順応し始めているということだ。
昨日の自分の記憶が、少し曖昧だった。
寝る前、スマホのロック解除が一発で通らなかった。
PCのログイン履歴に、見覚えのない時間があった。
……じゃあ、そのとき僕はどこにいた?
誰が、何をしていた?
──“どっちの僕”だった?
◆
そして、ある朝。
玄関に置かれていたスニーカーが、
“左右で微妙にサイズが違っていた”。
僕は、固まった。
見たこともない靴じゃない。僕の靴だ。
でも、右だけが、少しだけ窮屈だった。
鏡の中の顔が、なんとなく違って見えた。
生え際の形? 瞳の色? いや、そんなものじゃない。
──これは、僕じゃない。
──“もう一人の僕”の方が、入ってきたんだ。
リビングの机の上には、
使った記憶のないマグカップと、
飲みかけのコーヒーが置かれていた。
その匂いを嗅いだ瞬間、
背筋が冷たくなった。
──あの紙パックコーヒー。
──駅のホームで、死んだ“あの日”の朝に買った、あれと同じ匂いだった。
僕は、咄嗟に玄関へ駆けた。
扉を開け、廊下を走る。
階段を駆け下り、マンションの外へ。
呼吸が荒い。肺が熱い。頭が混乱している。
でも、止まらなかった。
逃げなきゃ。自分から。自分を殺さなきゃ。
──そして、駅のホームへ。
あの日と同じ時間。
同じ場所に、僕は立った。
電車の風が吹き抜ける。
その時、背後から声がした。
「もう、お前じゃないだろ」
振り向く。
そこにいたのは、間違いなく“僕”だった。
もう一人の僕は、笑っていた。
いつものスーツ、整えた髪、リュック。
でも、その目は、“生きている者の目”だった。
逆に、僕の目の奥は──“死んでいた”。
「だからさ、そろそろ……落ちてくれよ」
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